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  団長を退任しましたが このページ は存続させて
    いただきます                          花岡 亜光


 
   目 次 (タイ トルをクリックすると記事へジャンプします)

黒毛のアン・その後 2018/01/16
万里子のおじいちゃん・・・・年齢と老い 2017/01/11
智恵子抄「或る夜のこころ」に寄せて 2016/08/22
膝にばい菌が入りまして 2015/01/28
黒毛のアン 2014/09/26
キョウイクとキョウヨウ 2014/01/31
レクイエムを歌うために信仰は必要か 2014/01/11
タリス・スコラーズとアレグリのミゼレーレ 2013/08/04
10 things to learn from Japan・・・・日本から学ぶ10のこと
2013/03/06
故郷はどこに?
2012/06/15
7時間の不在・・・・手術体験 記 2012/04/27
聖トーマ ス教会合唱団のマタイ受難曲BWV244 2012/03/06
「おめでとう」と"HAPPY NEW YEAR !!" 2011/12/25
モーツァルトとレクイエムとフリーメーソン 2011/12/05
ゴルトベルク変奏曲 2011/11/14
老い六歌仙 2011/10/01
9.11――――あれから10年 2011/09/18
ちょっと英語を・・・・マヨネーズやらケチャップやら 2011/08/30
オーストラリア 2011/07/07
青い花雑記 2011/06/13
憂鬱な五月 2011/05/26
惜別・渡辺政雄君 2011/04/16
春の挫折 2011/03/31
一月 2011/01/10
華氏マイナス27度 2010/12/20
カルミニョーラとヴェニスバロックオーケストラ(VBO) 2010/11/29
10月――ベスの命日月に 2010/10/08
モーツアルト・レクイエムを歌う 2010/09/23
あれから65年―――胃弱少年の来し方 2010/08/15
ジン(Gin)とウォッカ(Vodka) 2010/04/21
樫本大進・・・・・・バッハその2 2010/02/23
ブランデンブルグ協奏曲-----バッハその1 2010/02/21
高速道路で180度スピン 2010/02/11
年の初めに---老人の一年はなぜ短いのか--- 2010/01/22
はじめまして 2010/01/17



 

黒毛のアン・そ の後 (2018/01/16)


   今年は戌年ですので、我が家の年賀状ではアンに挨拶をさせました。2014年6月にアンが当家に来た時のことは「黒毛のアン」と題して書きました。あれか ら早や3年半が経過。その間アンは、たまに食欲不振に陥り心配させることもありましたが、概ね元気に、オキャンぶりをいかんなく発揮して、我が家の御姫様 ぜんと振る舞っております。一方我が家の人間構成は、老夫婦は変わらず馬齢を重ねるばかりですが、アンの名付け親の孫娘が出てゆき、代わりに一昨年4月か ら高校生の孫息子が同居するという、変化をしました。
 犬は一般に、他の動物もそうなのでしょうが、本能に基づく感覚そのままに、自己中心主義で行動するものだと思います。他者に対する闘争心とか競争心は希 薄 なように見えます。ただ対象を独占したいという欲望はあるみたいです。例えば老妻に他の犬がじゃれ付こうとすると、自分が先に膝に絡みつこうとします。こ れを第三者との競争心と考えるのはちょっと違うような気がします。単に老妻は自分のものという自己中の現れだと思います。
 私をびっくりさせたアンの行動の一つは、庭に散水しているホースのノズルに飛びつくことです。何回でも狂ったようにジャンプを繰り返しずぶ濡れになって し まいます。何がそんなに彼女を興奮させるのか、吹き出す水の動きがそうさせるのでしょうか。噴水を見たらどうするのでしょう。以前飼っていたシェルティは 水が苦手で散水などには近づかなかっただけに、アンに就いての驚きの発見です。
 もうひとつはストーヴ大好きの習性です。昔人間の私は「そこが好きなのは猫で、おまえは庭で駆け回れ」と思うのですが、昔の文部省唱歌による思い込みで し た。
 「雪」
 雪やこんこ霰やこんこ
 降っても降ってもまだ降りやまぬ
 犬は喜び庭駈けまはり
 猫は火燵(こたつ)で丸くなる
 これは1911年(明治44年)初出の尋常小学唱歌の2番の歌詞です。作詩作曲者不詳とのことですが、事実とはちょっと違った描写のようです。アンは朝 飯 を貰って直ちに庭にでて用を足すや否や脱兎のごとくガスストーヴに殺到して、温風に毛をたなびかせて丸くなるか横に伸びてるか犬座りをして、じっと暖を とっています。犬座りのときは時に座卓に顎を乗せています。ご近所の犬も同じだと聞きますと、アンだけがコタツ派なわけでもなさそうです。
 さてその朝飯ですが(夕食と1日2回)、所謂ドッグフードを食べます。一体ドッグフードとはなんだろうと、これを書くために調べてみました。原材料は、 鶏、七面鳥、トウモロコシ、米、大麦等々、多種多様な栄養素が記載されており、原産国フランスとも書かれており、ちょっと笑ってしまいました。犬の落し物 が街角の至る所に放置されているあの国で製造されているドッグフードをなぜわざわざ輸入しているのか。その点我が国はきれいですね。足元を気にせずウォー キングできます。
 ところでアンの雑食振りに就いて。定番ドッグフードはさておき、何でも口にします。庭ではミミズ、トカゲ、カマキリ、蝉、カタツムリ、老妻が折角植えた 花、特にパンジー、等々。人間の食物では、チーズ、ソーセージ、ハム、ちくわ、かまぼこ、牛肉、豚肉、果物等々。やってはいけないといわれている玉ねぎと チョコレート以外何でもござれです。つまり見境なく何でも食うので、私は犬には味覚は無いのではと疑っています。唯一食べないのは医者に処方された錠剤。 何とか飲ませようとチーズに埋め込んでも薬だけよけるのです。ここは知恵比べでだましだましの世界です。
 犬の嗅覚が鋭いことは周知ですが、テレパシーのような勘があるのは不思議です。例えば自分は室内にいて見えないし匂いもしないはずなのに、庭を隔てた前 の 道を通る好きな人とか好きな犬は判るらしく、室内から吠えるのです。尚アンが吠えるのは威嚇ではなくて、「寄っていって」と誘っているのです。或いは車で 外出した老妻が帰って来る気配を、車の音に私は気づいていないのに、アンは察することができるようです。車の到着前に門に駆け寄って短い尻尾(生まれた時 に切られています)を振っています。健気な奴です。
 この2年弱新しく当家に居候をしている孫息子とは、正に相思相愛の仲になり、老人夫婦が見ていて微笑ましい限りです。彼が帰宅して門を開ける音がするや 否 や、私を出してとばかりに玄関ドアに殺到し、出してやると暫し再会の喜びに双方が浸っております。
 昨今AIという言葉を目に或いは耳にしない日はありませんが、アナログ人間の老夫婦にとって、AIとはアイイチバン(愛一番)のことです。その中心がわ が お姫様アンの存在であることは疑いの余地がありません。      (2018 /01/16)

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万里子のおじい ちゃん・・・・年齢と老い (2017/01/11)


   今年の前半に取り上げることになった「風の中で歌う空っぽの子守唄」(中村茂隆作曲・蔵原伸二郎詩)の中で歌われているおじいちゃんに就いて、初演のグ リークラブのメンバーであった私は、そのとき21歳で、単純に誰でもこうなるのかなぁ、と言う程度にしか関心を持てなかった。しかし今じっくり詩を読ん で、「お前の祖父は干乾びて 骨と皮ばかりだ」「お前のおじいちゃんには もぅ 何の夢もない もぅ 何の願いもない 何の希望もない」というような字句 に接すると、表現されている肉体の衰え、また虚無感あるいは諦念の深さに、一体この人はお幾つぐらいの方だろうかという興味をそそられた。
   調べてみてびっくりした。この詩を書かれた蔵原伸二郎さんは、1899年のお生まれで1965年に亡くなっておられる。ということは中村先生が曲を付けら れた1959年には、60歳である。そして蔵原さんから中村先生に宛てられた手紙に「・・・あのときは、私の初孫が生まれたとき、いつも散歩しながら作っ た詩です。その孫も今では6歳になりました。当時、私は体力がひどく衰えまして、今にも消えるかと内心思っていたときで、あんな詩ができてしまったのでし た・・・」とあり、万里子が1959年時点ですでに6歳ということは、作詩当時のおじいちゃんは54〜5歳位ということになる。えらく若いという発見と同 時にそれにしては上記に引用した詩の字句があまりにも「老い」ている、枯れていることに、二重の驚きを禁じ得なかった。
   ところで50歳過ぎで初孫は早いと思いませんか。卑近な例で申し訳ないが私の初孫は54歳の時であった。現代では相当幸運(?)が重ならないと54歳で初 孫は持てないという意識であった。ところが面白い発見がある。天声人語(2017/1/7付け)によると、昭和20年代に連載が始まった漫画「サザエ さん」のお父さんの波平の 年齢設定が54歳だったという。タラオの祖父である。万里子のおじいちゃんよりも10年ほど遡る昔であるが、タラオの祖父たる54歳の波 平さんは元気そのものであったと記憶する。つまり昔は皆今の基準からすれば若くして孫を持ったということであろう。半世紀前の日本では50過ぎで孫を持つ ことは平均的な常識なのである。
   蔵原さんが54~5歳時点で、「死」を意識したかのようなあのような詩を書かれたのは、多分ご病気で相当に消耗されていたからであろうと思われる。つまり 年齢と老いとは、個人差があってまた環境の違いにより、単純には比例しないということの証明であろう。
   というような阿呆らしいことをだらだら考えていたら、高齢者の定義と区分に関する提言に遭遇した。1月6日に日本老年学会・日本老年医学会により発表され た下記の定義提言である。
   65〜74歳  准高齢者 (pre-old)
   75〜89歳  高齢者  (old)
   90歳〜    超高齢者 (oldest-old, super-old)
  上記両学会の合同ワーキンググループは2013年以来高齢者の定義を種々の角度から議論を重ねてきたそうであるが、「近年の高齢者の心身の健康に関する種 々のデータを検討した結果、現在の高齢者においては10〜20年前と比較して加齢に伴う身体的機能変化の出現が5〜10年遅延しており、「若返り」現象が みられています。」として、65歳以上を一括高齢者(74歳までは前期、75歳以上は後期)とする現行の定義に対して、上記の提言を発表した。 六甲男声の平均年齢を運営委員が計算したところ後期高齢者だったという話を昨年末小耳にはさんだが、皆さん万里子の祖父の年齢は遥かに超えてはいるもの の、彼の「老い」はまだまだ遥か先のことのようである。我が団員にも上記に言う「若返り」現象が見られるのではないか。加齢による心身の機能的精神的変化 の出現が遅延しているとすれば慶賀に堪えない。
  私自身も今年は79歳になる。昔流に数えでいえばこの正月で80歳傘寿である。元旦には例年のごとく日の出前に徒歩で多田神社に初詣をし た。往路片道5km 50分。若水で手を洗い、一家の平安を祈念し、酉年の破魔矢を購入する。帰路は最寄駅から電車なので往復合計徒歩は7km程度になろうか。年頭のルーティ ンをひとつ.クリァできたことで乾杯である。
  「老い」は当然加齢とともに万人に訪れる。しかし上に見たように時代により訪れる時期は変化するし、またいつの時代でも個人差はある。年齢と「老い」 に絶対的な相関関係はない。Anti-agingなどと気張る必要はなく、歳相応にどうやってどれだけ長くquality of lifeを維持していけるかがポイントであろう。その維持持続を心がけようと思う。    (2017/1/11)

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智恵子抄「或る 夜のこころ」に寄せて(2016/08/22)


   2016年8月の日本には、「無言の領する夜半」は無いかの如くである。12時間の時差のなせる業で、わが午前零時が丁度彼の地の正午とあって、地球の裏 側で繰り広げられる熱戦に一喜一憂、賑やかな「夜半」の連続であった。
 今年の定演のレパの一つに清水脩作曲による智恵子抄の「或る夜のこころ」が取り上げられることになり、その詩をどう読


  光太郎と智恵子  

めばいいのか手さぐりをしている。 理 解のための定石として、その詩の作られた背景を観てみよう。
 智恵子抄の初版は昭和16年(1941年、以下本稿では西暦に統一する)である。今では 1952年11月作の詩まで、また有名な「うた6首」、「智恵子の半生」なる光太郎自らの筆になる追想録などが付加された一冊になっている。
 光太郎(1883.3.13〜1956.4.2)と智恵子(1886.5.2〜1938.10.5)とが初めて会ったのは1911年12月のことであっ た。即ち光太郎28才智恵子25才である。光太郎はニューヨーク1年ロンドン1年パリ9ヶ月の遊学から1909年に帰国し、当時の日本美術界及び父親にこ とごとく反抗し、「やぶれかぶれの廃頽気分(光太郎自身の言葉)」の生活を送っているころである。一方智恵子は1907年 
に今 の日本女子大を卒業。在学中 は油絵を習い、平塚らいてふ主宰の青鞜の表紙画を描いたこともある、絵画を熱愛するインテリ女 性 であった。
 「或る夜のこころ」は1912年8月の作で、智恵子抄巻頭2番目の詩である。余談ながらこの年は7月までが明治45年で8月


          グロキシニア  

から大正元年である。この年 7 月までに父親に建てて貰ったアトリエが駒込に完成して、智恵子がグロキシニアの大鉢をお祝いに持参した。これがこの詩の書かれた背景である。
  このアトリエが格好の愛の巣になったことは想像に難くない。熱を病める七月の月は智恵子そのものであろう。智 恵子はめらめらと燃える聖なる炎である (「僕 等」という詩の中で「あなたは火だ」と歌っている)。自分はそれを黙して崇拝する拝火教徒である。解いたインド更紗の帯は汗ばんでいる。まるでアッシシュ を吸って覚醒の異 次元を浮遊しているようだ(アッシシュというのは英語ではHashishで、フランス語ではHが発音されない、というのが大隅さんの解 釈。Hashishとは大麻のことである)。「絶ちがたく、苦しく、のがれまほしく、又甘く、去りがたく,堪えがたく」二人は結ばれている。
 そういう夜に「こころよ、めざめよ」とはどういうことか。「こころよ」とこの詩の中でなんと8回も叫ばれている。見えない魔神の傾ける美酒に酔い潰れて はいけない。こころよ眠ってはいけない。創作の意欲が曇ってはならないといっているのだろうか。「智恵子の半生」の中で光太郎は亡き智恵子を想いながら、 「美に関する制作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生まれない。(中略)自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の 人があるといふ意識ほど、美術家にとって力になるものはない」と述べているように、光太郎にとっては、むしろ智恵子の愛の眼こそが創作の意欲をかきたてて くれるのであるから、創作の為に敢えて「こころ」を鼓舞しなければならない理由は無い。
 考えられることは、このまま愛に耽溺することに対する一種の罪悪感ではないかと思われる。前述のごとくこのころの光太郎は、無頼で自堕落で、収入も無 く、半ば自棄の生活をしていた。「こころよ、めざめよ」とは、この無垢の若き女人をこんな生活に巻き込んでよいのかという自制、そして智恵子に対してもこ んな男と一緒になっては後悔するよという諌めではなかったか。光太郎自身の言葉を借りよう。「やがて彼女から熱烈な手紙が来るやうになり、私も此の人の外 に心を託すべき女性は無いと思ふやうになった。それでも幾度か此の心が一時的のものでないかと自ら疑った。また彼女にも警告した。それは私の今後の生活の 苦闘を思ふと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。」(「智恵子の半生」から)
  しかしわがこころは、安楽の床の上で毒虫の甘美な媚薬に酔いしびれ、目覚めない。
  詩は、こころよまだ何か呼び給うことがありますか、もう「無言の領する夜半」ですのに、と終わる。二人は黙して抱き合って眠りにつこうとしている。         (2016/08/22)

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膝にばい菌が入 りまして (2015/01/28)


  いきなり表題で種明かしをしてしまいましたが、現実には疼痛の原因を私が知るのは発症から10日以上経った後です。他人の痛みの顛末なんか面白くも可笑し くないでしょうが、こんなこともあるのだと知って頂ければ幸いです。抵抗力免疫力の弱っている老人には起こりうることだそうです。御同輩ご注意あれ。とい うことで事の次第を読み流して下さい。
   間の悪いことに医療機関が一斉に年末年始の休診に入った12月30日の朝、左膝に激痛があり膝を曲げられない事態が発生しました。構造的な痛さではなく膝 蓋骨の上の表面の鋭利な痛みです。膝がしらが熱をもって腫れています。近くの救急受付のある病院に電話しても、あなたの症状を診られる医者はいませんと、 つれない返事。再診開始の5日まで辛抱するしかないと観念して、熱があり腫れているのだから冷やせとばかりに、保冷材の凍ったのをハンカチで包んで膝がし らにあて、左脚を低いテーブルに乗せてひたすら動かない体勢を維持するのみです。但し保冷材の効果はありませんでした。痛みのある時は血圧も上がるよう で、私は普段から高いので毎朝起き抜けの血圧を記録していますが、30日は178/96、31日173/90、1月1日175/90,2日162/86と なっています。その間トイレに座るも立つも必死の思いですし、階段は右脚一本での体重移動です。この痛みの正体は一体何だろうと素人の憶測は際限がありま せん。膝蓋骨にひびでもはいったのだろうか。いや打撲の記憶もないしそれはなかろう。これがリューマチというものなのか。痛風かも知れない。などなど。そ して浴室でふと気づいたのですが、膝がしらだけでなく、つま先まで左脚全体が腫れているのです。
   今年はラッキーセヴンが二つ重なる77回目のお正月なのになんとアンラッキーなことかと暗澹たる気分で迎えたお正月でしたが、結果的には人の出入りの賑や かに気がまぎれて、痛いことは痛いものの膝一点でしたから左程ミゼラブルに落ち込むことはありませんでした。
   元日は何時もなら暗いうちに家を出て片道5kmを歩いて多田神社にお参りするのが通例なのですがそれが出来ないのを恨みました。しかし朝うまい酒を頂き年 賀状で友人知人の近況に思いをはせ、午後はウィーンフィルの衛星中継を観ました。ウィーンフィルも女性奏者が増えたなと時代の変化を感じました。演奏その ものは低調でしたが、ピッコロ奏者が飛び切りの美人でカメラも彼女に集中なので、こちらもそれを大いに楽しみました。2日は息子や娘、その連れ合い、孫 や、家内の甥一家まで加わり、総勢15人のディナーになり、暫し膝痛も忘れ盛り上がりました。赤ワイン3本、4合瓶の日本酒2本が空き、更にシングルモル トのオンザロックを飲んでいる御仁もいました。4日には痛みが大分和らぎました。
   そして待望の5日。診察開始の行きつけの整形外科に。休み明けで混むのは覚悟の上でしたが、1時間半待ちで診てもらうことが出来ました。見立ては痛風又は 感染症ということで、検査の為に採血、感染症対応で抗生物質の処方を受けました。7日七草粥を頂いて、朝の日課である20分のウォーキングと30分のバイ クに挑戦しました。多少膝に違和感はあるものの、無事完結しました。階段の昇りは普通に左右交互に脚が出るようになりましたが、降りるときはまだ左ひざを 曲げるのが怖く右脚一本の体重移動しかできません。
    10日に整形外科を再受診。血液検査の結果、痛風の原因になる尿酸値は基準値で6.5でしたが、血中蛋白が基準値0.3以下に対して1.4でした。発症後 7日目でこの数値ですから発症時はもっと高かった可能性があります。この蛋白というのは体内に炎症反応や組織の破壊が起きているときに血液中に現れる蛋白 (CRP)でこれが基準値を超えていることは炎症を証明しており、私のケースは膝蓋骨と皮膚の間にある滑液包が細菌感染して炎症を起こした「膝蓋前滑液包 炎」だという結論です。滑液包は体中の関節部分にある組織で、その機能は関節の摩擦を軽減したり関節の可動範囲を最大にすることです。しかし外傷もないの になぜそんなところが細菌感染するのかと疑問を呈した私に先生曰く、空気中の細菌が肺から血流に乗って患部に到達したのでしょうとのことです。抵抗力免疫 力の弱い子供や老人にはありうることのようです。私の先生自身も左ひじの滑液包に同様の感染症を患って40度の熱が出た経験がある由でした。
   お蔭で現在は通常の生活に戻っております。  (2015/1/28)

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黒毛のアン(2014/09/26)


   15年前に飼い犬が死んだときに、新しい犬は自分たちの死後に残すことになって不憫だから飼うまいと妻と決めていたのですが、 今回ひょんなことから孫のたっての希望で、子犬をもらうことを黙認することになりました。私はもともと小型のミニチュァ愛 玩犬は好きではないのですが、うちのコミュニティで今年4月にシュナウザーの子犬を6匹も生ませた家があり、広島の実家で飼 っているシュナウザーを孫がたまに我が家の庭で遊ばせているのを見ていたらしくて、我が家に眼をつけて貰ってくれないかと いう話になったらしいのです。
   上記の孫とは私たちの初孫で、2012年4月に実家を離れてそれ以来我が家に居候をして京都にある女子大に通学しています。 子犬は雌のミニチュァシュナウザーで6月に我が家の一員になりました。
   シュナウザーはSchnauzerと書きますが、Schnauzeとはドイツ語で鼻口という意味です。ジャイアントサイズ、スタンダードサイズ がいてそれらはもともとドイツ南部に起源する牛や羊の牧場犬だったようです。Schnauzer=鼻口犬?というだけあって鼻口部分に 特徴があり見事な髭のせいで顔が四角く見えます。「あぁあのお爺さんみたいな犬?」といわれたりします。うちのは口許から下顎、 四肢内側から足先、見事な長い眉毛が白に近い灰色ですがそれ以外は体中真っ黒です。そうそうお尻に十文字型に白い部分があります。 目も真っ黒な瞳なので遠くから見ると目が無いように見えます。孫がアン(Anne)と名付けました。
   今年は「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子のドラマが人気を呼んだそうですが、孫は「赤毛のアン」にもともと興味があったのか、我が あばら家がグリーンをアクセントカラーにしていることから、Green Gablesと自分で子供の頃にペンキで書いた木札を作って庭に架け ていました。ご存知のように「赤毛のアン」の原題は”Anne of Green Gables”です。かくて黒毛のアンの誕生です。
  英語に”・・・stole the stage”という表現がありますが、6月以来我が家の舞台は完全にアンに盗まれてしまいました。 まだ生後6ヶ月には満たないのですが(体重は目下5.4kg)、庭を縦横無尽に駆け回り障害を飛び越える運動能力は目を見張るものがあります。 人懐っこく誰にでもじゃれつきます。うちの前を散歩するおばさまたちのアイドルです。妻が庭の入ってもらいたくないところに柵を作り ますが何とか潜ったり跳躍したり妻との知恵比べです。何でも齧ります。困るのは私の丹精の芝生を

齧って穴をあけることです。 落葉やソフトボールをくわえて取りに来いと言わんばかりに逃げ回るかと思えば、タオルをくわえて走り回り自分が踏んでしまったり、 タオルを気違いのように振り回してみたり、見ていて飽きません。ところが問題がひとつありました。うちの敷地の西半分のフェンスおよ び門扉が9cm程度の隙間のあるデザインになっていますが、そこをすり抜けられることが判明して、さぁ大変ということになり、急遽針金で 妻と孫がその隙間を埋めました(写真参照)。道路側のフェンスの外側にはサツキの植え込みがありフェンスを抜けたはいいがその植え 込みに体が埋没して身動きできなかったのはお笑いでした。ともかく目が離せません。口をモグモグしているので無理に口をこじ開けると、 かたつむりであったりワインボトルのコルクであったり小石であったり。とにかく舞台「花岡」のヒロインは只今アンさまで、周りは彼女 に振り回されるのを喜んでいるかのようです。
   アンさまの主たる保護者は老妻です。彼女の美質は夫が言うとノロケになるかもしれませんが優しさです。アンが来てから水 を得た魚のごとくまるでひ孫のように世話をしています。お蔭で少し気持ちが若返ったかもしれません。
   (2014/09/26)

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キョウイクと キョウヨウ(2014/01/31)

  もうかなり以前のことになるがあるとき、「天声人語」にこんなエピソードが語られていた。その天声人語子が、ある先輩OBが歳の割にかくしゃくとして顔色 もいいので、その秘訣は何かと問うたところ、キョウイクとキョウヨウだと答えたというのである。教育と教養?なるほど歳をとっても勉強を続けることが若さ を保つ秘訣か、と早合点してはいけない。そのOB氏曰く、「今日行く」ところがある、「今日用」がある、それが老いてなお盛んなることの鍵である!!と。
  六甲男声合唱団ではメンバーの過半が、もうすぐ76歳に手が届く私より年上の先輩シニアである。それでいて元気溌剌若い声を聞かせている。それはこの合唱 団が個々のメンバーに、今日行くべきところを与え、その練習という今日の用を提供して、後期高齢者たちをまさに「光輝」高齢者にしているからであろう。あ りがたいことである。勿論声を出すという行為は体を熱くしてくれるし、楽譜を読むことは脳を刺激するし、合唱は他者とのコミニュケーションのために神経を 緊張させるし、これらは多分団員たちのステイヤングに貢献しているとは思うが、その前にキョウイクとキョウヨウありきということなのである。週1回の練習 以外に、年2〜3回の演奏会、運営委員会など、更にこれが一番大切なのかもしれないが、練習の合間に仲間と馬鹿話ができることも求心力になっている。私に とってはまさに六甲男声さまさまである。
  日本は世界長寿国のトップクラスである。因みに日本人の平均寿命は「厚労省平成22年完全生命表」によれば男性79.55女性86.30である。また日常 生活に制限の無い所謂「健康寿命」は平成22年の研究によれば、男性70.42女性73.62という。つまり平均寿命が長いといっても、平成22年時で男 性は9.13年女性は12.68年日常生活に制限がある期間を余儀なくされている。ポイントは如何に健康寿命を長く生きられるかである。私のケースは平均 寿命に後4年と迫っているが、健康寿命は既に5年オーヴァーということになる。合唱団の仲間も似たようなものか、或いは健康寿命平均を大幅に超えている人 が半分以上であるといえる。我田引水を承知で言えば、キョウイクとキョウヨウが私たちのQOL(生活の質)の低下を防ぎ健康寿命をここまでのばしてくれて いるのかもしれない。
  閑話休題。91歳で新しい漫画エッセイの連載を始めたという水木しげるのテレビインタヴューを観た。インタヴュアー差し入れの好物の饅頭を食べながらのイ ンタヴューで、彼は「元気の秘密は、将来に嫌だと思うことがない、好きなことをやる、好物の饅頭が食える丈夫な胃をもつこと」と言う。思わず笑ったが、確 かに好物を欲しいだけ食い飲める胃をもつことはQOLの最低条件だと同感した。キョウイクとかキョウヨウとか言ってみても自分の足で歩かねば何も始まらな い。五体が動くことが前提なのだ。 
  ところでお前に六甲男声以外にキョウイク・キョウヨウはあるのかといわれるとちょっと困る。強いて言えば、毎朝のエクササイズと春から秋に かけて芝生のケアに汗をかくこと。キョウヨウの一つと言わせてもらう。コンサートを聴きに行く。それはハレのキョウ イク・キョウヨウの日である。昔の職場の先輩や同僚との定期的な食事会・飲み会もその一つかもしれない。飲み過ぎだと妻や孫たちに冷たい視線を向けられる 毎日ではあるけれど、現役を引退して10余年、このスタイルでQOLを落とさずに生きていることを良しとするべきなのであろう。 
  一見言葉遊びのようであるが、「キョウイクとキョウヨウ」とはなかなかうまいことをいうではないか。さすが新聞記者OBのレトリックのセンスだと思う。 (2014/1/31)

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レクイエムを歌 うために信仰は必要か(2014/01/11)

  昨年暮れに我が意を得たりと膝を打つ叙述に接した。「知の逆転」(NHK出版新書)を読んでいたときであった。同書は吉成真由美さんによる在米の知の巨人 たちとのインタヴューをまとめたもので、ジャレッド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、ジェームズ・ワトソン等が登場する。その一人のオリヴァー・ サックス(Oliver Sacks)が語っている。
 ちょっと長いがそのまま引用する。音楽と宗教との関連に就いて。
 『では信仰をもたないことで損をすることがあるか。
   最近95歳で亡くなった素晴らしい指揮者がいましたが、彼は年の暮になるといつもヘンデルのメサイヤアやっていたわけです。彼によるとメサイアというの は、もともとイタリアの卑俗なラヴソングから来ていて、「そもそも神聖な音楽、宗教的な音楽、軍隊の音楽なんていうものはない。あるのはただの音楽だけ で、それがいろいろな状況でさまざまな目的に使われているだけのこと」だというのです。彼は特にブラームスとベルリオーズとヴェルディのレクイエムを好ん で演奏していたのですが、これらの作曲家たちはみな無宗教者であったわけで、宗教の高い感性や想像力を表現するのに、宗教的な信仰は必要ないのだと、いつ も聴衆に説明していました。
 友達のジョナサン・ミラーは毎年、人々が感極まって涙にくれてしまうほど、それはそれは見事なバッハのマタイ受難曲を演奏するのですが、ある 時演奏が終 わったあと、歓喜に震えて涙している聴衆を尻目にこういったのです。「無宗教のユダヤ老人が指揮したにしちゃあ、悪くない出来だったろう」と。』(同書 p160〜161)
   最近95歳で亡くなった指揮者が誰なのか、名前が特定されていれば話はもっと迫力があったのにとは思うが、わざわざ作り事を喋らねばならない必要はなく、 彼の実際の見聞を語っていることは間違いないので、本稿の首題に対する答えとしては十分すぎるほど十分である。オリヴァー・サックスは1933年英国生ま れで、インタヴュー当時はコロンビア大学のメディカルセンター神経学・精神医学教授。音楽を愛し自分の癒しにするだけでなく、パーキンソン病患者に対する 音楽(ビート)の力を意識している人である。因みに上記インタヴューは2010年12月16日に収録されたとある。
   今年はケルビーニ作曲の「男声合唱とオーケストラのためのレクイエム ニ短調」を1年かけて演奏する。レクイエムの歌詞はカソリックのミサの典礼文と、詩篇、マタイによる福音書、ヨハネの黙示録、マルコによる福音書、ルカに よる福音書などなど、新約聖書の字句による。ではその言葉を理解し歌うために信仰を持たねばならないか、即ち信仰はレクイエムを演奏するための必要条件か という問いが発せられる。六甲男声合唱団には敬虔なクリスチャンもいらっしゃるが、私を含めその他大勢はキリスト教徒ではない。
   これを歌うからには詞の、つまりは教会ミサ用語および聖書の字句を理解することが求められるのは当然であろうが、しかし上記の引用は、そのために「宗教的 な信仰は必要ないのだ」と教えてくれている。クリスチャンとしての要件はマリアの処女懐胎とイエスの 復活の二つを信じることとされるらしいが、私たち俗人がレクイエムを歌うためにそれら を信じなければならないことはない。またそうでなければ、レクイエムやミサやオラトリ オなどの宗教曲の名作の数々がこれほどポピュラーに世界中で演奏され、作曲者や演奏者 がクリスチャンであれ非信徒であれ、あまねく多くの聴衆、クリスチャンであれ非信徒で あれ、に感動を与えることにはならなかったはずである。ケルビーニレクイエムも信仰無 きわれわれが歌って過去2 回そこそこの好評を得ており、信仰の不必要を実証していると もいえる、といえば独りよがりと言われるだろうか。11 月の定期演奏会でケルビーニの集 大成を迎えることになるが、信仰をもたない私としては声とフレージングに集中して、皆 様と感動を共有できたらと願っている。
   実はかつて「井上和雄とモツレクを歌う会」を組織した時、「井上さんも教会に行ってか らモツレクを振るべき」という声を聞いて、それがレクイエムと信仰の必要性の関係を考 える契機となり、「モーツァルト・レクイエムを歌う」(グランパTed の書斎2010/09/23 付) で私なりの考えを書いたのだが、今回駄目を押すことができた。(2014/1/11)

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タリス・スコ ラーズとアレグリのミゼレー(2013/08/04)

 われわれの練習でケルビーニのレクイエムを歌う時に井上指揮者が頻繁に「フラットに歌え」と要求する。これは勿論ピッチ を♭に歌えと言うことでは絶対になくて、歌い手の感情移入を排し勝手な思い入れで曲想に強弱濃淡をつけず、楽譜に書かれている通りに淡々と息をつないでレ ガートに歌えと要求されているものと理解している。タリス・スコラーズの歌唱はそのお手本の見事な一例だと私は思う。ルネサンス或いは初期バロックのモ テットはかく歌うべしと示しているのがタリス・スコラーズだと思った。
  タリス・スコラーズ(The Tallis Scholars)は英国のグループで今年創立40周年を迎えたそうで6月に記念日本ツァーをした。関西では6月8日の西宮・芸文センターを皮切りに川 西・みつなかホール、大津・びわ湖ホールの3カ所で演奏した。私は芸文センターで聴いた。(下記写真は6月8日のプログラムの表紙)

   タリス・スコラーズ の名前の由来はThomas Tallis(1505頃〜1585)というイングランドの重要な作曲家の一人で王室礼拝堂の音楽家として活躍したとされる。指揮者で創立者のPeter Phillipsは1972年にオックスフォード大学の奨学生となりルネサンス音楽を研究、今やルネサンスのポリフォニーの研究と演奏の第一人者として高 い評価を受けているとのことである。
 メンバーは10人。ソプラノ4、アルト2(女声1、カウンターテナー1)、テナー2、バス2の構成。当日前半はジョスカン・デプレのパン ジェ・リングァ・ ミサ(8人で4声)を演奏。最初に音叉で音をとっただけで30分の曲を歌いきったのには称賛以外にはなかった。
   さてアレグリのミゼレーレ。作曲のグレゴリオ・アレグリは1582年ローマ生まれ1652年ローマ没の作曲者・司祭である。ウィキペディアによれば 1629年にローマ教皇庁システィーナ礼拝堂聖歌隊に地位を得、没するまでその地位にあった。アレグリ作品で群を抜いて有名なのが「ミゼレーレ」である。 旧約聖書詩篇第51篇(正教会の第50聖詠)の詞に付けられた4声の合唱と5声の合唱の二重合唱である。
   これをタリス・スコラーズは10人で歌う。芸文センターではステージ上に5人(ChorT)、3階のバルコニーに4人(ChorU)、1階客席右手に1人 が配置された。詩篇第51篇は20節に分けられその内偶数節はテノールが独唱、奇数節をChorTとUが交互に歌う。詩篇であるからもともと詠唱の旋律が あったはずで、それが偶数節の単旋律テノール独唱になったのではないだろうか。単純な構成でどの節も同じ音程和音で始まり後半変化する。特にChorUで は装飾音型が美しく変化しソプラノのハイCが歌われる。全体の構成はChorT−ソロ−ChorU−ソロの4節を一括りにそれを5回繰り返す。但し最後の 20節だけが例外でソロではなく前半ChorTの5声、後半T+Uの9声となり終わる。ステージ上の5声はソプラノ2、アルト1、テノール1、バス1。3 階バルコニーの4声はソプラノ2、カウンターテナー1、バス1の構成であった。芸文センターの残響は2秒程度にコントロールされているのでChorTとU が離れていても全く違和感なく聴けたが、残響の長い教会ではどうなるのだろう。ともかく頭上から降り注ぐ音の綾に心静まるひと時であった。Peter Phillipsが言うように曲そのものが単純なだけに演奏次第であることはうなずける。10人の演奏は文句なしに素晴らしかった。
   残響といえば、ちょうど10年前の今頃、冷房の無いパリの猛暑のなか、残響の長いサン・シュルピス聖堂で苦労して歌ったドゥオーパのミサを思い出す。
   ところでアレグリのミゼレーレといえば、モーツァルトのエピソードは避けて通れない。 この曲はローマ教皇庁により複写を禁じられ、システィーナ礼拝堂の門外不出の秘曲であった。ところが1770年、当時14歳のモーツァルトが父親に連れら れてローマを訪れた際、2度聴いた記憶をもとに記譜し、これがこの秘曲が門外に出るきっかけとなったと言われる。  (2013/08/04)

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10 things to learn from Japan・・・・日本から学ぶ10のこと(2013/03/06)

今年も3月が巡ってきた。3月は個人的には自分の誕生月なので格別であるのは 当然として、悲惨な災害が発生する月でもあ る。古くは7歳の3月。東京では 10万人以上が亡くなった10日の大空襲。私の単身疎開の契機となった13〜14日の大阪大空襲。そして記憶に新しい3・11。その3・11直後に、私は 最近まで知らなかったのだが、表題のタイトルのメールが世界銀行やIMFのスタッフの間で読みまわされていたそうである。グーグルを検索して下記の詠み人 (?)知らずの作文を見つけた(拙訳)。


 1 THE CALM--- Not a single visual of chest-beating or wild grief. Sorrow itself has been elevated.
    冷静・・・大袈裟に騒いだり嘆き叫ぶ人は一人もいない。ただ悲しみがこみあげていた。
 2 THE DIGNITY---Disciplined queues for water and groceries. Not a rough word or a crude gesture.
    威厳・・・飲料水や食品への規律ある待ち行列。粗野な言葉や粗雑な行動は皆無。
 3 THE ABILITY---The incredible architects, for instance. Building swayed but didn’t fall.
    能力・・・例えば信じがたいほど有能な建築家たち。ビルは揺れたが倒壊しなかった。
4 THE GRACE---People bought only what they needed for the present, so everybody could get something.
    品格・・・人々は自分のために買いだめ買占めしなかった。従って誰もが何かを手に入れることができた。
 5 THE ORDER---No looting in shops. No honking and no overtaking on the roads. Just understanding.
    規律・・・店で略奪はなく、路上でやたらクラクションを鳴らしたり追い越しをしない。みんな判っている。
6 THE SACRIFICE---Fifty workers stayed back to pump sea water in the N-reactors. How will they ever be repaid?
   犠牲・・・原子炉に海水をポンプで注入するために決死の覚悟で現場に留まった50人。彼らは報われることがあるのだろう 

   か。
 7 THE TENDERNESS--- Restaurants cut prices. An unguarded ATM is left alone. The strong cared for the weak.
    優しさ・・・レストランは値下げした。ATMは警備なしで放置されている。強者が弱者を世話していた。
 8 THE TRAINING---The old and the children, everyone knew exactly what to do. And they did just that.
   訓練・・・老若男女全てが何をすべきか知っており、淡々とすべきことをやっていた。
9 THE MEDIA---They showed magnificent restraint in the bulletins. No silly reporters. Only calm reportage.
   メディア・・・報道には素晴らしい抑制があり、馬鹿な記者はいない。冷静なルポルタージュのみがあった。
10 THE CONSCIENCE---When the power went off in a store, people put things back on the shelves and left quietly. 
     良心・・・店が停電したとき、人々は商品を棚に戻し、静かに店を後にした。
Truly Inspirational---what is happening in the Land of the Rising Sun.
 実に鼓舞される・・・日出ずる国で起こっていること。


  2年たっても復興の進まない現地、終息に程遠い原子炉を知る者にとっては、いささかきれいごと過ぎるにせよ、鎖国開国以来多くの外国人が称賛したこの国の 庶民層に対する賛辞の一つと受け止めれば気持ちの悪いものではない。
   閑話休題。身の回りの3月である。4日の朝今年の初音を聞いた。まだ啼き出したばかりの若鶯だろう。形の整わない啼き方であったが、春の先駆けの象徴とし てこれに勝るものはない。芝生はまだ枯れており、クロッカスの黄色パンジーの紫ぐらいが数少ない彩の庭ではあるが、ライラックや雪柳や菩提樹の枝が何とは なしに緑がかって見える。近づいてよく見ると小さな芽の息吹である。光も心なしかつややかになった。3月になった途端に心が浮き立つようである。なにしろ 今年の2月は寒かった。気象庁によれば28日の内19日が平均気温を下回ったそうで、特に後半2週間ほどは連日平均以下だったというから、カレンダーの1 枚の違いが私の心に脱2月の安堵の灯をともしたとしても不思議ではない。
   ところがである。今年の誕生日には「後期高齢者被保険証」なるものを交付されたのである。周りには春が近づいているというのに、お前の人生は玄冬で青春は 戻らないよと念を押されたわけである。先だって飲み仲間たちと「光輝」高齢者だと気炎をあげてみたものの、所詮強がりである。言葉が出ない。体の根幹に力 が無い。先日お土産にカラスミを頂戴した。妻に酒を飲むからあぶってくれというのに、アレ、あれ、というだけで言いたい言葉が出ない。妻にカラスミ?とい われる始末。これはほんの1例で、見事に75歳である。逆立ちしても光り輝くのは無理ですよと自分の体が教えてくれている。
   せめて全ての3月が光り輝くように。White Christmasに詞を借りれば”May all March days be bright”というところである。(2013/3/6)

                        

故郷はどこに?(2012/06/15)

   普通故郷といえば本籍地か出生地かをいうのだろう。私の本籍は兵庫県西脇市にある。しかし生まれたところは神戸市。生ま れ てから結婚するまで、西脇に住んだ小学2年から高校卒業までの11年の中断を除いて、17年間神戸に住んでいた。西脇に移住したのは自分の意志ではなく B29の爆撃が激化してきたからであった。1945年3月に大阪大空襲があり家の前の防空壕で燃え盛る大阪の空を一夜まんじりともせず見たことは今でも忘 れられない。それがきっかけで私だけが単身一足先に祖父母のもとに疎開。そして同年6月5日東神戸大空襲で家族も焼け出されたわけである。今月は丁度その 67周年である。
  たまたま先日の日経新聞(2012/6/10付)の文化欄に木田元氏が「『故郷』をめぐって」と題するエッセーを寄稿しており、私も自分の故郷に就いて思 いを巡らす契機となった。木田氏自身は自らの人生を振り返って、「結局安んじて『わが故郷』と呼べるようなところは、どこにもなかったことになりそうだ」 と述べている。彼の言葉を借りると、「『故郷』というのは、自分がかってそこに包みこまれ育まれていたところ、自分の存在がそこに根差し、いわば臍の緒の つながっているところ」といかにも哲学者らしい言及をした上で、「都会に生きる近代市民は、原理的に故郷とのきずなを失い、異郷(都会)を放浪する故郷喪 失者だ」と言う。
  「兎追いしかの山、小鮒釣りかの川」を故郷の象徴とすれば、西脇では水田の畦の間の水路で小鮒をすくったし、野原でキリギリスを捕まえたりもした。中高を 通じてのライバルや恋心に胸をこがしたひとも懐かしい思い出ではあるが、高校卒業とともに皆都会に離散してしまい、今では年に1〜2度両親の墓参に行くの みとなった。誕生地の神戸では、物心がついて疎開するまでは、幼心なりに心からの友だちであった飼い犬が突然保健所に供出されたり、警戒警報におびえた通 学などの面白くない思い出ばかりであるが、大学時代から就職先の独身寮時代にかけて、今につながる大勢の親しい友人ができた実り豊かな青春の地となった。 かといって西脇にしろ神戸にしろ「わが故郷」と呼ぶには、臍の緒のつながっているところとまで考えなくとも、日常の意識のもとでいかにも存在が希薄であ る。 
  しかしわが無郷愁に比べ、世には麗しくも切ない郷愁の詩歌のなんと多いことよ。
 「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
 「石をもて追はるがごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・たとえ異土の乞食(かたい)となるとても・・・」
 「うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ・・・」
 啄木にせよ犀星にせよかれらの郷愁は切々としてひとの心を打つが、ひるがえって己の郷愁はと問われると希薄どころかそういう感性を欠いている のである。岩 手と東京、金沢と東京。その距離は現代に比べればはるかに遠かったであろう。しかしそれは単に距離の問題ではない。私は1万キロ離れた異郷に13年半住ん だことがあったが望郷の念に囚われたことは全くなかった。結局郷愁を抱くとか望郷の念に囚われるとかは人それぞれの感性の よってきたるところなのだろう。しかし何よりも見逃せないのは啄木や犀星には臍の緒のつながる母なる故郷が厳然とあったという事実である。
  それに比べて私の場合は、木田氏と同様、母なる故郷と言えるものは無いようである。そして多分都会に住む大半の現代人に故郷はないのではないかと思われ る。私の子供たちの年代ではより確実にそうなるだろう。木田氏によると故郷喪失者をフランス語では「デラシネ(根こそぎにされた者、根無し草)」と呼ぶそ うである。ドイツ語なら「ハイマートローゼ」(これならスペリングできる即ちder Heimatloseである)、英語ならhomelessである。ホームレスというカタカナ英語では浮浪者となってしまうが、元来のhomelessは” without a home”で、”home”には我が家という意味と生まれた育った場所という両義がある。欧米では戸籍なんてものはない(出生証明がその代りになる)の で、home=the place where one was born or reared(出生または養育された場所)を故郷と言ってよいものと考えられる。だから”Home, Sweet Home”のhomeもhumbleという形容詞のせいで埴生の宿と訳されているが、”There’s no place like home”というとき、「我が家に勝るところは無い」と「わが故郷に勝るところなし」の両方だろうと私は解している。
  今年の定期演奏会では「望郷シリーズ」のone stageを歌うことになる。個人的にはHeimatloseで望郷の念がなくとも歌唱は別であることを示すことができればと思う。                                       (2012/06/15) 

       

7 時間の不在・・・・手術体験記(2012/04/27

 4月4日は私にとって記念すべき日となった。朝8時20分に手術室に入り午 後3時半に自室に帰るまでの約7時間、麻酔の ため意識が全くなかった。74年の人生でたとえ7時間でも無意識であったことは初体験であった、という意味で記念すべき日であった。勿論本人が無意識の7 時間を自ら認識できたわけでは無い。「麻酔しますよ」といわれてから、「はい。覚めましたね」と言われるまで、一瞬であったように感じた。周りから今午後 3時過ぎだと教えられ初めて7時間が経過したことを自覚できたのである。この時間の経過をどう表現できるだろうか。最初に浮かんだ形容は「7時間の空白」 「7時間の断絶」「7時間のタイムスリップ」など。しかし当時私の感じた不思議な感覚、即ちリアルタイムでは7時間の経過があるのに、自分には一瞬であっ たということの表現にはいささかそぐわない。そうだ。「7時間の不在」である。つまり部屋で待機してくれていた妻(現実の存在)にとっては長すぎた7時間 であったはずだが、私にとっては、自分がその間現実に存在していなかった一瞬であったのである。
しかし意識が覚めてみると、点滴、導尿管、そして出血を体外に排出するdrainの3本の管が繋がれており、7時間の不在は否定されることになる。導尿管 は翌朝、点滴も翌朝一旦終わるがその夜一時間ほど抗生物質の点滴を再度、drainは翌々日の朝はずされ、3日後歩行器によるリハビリが始まる。いずれも 不在の7時間の間に手術というビッグイヴェントがあったことの証明である。さてその手術は主治医によると4時間15分かかったそうである。診療報酬明細に 記載された手術の内容は、第2腰椎から第5腰椎にかけての4腰椎の椎弓切除、椎弓形成となっている。つまり脊柱管の狭窄による神経への圧迫を除減すること を目的としたものである。当初はせいぜい2か所穴を開けて内視鏡でやろうという主治医の意向が強かったのであるが、私の腰椎は全てが狭窄を起こしていたこ とは自他ともに認めるところであり、私自身が「悪いところは全て今回削ってほしい」と強く要望した結果、腰椎後部を9cmほど切開して上記のように4腰椎 を対象にすることになったものと考えられる。
手術後、術前にはなかった右ひざの痺れが24時間出ているのは予想外の後遺症であるが、
狭窄症が惹起していた臀部や太ももの痛み、そして何よりも間欠性跛行即ち歩行していると5分もしないうちに右脚が痺れ痛くなり歩行が続行できなくなる症状 が出なくなった。上述のように術後3日目から歩行器で病院1階のロビー(全長100m)を20分、6日後からは歩行器の代わりにステッキで同ロビーを10 往復(約2km)退院の4月14日まで毎朝歩いた。しかしその歩行中に休憩せねばならないような痛みは右脚に出なかったのである。これは心底うれしかっ た。手術が想定通りの効果を挙げている証左と考えられるからである。
思い起こせば最初に地元の整形外科医の診断を受けたのが2003年5月であった。爾来時々に臀部や太ももに激痛を発症し、地元整形外科医の治療ではどうに もならなくなり、2010年からはペインクリニックで神経根ブロック注射の治療を受けてきた履歴がある(これらの治療は「手術療法」に対して「保存療法」 というらしい)。 しかしそれらはいわば一時的な痛みの軽減の試みであり根治するわけではない。一生この痛みを道連れにせねばならないのかと暗澹たる思いに駆られる時も無い ではなかった。しかし今回図らずも良医を紹介していただき、思い切って手術を決断できたことは正解であった。勿論全身麻酔による手術は初体験であり、また 手術をしても治らないケースも多いという世評もあり、迷いと不安があったことは事実である。しかし生来の思い切りがいい性質が幸いして、大船に乗った気持 ちで「手術療法」に身を委ねることができた。積年の苦痛からの解放のマイルストーンとなるかもしれない手術の日としても4月4日は記念すべき日となったの である。
今回の手術に際し激励して下さった友人家族に衷心から御礼申し上げる。(2012/04/27)

       

聖トーマ ス教会合唱団のマタイ受難曲BWV244(2012/03/06

 2月26日(日)シンフォニーホールで聖トーマス教会合唱団とゲヴァントハ ウス管弦楽団によるバッハのマタイ受難曲の演 奏会が催された。聖トーマス教会合唱団はドイツ語でThomanerchorと呼ばれるらしく、プログラム中では「トマーナコア」と書かれているので、本 稿でもその方が短いのでそれに従いたい。その団員はトマーナーである。創立は1212年。今回のツアーは創立800年記念である。その音楽監督(カントー ル)は歴代著名であるが、なんといっても1723年5月31日に就任したヨハン・セバスティアン・バッハであろう。彼は爾来27年間カントールであった。 現在のカントールは1992年に就任したゲオルグ・クリストフ・ビラーという1955年生まれの人で当日の指揮者である。トマーナーは9歳から18歳の男 子で約100人が全員寄宿舎生活をしている。掲載した写真(当日のプログラムの表紙)で見るように可愛らしいセーラー服の少年たちがソプラノ・アルトで、 ネクタイ姿の青年がテノール・バスである。当日はセーラー服が34人ネクタイが25人出演していたと思う。


演奏はコーラスもオケも二つに分かれ、独唱者はイエスのバス、福音史家のテノール、 他にソプラノ、アルト、バスがアリアを歌う(実は本来ならアリアを独唱 するテノールが別にいるはずだが当日彼は体調不良で福音史家がテノールのアリアも歌った)。ピラート役はバスの独唱者が務めたが、ユダやペトロなどはト マーナコアのソリストが担当していた。何分長大な曲でCDでは大体一枚目を聞くと後 は根気が続かなくなるのが通常であるが、当日は生で3時間以上じっと座っていなければならない。そこで私なりに三つのポイントを決めた。一番目は福音史 家。二つ目はコーラス。三つ目は独唱アリア。          最初に感動したのは福音史家であった。全曲を通して歌い続けているわけだが、抑制された (この形容は当 日の演奏全体にいえた)なかにフォルテ・ピアノのメ リハリが素晴らしいと思った。トマーナコアは専門的に教育されているとはいえ10代の男の子たちである。それがときにダブルコーラスのポリフォニックを見 事に歌って要所要所を盛り上げた。独唱はバッハの特徴であるが、オケのソリストとの絡みが素晴らしい。例えばペトロが、「鶏が鳴く前に、お前は三度私を知 らないと言うだろう」と言われた言葉を思い出して、激しく泣く場面のアルトソロとヴァイオリンソロの優美な旋律の絡み合い。そしてユダが首を括った後、 「私のイエスを返してください。・・・・」と歌うバスのアリアと巧みなヴァイオリンソロ。また捉えられて尋問に黙秘するイエスの場面でテノールが「耐え忍 ぼう・・・」と歌うところの通奏低音(オルガン、コントラバス、チェロ)の劇的なリズム。数え上げればきりはないが、声と楽器の種類の組み合わせが絶妙で ある。尚当日のアルト独唱は弱冠20歳の元トマーナーのカウンターテナーであった。コーラスとの掛け持ちで大活躍であった。上手いと思ったが、私の趣味か ら言えば女声アルトがしっとりと歌ってくれればもっと良かった。                                                      実は 昨年末、散歩中に右脚が麻痺して膝折れ状態で崩れ落ちて転んだことから、一人での外出は極力避けている。上記の演奏会は、そんな状態になる以前に、当 日は妻が別のところで関西フィルと第九を歌う本番の演奏会であることを承知で、切符を一枚だけ買ってあった。駅とホールの間はタクシーがあるにせよ、シン フォニーホールに一人で行くのが物凄く不安であった。しかし「・・・心から満足して、この目はそこでまどろむのです。」と最後の合唱が終わってもにわかに 拍手して破りたくなかったのが、潮が満ちるように高まってきた充足感である。聴きに来てよかったと思った。(2012/3/6)     

「お めでとう」と"HAPPY NEW YEAR !!" (2011/12/25

先週の日曜日の日経新聞の文化欄に河野多恵子(1926〜)の随筆が掲載され ていた。彼女は芥川賞作家でニューヨークのマ ンハッタンで 長年生活した経験が あるそうである。その彼女がこの随筆の中で、『マンハッタンでは年末になるとあちこちで、「ハッピーニューイヤー」と声を掛けられるのに違和感を覚えた。 大晦日にアパートのドアマンに「ハッピーニューイヤー」と言われて、東京はもう元旦だからいいか、と思った。』というようなニュアンスの文章を書いてい た。彼女のような言葉のプロでマンハッタン生活が10年を超えるような老大家が、どうしてこんなことを書くのか、私にはいささか奇異に感じられた。
 確かに日本とアメリカ東部の時差はこの時期14時間で、こちらの元日朝7時はニューヨークでは大晦日の午後5時。有名なタイムズスクェアーのカウントダ ウンまでまだ7時間もある。彼の地で越年の秒読みのクライマックスの頃にはこちらは既にけだるい元日の午後2時というわけである。しかし時差を持ち出して まで納得せねばならない違和感はやはり奇妙である。   
 「ハッピーニューイヤー」という呼びかけと「おめでとう」という挨拶が、全くの同義語として彼女の脳に刷り込まれているのかもしれない。しかし「おめで とう」というのは感動詞であって、何かが起こってそれに付随して発せられる挨拶・祝辞である。即ち安産おめでとう、誕生日おめでとう、そして新年明けまし ておめでとう、という風に、何かが起こってからそれに対していうお祝いの感動詞である。従って新年が明けないと「おめでとう」とは言わない、あるいは言え ない。一方「ハッピーニューイヤー」はその前に”Wish you”などという願望の成句を冠として持つ目的格の名詞である。従って時制的には今から始まる時間に対する希望願望の呼びかけなのである。つまりnew yearが来る前に使うのは当たり前のことであるし、年が変わっても暫くは先の長い一年に対する願望として使われる。強いて日本語にするなら、「おめでと う」では決してなく「良いお年を」に近い。但し「良いお年を」はその年が来てしまえば使わないのに対して、ハッピーニューイアーは年が明けてからでも使う という大きな違いがあるけれど。
  似たような英語は、good morning, good day, good afternoon, good evening, good night, good time, good luckなどなど枚挙に暇がない。何れもその時から始まる将来の時間に対する願望である。Good morningは「いい朝だね」という今の肯定ではなく今から始まる朝の時間が良いようにという願望である。それに対してbeautiful morningという挨拶は君と共有しているこの朝の何と美しいことよという今の肯定であって、good morningとはいささか背景の気分が異なる。 
  押しなべてこのような英語の挨拶は非常に使い勝手が良く気軽に口から飛び出す。例え ば朝の散歩途上、アメリカでは誰であれ”Morning!!”或いは 単に”Hi!!”と呼びかけアイコンタクトをしてすれ違う。当地でも私は朝散歩していて出会う人と「おはよう」と声を掛けあう。大和団地を一周していると 同じ人にもう一度会うことがある。その時日本語で何と挨拶してすれ違うか。アメリカでなら、<さっきgood morningは言うた、今日はもう会うことはない、じゃぁ今からの一日元気でな>という気持ちで一言 ”good day”という。それを日本語で「良い一日を」「今日も元気で」などとは気障っぽく気恥ずかしくて口から素直には出ない。つい黙ってすれ違うことになる。 その意味で日本語は難しい。
  ところで黙ってすれ違うということであるが、アメリカではまず10中 10人がお互い”Hi!!”と言って視線を合わせていくのに、当地ではこちらが「お はよう」と言っても黙殺してすれ違う輩、初めから目を伏せて挨拶を拒否するオバサンなど、声を出すのが惜しいという風情の連中が結構いる。朝のエレヴェー ターでもニューヨークでは後から乗ってくる人が気軽に声を掛けるのに、日本では、昔私が勤務した会社のエレヴェーターで、皆同じ会社の仲間なのに、挨拶の 声を発しないのはエチケットに反すると文句を言った偉い人がいたが、どうも日本人は気軽に挨拶できない民族のように思われる。
  この日米の 差は一体何だろう。多分歴史的文化的な違いが深層心理に潜んでいてそれが顕在化した一例かもしれない。そんな難しいことはさておき、言い易い 言葉かそうでないかも大きいなポイントではないのだろうか。例えばデートに行く友人に日本語なら「楽しめ」とか「上手いことやれよ」とか「頑張れ」とか言 うのが通例だろうが、英語なら” good time” “good luck”と言うだろう。日本語はなんか大仰で押しつけがましい激励だが、英語はニュートラルにポンと背中を叩く感じである。英語挨拶語のほうがスマート で使い易い。英語礼賛ではないが、こういうちょっとした一言に適当な日本語が無いと思うのは私だけではあるまい。
  「おめでとう・ハッピーニューイアー」からかなり脱線してしまったが、皆さん 良いお年を。Wish you all a happy new year!! (2011/12/25)

モーツァ ルトとレクイエムとフリーメーソン (2011/12/05

  今年2011年も師走である。未曾有の災害、ユーロ圏の債務危機連鎖。カレンダーが変わっても無事落着は望めそうになく、暗澹たる思いで師走を迎えた人が 多いのではないか。酷い年であった。そんな中で個人的にささやかながらうれしかったのは「井上和雄と歌うモーツァルト・レクイエム演奏会」 (2011/7/30於神戸新聞松方ホール)を盛会裏に終えたことであった。これは既存合唱団とは一線を画して、井上さんの棒で歌いたいという人々が結成 した「井上和雄とモツレクを歌う会」が主導し、1年の練習を経て催した演奏会で、大方の聴衆に賛辞を頂くことができたのは喜びを倍加させた。今改めてCD を聴いても、勿論アラを探せば幾らでも指摘できるが、全体の楽想曲想は素晴らしく,良く棒についていったなと思う。殊に冒頭と最後(Requiemと KyrieそしてLux aeterna)はテンポといいリズムの切れ味といい、歌った一人の自分がいうのは気が引けるが、上出来だと自賛している。
 ところでこのレクイエムはケッヘル番号最後の626である。良く知られているようにレクイエム作曲中にモーツァルトが不帰の客となったからである。この あたりを「年譜」で追ってみる。

1791年(モーツァルト35歳)
7月 未知の男(アントン・ライトゲープ)訪れ、鎮魂曲を依頼する。
9月 自分のレクイエムに心魂を注ぐ。「・・・もう頭も混乱し、気力も尽きてしまい、例の見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。ぼくにはもう自 分の終わりの鐘が鳴っているように感じられます。もう息も絶え絶えです。・・・これはぼくの白鳥の歌です。完成しないわけにはゆかないのです」(9月7日 付)
12月4日 <ラクリモーサ>8小節で途絶える。死の4時間前まで、ジュースマイヤーにその完結の指示を与える。これまで懺悔の席に列したこともなく、フ リーメーソンの一員であったことから、臨終に際して司祭も立ち会わなかった。
12月5日 午前0時55分永眠。
12月6日 聖シュテファン教会でミサがあげられたのち、一人として見送る者も無く聖マルクスの共同墓地に葬られる。
1793年 ジュースマイヤーにより完成された「レクイエム」は12月14日ウィナー・ノイシュタットのシトー教団新礼拝堂で演奏される。
<以上スタンダール著「ハイドン、モーツァルト、メタスタージオ伝」のモーツァルト関連部分;高橋英朗・冨永明夫訳「モーツァルト」東京創元新社1966 年初版に依る。>

 さて上に出てきたフリーメーソンに就いて。モーツァルトは1784年12月に入会し死ぬまで会員であった。K477 フリーメーソンのための葬送曲、K623フリーメーソンのためのカンタータ、K623a フリーメーソンの歌の他、K620 魔笛も第2幕はフリーメ−ソンが下敷きにあるとされる。尚フリーメーソン(Freemason)とはFree & Accepted Masonsで厳密には個々の会員のことを指していて、組織、団体はフリーメーソンリー(Freemasonry)と呼ばれる。その起源は諸説あるが、中 世イギリスの石工(Mason)職人組合であるとするのが通説である。即ち1360年ウインザー宮殿の建造に徴用された568人の石工職人が数百年に亘る ゴシック建築に係る自分たちの権利・技術・知識が他の職人に渡らないようにロッジで暗号を使用したのが始まりとされる。しかし石工職人団体の実務的メーソ ンリーは衰え、建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメーソンリーに加入し始め、職人団体から、思索的、思弁的友愛団体(秘密結社)に変貌、 1717年6月24日ロンドンにグランド・ロッジ(本部)が結成され現代のフリーメーソンリーが発足したとされる。入会資格は、何らかの真摯な信仰を持っ ていることを求めており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の信徒はOKであるが、無神論者、共産主義者は入会できない。また女性も原則入会できな い。会員同士Brother, Bruderと呼び合う。活動内容は非公開である。(以上Wikipediaを参考。)
 ダヴィンチ・コードで一躍有名になったDan Brown(ダン・ブラウン)の2009年刊の小説The Lost Symbolはアメリカ建国に係ったフリ−メーソンが残したシンボルを巡るプロットで読ませるが、その中で登場人物に次のように語らせる一節がある。「キ リスト教とフリーメーソンとの違いは、キリスト教では神は絶対唯一の存在で人間の上に存するが、フリーメーソンでは人間誰しもが神になれるのだ。」勿論こ れは小説の一節であり、フィクションの可能性を否定できないが、私には非常に印象的であった。もしそれが真実ならモーツァルトもベートーヴェン(ベートー ヴェンがメーソンであったか否かに就いては専門家の間でも意見が分かれるらしいが、「第九」をフリーメーソンのプロイセン王に捧げたことから見て、仮令彼 自身がBruderでなかったとしてもフリーメーソンに強い親近感を抱いていたのは間違いないと思う。)も神になったのだろうと思う。モーツアルト教は 626の経典を愛し崇拝する無数の老若男女を信者として燦然と輝いている。
 蛇足ながらアメリカ建国時に活躍したベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントンはフリーメーソンであったし、マンハッタン島にある自由の女神像 はフランスのフリーメーソンからアメリカのフリーメーソンへの独立記念の贈り物である。
 ついでにもう一つ蛇足を加える。Dan Brownによると将来の小説のために1ダースのアイディアが固まっており、そのうちの一つは著名な音楽家とフリーメーソンの関係を事実に沿って書くもの だという。それがモーツァルトなのかベートーヴェンなのか興味が尽きないところ。出版が待ち遠しい。(2011/12/05 モーツァルトの命日に)


  

ゴ ルトベルク変奏曲 (2011/11/14)

  先日(11月11日)PAC小ホールでチェンバロによる「ゴルトベルク変奏曲」のリサイタルを聴いた。演奏者はKenneth Weiss(ケネス・ワイス)。静謐で濃密な80分であった。チェンバロのリサイタルもこの曲を生で聴くのも生まれて初めての経験。通常の音楽会では演奏 開始直前までうるさいほどの私語でざわついているのに、この日は演奏前からシーンと静まり返って、場内の雰囲気がいささか緊張しているのかなと思われた。 あの小ホールはステージと客席が近く、ちょっとした雑音でもチェンバロの繊細な音の妨げになることを聴衆が自覚していたからであろう。
 Kenneth Weissはニューヨーク生まれで、レオンハルトに師事、現在はパリ音楽院とジュリアードの教授。ゴルトベルク変奏曲のライヴ演奏が2009年春にCDリ リースされた他、バッハやスカルラッティなどのCDがあるそうだが、私は今まで名前すら知らなかった。プログラムに生年は書いてないが、50才前後か、背 の高い紳士である。彼が大きな手で弾きだすとチェンバロが小さすぎるようであった。
 アリアの最初のGが鳴り出した途端に場内の空気が和んだように感じた。典雅な歌がまさにエレガントに歌われた。チェンバロは、ピアノがハンマーで弦を叩 くのとは違って、弦をはじいて音を鳴らすのだそうで、原理的にはハープやギターの音の出し方に近いらしい。だからキーを強く叩いたからといって大きな音が 出るわけではなく、音楽の作り方はピアノとは全く異なる。ピアノではグレン・グールドの演奏が有名で私もCDで聴くが生のチェンバロで聴くと全く違う世界 だと思った。 ゴルトベルク変奏曲(BWV988)はバッハのクラヴィーア練習曲の第4巻で1742年に出版された(初版表紙は掲載写真)。良く知られて いるようにカイザーリンク伯爵(ドレスデン宮廷駐在ロシア大使)の不眠症を癒すために、伯爵お抱えの若いチェンバロ奏者ゴルトベルクがこの曲を演奏したと いう伝説から、この俗称で知られることになったが、バッハ自身による原題は「2段鍵盤付きクラヴィツィンバルのためのアリアとさまざまな変奏」 (Clavier Ubung bestehend in einer ARIA mit verschiedenen Veraenderungen vors Clavicimbal mit 2 Manualen)である。
 冒頭に変奏のベースとなるアリア(但しそのメロディがテーマにならず低音部が変奏のテーマ)があり、30の変奏が終わると最初のアリアが再演される。私 などは変奏の構造など全くわからないし、何しろ長大な曲であるだけに、CDを聴いているときなどには確かな誘眠効果を実感できる。しかしライヴで演奏者の 息遣いが聞こえるほどの間近で、彼の仕草を見ながら聴いていると、眠る暇はなくあっという間であった。尤も曲の推移は3曲毎のカノン、それから全てG- durの中で3曲だけg-mollになる第15, 21, 25の変奏を、目途にすれば把握できる。
 この日の演奏は全てにエレガントであるだけではなく深く静かな喜びを与えてくれたが、なかでも第25変奏のAdagioには感銘した。短調の中で一つ一 つの音がつややかで弾力がある上に、一般の評者なら宗教的広がりとでもいうのだろうが、宗教心の無い私はどう表現したらよいのか、ホール一杯に紡ぎだされ る世俗を超越した音楽が、私の上に降り注いできて体内に染み込んできた。なんか震えるような感動を覚えた。そして第30変奏のクォドリベットを陽気に歌い 終えると、懐かしいアリアへの回帰。満ち足りた安堵であった。(2011/11/14)


  

老い六歌 仙(2011/10/01)

皺がよるほくろが出来る腰かがむ
  頭ははげて毛は白ふなる
 手がふるふ足がよろめく歯は抜ける
  耳はとふのく眼は薄ふなる
 くとふなる気がみじこなるぐちになる
  おもいつく事みなふるうなる
 身につくは頭巾襟巻杖目がね
  たんぽおんじゃくしびん孫の手
 聞きたがる死にともながるさびしがる
  出しゃばりたがる世話やきたがる
 又しても同じ咄しに孫ほめる
  達者自慢に人をあなどる
  (猪井達雄編著『丹兵衛日記』より)

 これは池内紀氏のコラム<日経夕刊2011/01/12付「明日への話題」>から孫引きしたもので、阿波の古文書の覆刻だそうである。いつの時代に書か れたのか、老人が自らを歌ったのか、他人が老人を対象に歌ったのか判らない。いずれにせよ諧謔味があり惨めさを感じさせず面白い。
 老いの話なら、我が家は格好のネタを提供できる。妻の母を含め家族3人の平均年齢が77才。義母は要介護3である。ケアマネジャーをアポイントしてその 人の紹介で介護ヘルパーの組織、デイサーヴィス施設、往診専門医を決めてある。往診は月2回、デイサーヴィスは週2日、介護ヘルパーは家内が外出する際に 適宜出張してもらう。義母は今年満90才。耳が非常に遠いが補聴器は嫌いで装着しない。食事もトイレも一人でできるし、新聞も丹念に読む。テレビは音が聞 こえないが画面は見ている(字幕を出してあげることもある)。歩くのは屋内だけで外は車椅子。内臓は頗る健康。問題は記憶なのである。女学校時代のことは よく覚えている。萩は山口県、丸亀は香川県、目に青葉というと、山ホトトギス初鰹と、打てば響く。ところが少し下って4-50年前のことになると覚えては いるが現在との区別がつかなくなるようだ。それがもっと近くになると記憶がきわめて覚束ない。例えば10年前に亡くなった夫のことを、毎日のように「お父 さんは今日は何処へ行きなすったか」「帰りが遅いかも知れぬから門燈は点けておけ、玄関は施錠するな」という調子。「お父さんは亡くなったから帰ってい らっしゃいませんよ」「あぁそうか」と一旦は分かった気配だが、暫くすると同じ繰り返しになる。夢か幻想か。現実との乖離。そして勿論本人はそれを自覚で きない。これは微妙で対応が簡単ではない。上記六歌仙がボケに触れていないのも、歌う対象としては重たすぎるからであろう。
 そもそも老いとは何だろう。ヒトには100兆もの細胞があり、そのすべてが瞬時も休まず破壊と更新を繰り返しているのだそうである。酸素を吸い食べるこ とにより更新のための栄養を補給している。この破壊と更新がバランスよく流れ秩序が保持されている間は生命はいきいきとしている。しかしこの秩序が永久に 保たれることはない。これはエントロピー(entropy)増大の原則で説明される。エントロピーとは何ぞやとウィキペディアを見てみたが熱力学とか統計 力学とかチンプンカンプン。要は乱雑というか秩序の反義語と理解すればよさそう。つまり秩序あるあらゆるものはいずれ錆び枯渇し摩耗し酸化し障害が起こ る。その時間の流れを止めたり逆転したりはできない。エントロピーは徐々に絶えず増大し、最終的に生命の新陳代謝の秩序を凌駕する。それが個体の自然死で ある。
 さて老いとは何かの自問にもどろう。年齢が若くても個体の自然死は幾らでもある。従ってエントロピーと秩序との戦いの進捗度によって老いが測られるとい うものでもない。結局は年齢と社会的評価と自己意識が老いを定義づけるのではないだろうか。義母の場合はエントロピーが脳細胞で優位になりつつあり記憶や 聴覚がダメージを受けている。要介護という社会評価も老いを肯定している。ひるがえって私自身はどうか。年齢は立派に老いである。なにしろ国民健保高齢受 給者証を交付されている(老齢とは書かれていないが)。腰椎の不具合は明白に老いの証明である。世間の目は外見では判らないからか、(実年齢ほどには)老 人とみていないようだ。となると自己意識がキーである。はっきりと老いを自覚している部分はあるが、「老い六歌仙」を斜めに見ている気分が強いのも事実。 身の程を知らず老いを100%肯定したくない儚いあがきと嗤われようか。
 先日Amazing Voiceというテレビ番組で、キューバのプロ歌手のドキュメンタリーをやっていた。キューバはアフリカンとスパニッシュの混合人種混合文化で、根底から ネアカなのだろうと思われるが、90才の男性歌手が、「何才まで歌うか」と聞かれて「歌いながら死ぬよ」と答えていた。この歌手には90才にして多分エン トロピー増大はまだ顕在せず何よりも老いの自己意識がないのが素晴らしいと思った。(2011/10/01) 


  

9. 11――――あれから10年  (2011/09/18)


 10 年前のその日は六甲男声の練習で私が帰宅したのは午後10時を過ぎていた。シャワーをして寛ぐ間もなく、新聞記者の二男から電話があり、「直ぐCNNを観 ろ」という。それは信じ難い驚愕の生映像であった。WTCの北塔がもうもうと黒煙をあげており、そこへ右手から飛行機が一機ゆっくりと近づいてくる。と思 う間もなく南塔に突入したのである。(ここに掲載した写真はNY Timesのwebから拝借したもので、現場の海側即ち南側から撮影しているので、飛行機United Airline Flight No.175は左側から接近している。)そしてやがてツインタワーは燃え落ちてしまう。ニューヨークのビジネスを象徴するかのように威容を誇ったツインビ ルがあえなく崩落してしまった。それは自分の事務所の窓から見慣れた、常にそこにある景色の中心であった。それがあっという間に無くなった。現地は午前9 時過ぎ、出勤してきたばかりの人々はどうなったのだ。
 アルカイダが企てたテロであり、犠牲者が3千人ということは、後から判ったのであるが、その時私は生まれて初めて、ドラマや映画ではなく、個々の顔は見 えないものの人間が人間の手によって殺戮される瞬間をリアルタイムで目撃したのである。乗っ取られた旅客機の乗員乗客、オフィスに入ったばかりの老若男 女、全てたまたまそこに居た人々がなんの因果関係もない突然の死を強いられたのである。
 そういえば私のニューヨーク駐在中に、WTCの地下駐車場に自爆テロの自動車が突入しようとした事件があり、私のオフィスがあったエンパイアステートビ ルもターゲットの一つにされているとかで全員退去させられたことがあった。また75年の最初の赴任当時ニューヨーク市は財政危機の真っただ中で治安が悪 かったのであるが、プエルトルコ独立運動が盛んで、時々マンハッタンのあちこちで爆弾騒ぎがあった。赴任して間もない75年1月の或る夜遅く単身赴任中で 宿泊していた安ホテルの部屋に帰った途端、地響きがしたと思う間もなく、窓の下のマディソンアヴェニューで何台もの消防車のけたたましいサイレンが鳴っ た。カーテンを開けて覗くと向かいのビルのNY生命保険会社の事務所の窓が爆破されて書類が風に舞っていた。アルカイダに比べればかわいい爆弾テロでは あったが、テロなどには無菌状態の世間知らずの身にはえらいとこへ来たものだと空恐ろしくなったのもやむを得ない。その夜はマンハッタンで総計3件の爆発 があったそうである。そもそもニューヨークはそういうリスクがある街だったのだ。
 あれから10年。今年アメリカにとって象徴的な事件があった。国債格下げである。財政赤字が議会の認める限度一杯になり、その増枠の承認に議会がもたつ いたことが米国財政の将来に不安を招き、それが直接の引き金となったものである。赤字の要因は金融危機の救済のための財政出動などであるが、この10年の テロ戦争の果てしない戦費の膨張が無縁であるとは思えない。同時多発テロに見舞われて、全国民が反テロに奮い立ったのは当然である。私も応援すると誓っ た。「アメリカに味方しない者はアメリカの敵である」と、時の大統領はまるで喧嘩腰の強気で、反テロを旗印に武力によるアラブの民主化を目指したようであ るが、その戦略は万人の目に成功したとは見えない。20万人以上の戦争犠牲者を生み、アルカイダの首謀者を漸く10年目に殺害したとはいえ、テロの恐れが 排除されたとはいえず、軍事展開した現地は今なお政治的にも民生的にも安定には程遠い。膨大な戦費に加え世界を震撼させた金融危機の救済対策が、財政赤字 を膨張させ、国債の格下げというアメリカにしては前代未聞の10年後になってしまった。 
 日本では3・11である。半年たっても不明者が5千人近く、死者と合わせて2万である。ここでもたまたまそこに居た人々が、個々人の内部では因果関係の ない突然の死を強いられた。こちらは相手が自然であるだけに、恨みも怒りも発散しようが無い。勿論原発事故は違う。時がたつに従い、安全神話の上に胡坐を かいて万一の事故(例えば全電源喪失)対策のシナリオもマニュアルも準備しておらず、だから全てが想定外という言い訳になったのだということが判明するに つれ、そして放射性物質が陸に海に広く深く撒き散らされるにつれ、怒りは増幅する。
 なんとも悲惨な「あれから10年」になったものだ。個人的には前半はまだよかった。六甲男声は2度の海外演奏旅行ができたし、創立50周年記念演奏会も 祝えた。孫が2人増えた。阪神タイガースは2度リーグ優勝した。しかし2003年に加齢による腰椎の不具合が惹起する坐骨神経痛を指摘され、爾来それが半 日常化してしまった。岳父や義妹を初め親しかった先輩友人らに先立たれた。物忘れがひどい、人名を含む言葉が咄嗟に出ない、咄嗟に出ないだけでなく数日出 ないこともままある。確実に下り坂を転がり落ち始めたのであろう。時の流れそのままにエイジングを楽しむ余裕を持ちたいが。(2011/09/18)

  

ちょっ と英語を・・・・マヨネーズやらケチャップやら (2011/08/30)

  日本語化したカタカナ外来語で日本での発音がそのまま外国でも通用すると頭から信じていて、それが通じない言葉がままある。私の生まれて初めての海外生活 は、1975年にニューヨーク駐在を命じられ彼の地に赴任したときに始まった。それまで約10年豪州/米州向け輸出を担当していたので、出張や来日顧客の 応対で商売英語には少々の経験は積んではいたが、いざそこで生活するとなると、顧客との間でさえ商売を超えた世間話もせねばならず、使う言葉(とそれをサ ポートする情報)の範囲が無限大に広がることを自覚せざるを得なかった。
 あるときオフィスで秘書に「ッチキス」といったところ、彼女はポカンとして“Excuse me?” あれっ、発音が悪かったかと、今度はアクセントを第2音節に移して「ホッキス」と言ってみたが、相手は ”What are you talking about?” それで彼女の目の前のそれを指差したら、“Oh, you mean a stapler?” ときた。その頃私は「ホッチキス」がそれを発明したアメリカの会社名で日本で登録されている商標名だとは知らず、どこでもそう呼ぶものと信じていて、その 普通名詞がステイプラーであるとは知らなかったのである。
 場所は変わってある日レストランで、生野菜に何を掛けるかと問われて、今ならイタリアンドレッシングとかオイルアンドヴィネガーとかいえるところを、世 間知らずそのままに「マヨネーズ」を注文したものである。ところがこれが通じない。しまいにペーパーナプキンにMayonnaiseと筆記したら、メイァイ ズと声高に言われ赤面。ついでにいうとケチャップも通じずキャチャップである。この類の言葉は多い。エネルギー(エナジー)、アレルギー (アレジー)、ビタミン(ヴァイタミン)、ビールス(ヴァイァルス)などなど。
 ビタミンは検証はしていないが英国ではヴィタミンで通用するかもしれないが、アメリカではiやyを[ai]と発音することが多い。例えば日本語のアンチ なになにのAnti-は須らくアンタイなになにと発音する。Anti-abortion, Anti-alcoholism, Anti-Americanなど。びっくりしたのはベルギーの有名チョコレートブランドのGodivaを彼らがゴダイヴァと呼んでいることで、日本ではゴ ディヴァと呼んでいるが本当はゴダイヴァと発音するのかとさえ思った。しかし後にフランスやドイツではゴディヴァと呼んでいるのを発見して、ゴダイヴァは アメリカだけの発音だと今は理解している。
 アメリカでのみ[ai]と発音する言葉がある例をあげたが、その点denyは万国共通ディナイである。にもかかわらず私の高校時代これをデニと読む教師 がいた。それも古参教師で何年デニと教えてきたのかと思うと大いに寒心ものであった。私は臆せず注意申し上げたが、そのせいで英語以外のことでいびられた 思い出がある。ちょっと脱線するが、修学旅行先の日光で飲酒したクラスメートの多くが謹慎処分を受けた事件があり、私のホームルームに授業に来た件の教師 が、このクラスは学級生徒会長が頼りないからこんな不祥事を起こしたのだと、私を誹謗したのである。まぁクラス全員が無視したようだったけれど。
 もう一つ高校時代の英語の思い出のひとつにflatということばがある。2年時の副読本がO. Henryであった。彼の小説にはflatが頻繁に出てきて、教師はアパートと訳した。アパートと言われて、1954年ごろの日本でしかも田舎では今のマ ンションなどは想像すらできず、私は木造の文化住宅しか思い浮かばなかった。しかしそんなものではないだろうと、長年flatが本当はどういうものか疑念 を持っていた。マンハッタンの鉄筋コンクリート造りの建物を見て初めてO. Henryの書くflatが実感できたのである。
 私は社会に出るまで英語を母国語とする人たちに接触したことがなく、それ以前も以降も英語をどうしゃべるかどう発音するかというトレーニングを受けたこ とはない。ニューヨークに住んだ13年半の間に、会話さえ通じればよいという緊急性に押されてなんとかやってきただけなので、お蔭でよその国の人には君の 英語はニューヨークアクセントだねと言われるけれど、自分がどんな発音をしているのか自覚はない。そもそもニューヨークは人種のるつぼで、耳に入る英語も 千差万別である。テレビのコメンテーターたちもNHKのアナウンサーのように標準語の話し方の特訓を受けているようには見えず、各人のアクセントで話して いるように聞こえた。従っていつかの六甲男声の練習の時にfromやnotの発音を巡ってそれは米語だ英語だという議論があったが、私は正直判らない。 ニューヨークでは口を開いて喋るがBBCのアナウンサーは口を開かず喋るというぐらいの違いしか分からない。
 最後にアメリカでは通じない日本製英語の例を。野球でデッドボールとかファウルチップとかいうがこれらは完全な和製英語で本場にはそんな言葉は無い。前 者はhit by pitchであり、後者はgot a piece of batという。またフォアボールも意味は通じるだろうが使わない。Ball fourとは時に言うが通常はwalkである。Kyuji gave up a walk. という風にいう。球児よ、君に限ってつまらぬ四球を出さんでくれよ。(2011/08/30)


  

オー ストラリア    (2011/07/07)

  生まれて初めて訪れた外国。それがオーストラリアである。1969年7月、当時担当していた衣料やインテリアの素材であるテキスタイルの販売のための社命 による出張であった。羽田からSydney直行のQantas航空に乗った。途中Darwinに寄港したが、半ズボン半袖シャツの係員が噴霧器を両手に 持って両サイドのラゲージラックを消毒するのにはびっくりした。後で判ったことだがDarwinは熱帯で、南半球の7月とはいえ暑いのだ。また機内サー ヴィスもスチュワーデスではなくスチュワードがこなしていたのも印象に残った。これはオーヴァーナイトフライト故に女性勤務を避けた(或いは禁じられてい た)のであろうと後で合点がいった。
 出張中の日常業務はメーカーの担当者と見本を担いで顧客を一軒一軒訪問販売する行商であって、なんら思い出に残るものは無いのであるが、何しろ生涯初め ての外国、記憶も相当風化しつつあるので、印象に残っているエピソードに触れてみようと思う。
 オーストラリアと言われてあなたなら先ず何を思うだろうか。私たちの年代なら、白豪主義ではなかろうか。勿論現在は制度的には解消している。69年当時 でも既に多数のインド人中国人がいたし、特に香港の中国返還前には香港人の移民が急増している。若い現代人ならエコテロともいわれる捕鯨反対のシーシェ パード、或いはサッカーのアジアカップ決勝で日本が1対0で破った好敵手であろうか。はたまたアメリカ牛のBSE問題を契機に見直されたオジービーフか。 子供ならコアラベアといったところであろう。
 私の出張を現地で迎えてくれたのは今は亡きKさんで、シンガポールで日本人戦犯の裁判の通訳をされた経歴を持つ、小柄ながら剛毅な大先輩であった。その Kさんがあるとき「なぁ花岡君、フェアディンカムオジーという豪州人に対する賛辞があるんや。フェアで男気があるという意味やねん。商売やからいろいろ思 うかも知れへんけど、根はえぇ奴らやで。」と教えて下さった。不勉強な自分はそのスペリングも確認せず、しかし以来その言葉を忘れられずにいた。豪州女性 を妻として現地に住んでいる若者に、それはFair dinkum Aussieと綴ることを最近教えられ、早速辞書を引いてみた。今このMicrosoftWordでもdinkumに赤の波線がでてスペリングが正しくな いといっているが、私の辞書には「豪州口語fair dinkum 公明正大な」とちゃんと出ていた。因みにWebsterには載っていない。また別の先輩にQantas航空を「カンタス」(日本ではそう書 かれるが)と発音してはいけないと注意された。なぜか興味を持たれる方は[kant]と発音する(発音記号aのところはvの逆立ち)言葉を想像して辞書を 引いてみて下さい。
 この出張は約2ヶ月に及ぶことになるが、後にも先にもその時限りのエピソード3件をお笑い種に。
その一。ジャックポット
件のKさんが、行きつけのプライヴェートパブへ連れて行ってくれた。そこでスロットマシーンでジャックポットを引き当てたのである。本人はびっくり場内大 騒ぎ。居合わせた30人位の全員にビールを奢った。あんな快感は後にも先にもこの一回限りである。ビギナーズラックというやつ。お蔭でオパールの石を一個 お土産に買うことができた。後年ラスヴェガスでも勿論挑戦はしたが惨敗。
その二。WBCタイトルマッチ観戦
ファイティング原田の3階級制覇の挑戦。フェザー級チャンピオンの豪州人(アボリジーヌと思う)とのタイトルマッチ。原田が相手を3回もダウンしたのに、 ホームタウンディシジョンでドロー。但し豪州人の名誉のために付け加えるとレフェリーは米国人であったそうな。ボクシングの試合などタイトルマッチはおろ か田舎試合ですら後にも先にもこの試合以外に生涯観たことはない。
その三。盗難
宿泊していたのはホテルとはいうにも恥ずかしい連れ込み宿で外から直接各部屋に行ける構造であった。朝飯付一泊5豪ドル(1豪ドル約400円)、ベッドと バスルームだけの安宿で出張者の定宿であった。あるとき1週間NZに飛ぶことになり荷物をホテルに預けて行った。ところが帰ってみたら預けた荷物はall gone。 2階の空き室に他の人の荷物共々保管していたのが全てが盗まれていた。私が預けたのはサムソナイトのスーツケースに替えのスーツなど衣類、 買ったばかりのカンガルー皮のゴルフシューズ、飲みかけのボトル等々であった。宿屋のおばちゃんは保険をかけてなかったお前が阿呆やという態度。半年程し て盗品が見つかったといってゴルフシューズは戻ってきた。幸いこのような体験は後にも先にもこれが唯一である。前述のKさんがお見舞いにスーツ一着分の生 地を下さった。
 一般にオーストラリアというととにかくその英語の発音の特異性である。彼らはaを[ei]ではなく[ai]と発音する。彼の地が歴史的に英国の流刑地 あったがために、ロンドンの下町っ子或いは貧困層のコクニーが受け継がれているというのが定説である。それを揶揄するように引き合いにだされるのが”I came here today”で、彼らの発音では「アイカイムヒアトゥダイ」と聞こえる。即ちtoday→to dieなのである。
 後年私はNYに駐在してある夏(1980年)ヨセミテに旅行した。モーテルの庭で遊んでいた愚息二人に豪州人と思しき観光客がワッツザナイムオブザガイ ムと声を掛けた。NYの現地公立校で5年を経験していた彼らがキョトンとしていたのを思い出す。What’s the name of the game? が聞き取れなかったのである。(2011/07/07)


  

青 い花雑記    (2011/06/13)

 カレンダーを6月にめくった途端にホトトギスの声が騒がしい。朝な夕な 「トッキョキョカキョク」の連呼である。お前それ でよう疲れないなぁと声をかけてやりたい位である。
6月は雨とアジサイの季節。
 私は雨に濡れた濃い青色のアジサイが好きである。今年は入梅がやけに早かったお蔭で梅雨とコンビのアジサイの開花が追いつかなかった。未だに青いアジサ イを見ていないが、梅雨時の花の女王だと思う。アジサイの学名・英名はHydrangea。意味は「水の容器」だそうで、まさに梅雨に咲く花に相応しい。 というより梅雨の花であるがゆえにこの名前が付けられたのであろう。花弁のように見えるのはガクであって花はガクの中心に小さく存在する。七変化といわれ るように青から赤まで株によって違うばかりか同じ株でも咲き始めから徐々に色が変わる。一般に土壌が酸性なら青アルカリなら赤と言われている(リトマス試 験紙とは逆)が、PHだけが色を決める必要十分条件ではないらしい。青以外も美しいが赤いアジサイだけはいただけない。勝手なイメージながら、旬の鱧を肴 に襟足の美しいひとに酌をしてもらいながら、縁先の濡れそぼる青のアジサイを愛でる、というのはこの季節の理想のセットアップではないか。
 日本語の青は、青春、青年、青二才という言葉があるように未熟・若さの象徴でもある。英語でblueといえば<晴れた空や深い海の色>という以外に<気 落ちした>或いは<憂鬱>という意味もある。青は繊細で神秘的な極めて深い情感の色である。それだけに青い花に惹かれる。
 青のアジサイが秘めたる情熱の花だとすれば、間もなく7〜8月ごろ旬を迎える西洋朝顔は180度違う青である。満ち溢れる光の中で燦然と輝く青である。 プロヴァンスでなんと美しいと感嘆してわが庭にも植えたのがこの西洋朝顔であった。ヘヴンリーブルー(Heavenly Blue)或いはオーシャンブルー(Ocean Blue)という名前で売られている苗を買ってきて、棚に這わせ大いに咲かせたものである。しかし数年で飽きた。なにしろ花が元気すぎる。プロヴァンスの 環境ではあれほど美しかったのに、我が家の庭ではtoo muchなのである。ニホンアサガオの慎ましやかさと好対照である。やはり花にも相応しい舞台装置が要るのであろう。なにしろプロヴァンスでは、日本では 暑苦しいだけの夾竹桃でさえ、涼しげに美しかったのだから。
 もう一つここでふれたい青い花がある。季節は早春に逆戻りするが、道端や畑の畦に群生して咲く雑草で、直径5ミリほどの小さなコバルトブルーの4弁の花 である。その名前が「オオイヌノフグリ」。なんでこんな可憐な花にこんな名前を付けるのかと抗議したくなるが、花の後の実がそっくりの形なのである。ただ 別名は「瑠璃唐草」「星の瞳」などと美しい。庭の芝生にも生えてくるが雑草として抜かれる運命にある。多くの人の目に留まらない存在ではあるかもしれない が確実に春の到来を告げてくれる。春先、散歩道でこの花を見つけるとついうれしくなる。
 他にも青い花は種々あると思う。今わが庭で咲いているのはメドウセージ、ロベリア、アメリカンブルーといったところ。メドウセージは青というより濃い青 紫色の2弁が穂のように並ぶサルビアの仲間。固まって何本も植わっており片隅で存在感を示している。

(Roberia)

(American-blue)

  ロベリア、アメリカンブルーは私はその名前も知らず花好きの妻に教えられた。どちらも鉢植えで、ロベリアは前に3枚の花弁後ろに2枚小さいのが立っている 変わった形の幅2cm弱奥行は1cm位の小さな花である。色は薄い青で花芯が白い。一方アメリカンブルーはハート形の花弁が5枚で直径3cm弱。写真を ネット「植物園へようこそ!」から転載させて頂く。ロベリアは夕方に庭で飲むテーブルにも置かれており、ABSOLUTの水割りを舐めながら、その一風変 わった姿の比喩を思いつかぬまま、ホトトギスを聞いている。


  

憂 鬱な五月    (2011/05/26)

  朝の散歩道の田に水が引かれ、早苗が植えられたところもあればまだ今からの田もある。燕が水面をかすめるように飛び交い、近くの山が張られた水に影を落と している。山は浅いが緑は日増しに濃く強くなっていく。いつもの五月の田園風景で、すべて世はことも無し。爽やかな五月。
 しかし今年は黄砂の襲来に加え、喉の絶不調、加齢が原因の腰椎不具合が惹起する坐骨神経痛、などが重なり心身共に晴れない。尤も空模様も五月らしくなく 梅雨のように雨の日が多い。そしてお天気に合わせたかのように湿りっぱなしのタイガースの打線である。
外来演奏者の訪日キャンセルによる公演中止が多い。メータやドミンゴの慈善公演は例外中の例外で、それだけに称賛に値するが、私のケースでも3月〜6月で 既に5件のキャンセルに遭っている。ホールからの中止通知は単に東日本大地震の影響が理由であるとしているが、一件ハンガリーの女声合唱団のケースは、合 唱団からの手紙が添付されており、そこにはAtomic Catastropheが理由であると明記されている。外国人が感じている深刻さを著していると思う。最近の新聞情報では、4月の外人来日は昨年同月比6 割以上の減少であり、同月の都内の有力ホテルの稼働率がせいぜい3割だという。いかに海外が原発事故による東京パッシングを起こしているかが判る。事故発 生から2ヶ月以上たってもunder control にできるどころかますますout of controlになっていくかの如き福島の現状を見ればむべなるかなである。東京に行くのは怖い。そして残念ながら東京市場無しでは日本ツアーの採算は成 り立たないということなのであろう。そんな中、メトロポリタンオペラが6月の東京・名古屋公演を予定通り行うことを最終的に決めたことは、高嶺の花で私に は無縁の公演だが、喜ばしいニュースである。
 毎朝の新聞に地震津波による死者・不明者の数字が掲載される。あわせて2万4千。これだけもの老若男女が理不尽に生を奪われ物言わぬものに化した。死者 は一様に言葉をもたない。言葉を発する唇を失う。夫婦が、親子が、恋人同士が、小学生の友達同士が、これからも語り合うはずだった言葉を永遠に失った。そ の無念は生きている私たちの想像を超える。生きている私たちがこれらの死者のためにできることがあるだろうか。多分彼らの冥福を祈ること以外にはないと思 う。しかし私たち生きているものにできることは言葉を、夫婦の間で、子や孫との間で、恋人同士の間で、親しい友人との間で、交わし続けることだろう。生き ている者の権利としてそして義務として言葉を発する、なにも上段に振りかぶることはない、日常の言葉を、願わくば今まで以上により愛情をこめて発すること ではないか。言葉を交わすことが生きている証なのだから。
 歌も言葉である。幸い私たちのやっている合唱にも言葉がある。集団全体が同じ言葉を歌う。音階やリズムと同じく言葉による相互一体化が私たち夫々の存在 を確たるものにしてくれるのが合唱である。日常生活の言葉の交換以外に合唱という場を持っている幸せを思う。五月の憂鬱を何とか脱出したい。
(2011/05/26)


  

惜 別・渡辺政雄君    (2011/04/16)

 4月9日午後4時頃、渡辺君の二男から先ほど父が逝きました、との電話を受 けた。2週間前に、風呂場で転倒して意識がな く出血が止まらず危篤状態で、医者は余命1週間と言っているとの連絡を受けていたので、左程驚きはしなかったが、無念を禁じ得なかった。
 彼はグリークラブに一時在籍したが卒業までに退部していたと本人からきいたことがある。道理で現役時代の彼を記憶していない。また卒業後の六甲男声合唱 団でも60年代には入団していなかった。然るに私が海外から帰任した82年には彼が孤軍奮闘引っ張っている六甲男声にびっくりした覚えがある。そのとき初 めて私の視界に彼が現れ、以来私たち9回生の同期会(おかの会という)に彼も加わったのである。しかし私は再び87〜93年海外赴任で、六甲とも彼とも疎 遠になる。そして付き合いらしい付き合いが始まったのは93年5月の私の六甲再復帰が契機となった。
 六甲男声合唱団は70年前後休眠状態であったが、76年ごろに活動を再開したとされる。団員の人数不足、指揮者の人材難、活動資金不足などの難局をマネ ジャーとして一人で背負い続けたのが誰あろう彼だったのである。私自身は遠くにいてその現場を見ていないので彼が具体的に何をどうしたかを述べることはで きないが、大変な苦労だったろうと推測できる。一体いかなる動機で六甲の再建などというしんどいことに係ったのだろうか。六甲に対する愛情?いや、私は彼 の性格だと推察している。彼は打算とは縁のない根っからの善人で、困っているのを見ると放っておけない性質なのである。義を見てせざるは勇なきなりの義侠 心で、六甲再生に取り組んだのではないか。私が帰国した93年には、既に指揮者に盤石の井上兄を得て合唱団らしい体裁が整い、94年には華々しく創立40 周年記念コンサートを開催したものである。あたかも創立以来のメンバーであるかのように、彼は六甲の中にその存在を確たるものにしていた。去年30回の記 念演奏会を開いたANCORの会の創立にも彼が深く係っているものと推測するが、往時の事情に疎いので、ここでは触れない。いずれにしても六甲男声合唱団 の中興の祖であると、私は信じている。しかし2000年頃から六甲の行事に顔を見せなくなり、六甲との関係が疎遠になってしまったのはさびしい限りであっ た。
 酒女唄をエンジョイした人生であったのではないだろうか。ジャズピアノバーや、生演奏があるジャズサロンに良く二人で行った。しかし彼が何よりも愛した のはヨットである。他のオーナーとの共同の持ち船は、シャワートイレキッチン付、ベッドルームが2室ある立派なもので、私も2-3度乗せてもらったが快適 そのものであった。1級ライセンス所持者で巧みな操船はいうに及ばず、船のメインテナンスや西宮ヨットハーバーとの折衝などは彼が切り回していた風であっ た。小豆島に疎開していたことがあるそうで、察するに子供の時から海の子であったのだろう。泳ぎもきわめて達者であった。海が彼の心のふるさとであったろ うことは想像に難くない。
 遺志で、葬儀戒名位牌墓全て無し。瀬戸内海に散骨するそうである。4月10日火葬場への移送の前、病院の霊安室でお別れをした。好漢さらば。冥福を祈 る。(2011/04/16)


  

春 の挫折    (2011/03/31)

  前にも書いたことがあるが、人生の冬の次に春は無い。20代までが春、30〜40代が夏、50〜60代が秋とすれば、私は正に初冬である。そういう年行の 人間にとっては自然の春はなんとも愛おしく待ちどうしいものである。20代の頃は自分自身が青春そのものであるが故に自然の春などに全く関心がなかったの にである。
 今年は三寒四温とは程遠く、異様に暖かい日が三日ほど続くと一週間ぐらい真冬に逆戻りの繰り返しで、気象そのものが順調ではなかったが、それでも2月の 末ごろから、我が家では黄色いクロッカスが咲きはじめ、蕗の薹も頭をだし、春の兆しが感じられるようになった。それに加え近年立金花の黄色い花が春の彩り を確実にしてくれるのがうれしい。つややかな黄色の花弁が陽光に映える様は年行の心に春を点燈してくれるようである。
 しかるにである。3月の初めころから持病である腰椎の不具合による坐骨神経痛がまたもや深刻になってきた。そして決定的な追い打ちが3.11であった。 神経痛のほうは夙川のペインクリニックでブロック注射治療を受けることにして現在も進行中。やや痛みが治まってきている。
 一方3.11の地震、津波、原発は3週間たった現時点でも、まだまだ死者の数は増え続けているし、原発震災は事態の収束の方向すら見えない。東京都知事 が、我欲の日本人への天罰だといって、世間の顰蹙をかって発言を取り消したが、彼のデリカシーの欠如を嘆く前に、このような客観性を欠く言葉を平気で使 う、公人としての資質を糾弾したい。
 原発に関しては、東電が想定外という言い訳がましい釈明で当事者能力を疑われたのは当然である。福島原発が想定していた津波が5.4mであったそうであ るが、そこから北へ120kmの東北電力の女川原発は9.1mを想定していたという。後者では地震津波の被害は報道されていない。
 また岩波書店刊「科学」1997年10月号で当時の神戸大学石橋克彦教授(地震学)が、中部電力の浜岡原発に対してではあるが、今回の原発震災を図星の ように想定した論文を発表しており、これをベースにした「全て想定されていた」という新聞記事(毎日3/29)を読むにつけ、福島原発事故は自然災害が誘 発した必然的な人災だと思わざるを得ない。かつてどこかで「専門家は小さな問題は解決できるが大きな問題では間違う」というニュアンスの言葉を読んだ記憶 があるが、原子力専門家の大きな間違いがここにあるような気がする。
 私の中では今年の春は3.11で止まっている。近所の桜の蕾がはちきれそうに膨らんでいるのが恨めしい。一万を超す死者、二万に近い安否不明、十数万の 避難者、原発震災の避難者、被災地で復旧復興に働く人たち、原発現場で決死の作業に従事する人たち。それを思うと自分が春にかまけて情緒的になるのを戒め たい。ただただ祈るしかない。(2011/3/31)

  

一 月    (2011/01/11)

  年末には今年も一年過ぎるのが早かったと思うのに、毎年のことながら一月だけは時の流れがゆったりしている。元旦はすでに遠い昔のように思うのに未だ10 日である。今年の元旦は、予報違いの晴天に恵まれ初日の出を拝むことができたのは、鳥取地方の方たちには申し訳ないが、幸運であった。
 例年元旦は3人の子供たちとその連れ合い及びその子供たちが集合して狭い我が家が大騒動になるのであるが、今年は二男の海外赴任や、長男の長女が今春大 学受験で忙しくて来なかったり、娘のところもオトウチャンの実家組と別れたりで、いささか静かであった。ただ例年私一人でやっていた初詣に、今年は娘とそ の長男(小5)、長男のところの二女(中2)が加わり、賑やかであった。娘は最近「三人兄弟の成長日記と母親のつぶやき」をテーマにしたブロッグを綴って おり、そのネタがほしかっただけらしいが、神社門前の猪名川にかかる橋の上から初日の出を撮ることができブロッグにアップできたのは幸いであった。(写 真;御社橋から;2011/1/1 7;30;31am)
 我々が参拝したのは多田神社である。この神社は天禄元年(970)に創建されたとされ、祭神として清和天皇のひ孫源満仲公をはじめ源氏5公が祀られてい ることから清和源氏発祥の地とされる。武運長久の勅願社であり、家運隆昌、厄除開運の守護神とされる、この地域の中心的な神社である。余談ながら川西市に は清和台という街や、「みつなか」という冠のホールなどがある。多田神社まで我が家から往路5kmほどは徒歩、帰りは最寄りの多田駅から電車に乗るが、そ れでもトータル6kmは歩くので、そのあとのお神酒がひときわうまくなる。
 さて元朝のお屠蘇、おめでとうございますの唱和の後。皆の一年の計は?といっても誰も挙手しない。サッカー少年の小5位は威勢よく俺は今年ハットトリッ クを目指すとでもいえば格好いいのに。しかしかくいう当人の私にそんな「計」があるのか。私などは、川岸のくぼみに滞留している淀みみたいなもので、流れ に棹さして、こっちへ行こうあっちへ行こうという気概は今更ない。隣を流れる早瀬には無関心。というよりは早瀬に見放されている。ただ日々旨い酒が飲めれ ば全てよしなのである。しかし毎日旨い酒を飲むためにはそのための体が必要なので、毎朝の速歩のウォーキングと週3回のフィットネスジムがかかせない。で はこれを一年の計とするかというとそれは既に日課であって今更目標には出来ない。さすれば、せめてもの今年前半は「モツレク」の暗譜がじぃじの目標だぞ と、孫たちに誓ってみたほうがよかったかなと少し反省している。
一月の庭は寒々としている。色合いといえば、地植えシクラメンの赤、パンジーの紫、ガザニアの薄い黄色、クリスマスホーリーの赤い実ぐらい。それでも冬枯 れの芝生に緑の雑草が目立ち始め、冬至からひと月も経たないのに日は確実に長くなった。朝の気温は零度前後の日が続いてはいるものの、自然は着実に春の準 備を始めている。冬の次がない人間の一生とは違って自然は冬来たりなば春遠からじなのである。(2011/1/10)

  

華氏マイナス27度 (2010/12/20)

 立ち小便が凍った。というのは嘘。しかし一歩戸外へ出ると一瞬にして鼻毛が 凍るのが分かった。今から30年前1980年 のクリスマス明けの朝、ヴァーモント(Vermont)州のシュガーブッシュ(Sugarbush) スキー場での体験である。
 シュガーブッシュは標高4,000フィートクラスの山の連なりに開かれたスキー場で、総計111のtrails(滑降ルート・コース)がある東部最大の スキー場である。山麓にコンドミニアム群があり、その空家を借りてクリスマス休暇を過ごすのが、私の家族の通例となっていた。調理器具やら食事の器具は粗 末ながら整っており、食材さえ持ち込めば、そして私たち日本人の場合は炊飯器を持ち込めば、もちろん私のための飲み物は欠かせないが、快適な何日かが過ご せるというわけである。NYCから北へ約300マイル(480km)、順調なら6〜7時間のドライヴである。
 因みに今ネットで調べてみるとシュガーブッシュスキー場の12月19日の気温(華氏)はBase 15°Mid16°Summit10°とのこと。−27°Fがいかに異常な寒波であったかがわかる。
 その年は会社の同僚5家族が一緒だった。−27°Fの寒暖計を見て外へ出ると、しかしそれほどのことはない。ところが車のエンジンがかからない。バッテ リーが凍結したのである。なかにはドアが凍結して中に入れない車もある。さぁどうしてスキー場まで行こうか。この時点でこの気温を深刻に捉えている者は誰 もいず、呑気にスキー場に行くことを考えていたのである。5家族の内1台だけエンジンがかかり、子供たちを満載して出かけたが、ほどなく帰ってきた。リフ トのおじさんに、こんな日に戸外でうろちょろしてるとほっぺた(露出部分)が凍傷になるから即刻帰れと言われたのである。へぇそんなものかと、無知な我々 は−27°Fの意味をあらためて認識させられた。その朝、儲けたのは麓から急遽上ってきた若い衆のバッテリー充電のアルバイト。一件5ドルで稼ぎまくっ た。スキーに行けない私たちは朝から飲みながらのトランプ賭博に興じることになった。
 人生の最低温度の体験も書いてみればただこれだけのことである。しかしこの話はこれで終わらない。
 休暇が終わって家に帰った。ホッとする間もなく地下室で水の音がするのに気付いた。階段を2-3歩降りて、床が20cmほど冠水しているだけでなくどこ かで水が流れていることにびっくり。なんと地下室のトイレの水道管から水が流れ出しているではないか。早速家主を呼んで応急処置とポンプで水の汲みだしを やってもらう羽目になった。原因は1週間以上家を空けるので暖房をオフにして出かけたことである。ヴァーモントで−27°Fを体験した日、ニューヨークで も0°Fになったそうである。水が凍結膨張し水道管に亀裂を入れたとしても不思議ではない。
 暖房の油を節約しようとして、家主に油を搾られた。留守にするときでも暖房は40°F程度にしておけという教訓である。クリスマスの時期に思い出す失敗 談のお粗末。(2010/12/20)


  

カルミニョーラ とヴェニスバロックオーケストラ(VBO)    (2010/11/29)

  11月23日にPAC大ホールで表題の演奏会を聴いた。今年はショパンとシューマンの生誕200年で関連のコンサートが多く催され、私も彼らの数多くの曲 に接する機会に恵まれた。ツィメルマン、カツァリス、ハーゲンクァルテット、河村尚子たちの演奏は何れも忘れ難いが、この日のカルミニョーラとVBOのパ フォーマンスは言葉での表現を超越した名演であった。2000人の満場のお客とともに興奮した。私にとって今年の掉尾を飾る演奏会になった。
 カルミニョーラもVBOも古楽器である。VBOはチェンバロとヴァイオリン7、ヴィオラ2、リュート、チェロ、コントラバス各1の計13人。演奏曲目は ヴィヴァルディの<調和と創意への試み>Op.8より「四季」及び「海の嵐」「狩り」その他であった。中でも四季は頻繁に演奏されるもので、2008年の 五嶋龍の独奏とオルフェウスチェンバーオーケストラの演奏にも感激したが、今カルミニョーラを聴くと、子供と大人と言って悪ければ、イケメンの青二才と練 達の色男という違いを感じる。まさに金も力もないけれど、この弓一本で、という巧みさである。緩急自在、強弱随意、それでいて全体の構成はがっちりとゆる ぎない。独奏ヴァイオリンとVBO個々のメンバーとの、音はいうに及ばず、体の表現の掛け合い、特にリュートやチェロ奏者とのコンタクトは目にも耳にも快 いものであった。春の出だしのテーマに続くヴァイオリンソロが絡み合う鳥の囀りも素晴らしかったが、秋の第2楽章の、酔っぱらいの寝た後という想定の音楽 が、チェンバロの上に弦(各パート一人)のピアニッシモが乗って、季節が万人を快いまどろみに誘うとソネットがいう以上に、収穫の豊穣を神に感謝する祈り の音楽に聞こえ私は好きだった。
 2年前に同じ団体の演奏会が川西の「みつなかホール」でも開催された。この時は演奏曲が同じヴィヴァルディではあったが後期のヴァイオリン協奏曲が中心 で四季ほどのポピュラリティがなかったためか、地域の音楽的民度のせいか、550ほどのキャパのホールが満席にならなかった。演奏そのものは素晴らしかっ たものの、盛り上がりはいまひとつという印象であった。ところが今回のPAC大ホールは満席で観客のノリがすごかった。やはりホールの音響の良さが奏者を 乗せ、うねりがホール全体を巻き込んだようであった。ヴァイオリニストは弾き終わった後、弓を放り上げる仕草をするものだが、この日のカルミニョーラの仕 草は自分の出した音を空間に放り上げ、顔も天を仰いで音の行方・残響を楽しんでいる風情であった。それが以心伝心観客の音の積極的な受け取りを惹起し、ノ リの相乗効果を生んだものと思われる。
 カルミニョーラの弾くヴァイオリンは、バイヨー1732というストラディヴァリ最晩年の非常に高い価値のものであるそうだ。プログラムにはこれに出会っ た経緯を彼自身が寄稿している。2006年に2日かけて試奏して選んだのがこのヴァイオリンで、それをボローニャ貯蓄銀行財団が購入し、彼に永久貸与して いる。なぜバイヨーなのかというと、フランスのヴァイオリニストであるバイヨー(1771-1842)が所有しこれを弾いていたからである。バイヨーは 1805年にこの名器を所有することになり、ウィーンでハイドン、ベートーヴェンに会い、1828年3月23日にはベートーヴェンのヴァイオリンコンツェ ルトのパリ初演を行った由である。ベートーヴェンの死がその前年の3月26日だったことを考えると1周忌のイヴェントだったのだろうか。そのときバイヨー 1732が使われたとは限らないが、その公算は高い。とすれば180年ほど前にパリでベートーヴェンのコンツェルトを弾いたヴァイオリンが今21世紀の日 本の西宮で自分の目の前で鳴っているわけで、えも言われぬ感慨に陥った。
はからずも至福のひと時に恵まれた秋の一日であった。(2010/11/29)


 

  

10月――ベスの命日月に(2010/10/08)

 庭の泰山木の根元に小さな墓碑がある。そこには“BETH REST IN PEACE May 24, 1984〜Oct. 18, 1999”と刻まれている。
1984年、当時12歳だった娘が母親(つまり私の妻)と共同出資で買ってきたのが、雌のシェルティで、私がベス(Beth)と命名した。シェルティとい うのはシェットランドシープドッグの愛称で、そもそもは牧羊犬である。といっても成犬でも10kg位にしかならない小型犬である。コリーを三分の一ぐらい に縮小したような犬といえばいいか。我が家に来た途端に娘にとってはベィビーであり、妻にとっては二人目の娘という人犬関係(?)が出来たようであった。 当初は独りで動くおもちゃのような物体であったが、犬らしく成長すると、ひとかどに牧羊犬の本能なのか、離れていく個体に関心を示し、私が家を出るとき、 客が去るときなどには門まで追っかけて来て吠えまくった。また私の帰宅のとき、いつも妻に駅までピックアップに来てもらうのだが、あたかも妻のボディガー ド然と助手席で頭を高く上げて、私が駅から出てくるのを迎えてくれた。妻はベスが乗ってくれてれば深夜のお迎えも心強いのよという風情であった。
そのベスが日本とニューヨークを往復し、一生の三分の一を彼の地で過ごすことになろうとは。実は私の転勤に伴い、彼女も妻娘とともに来育し、1988年7 月から1993年4月までをアメリカで過ごしたのである。ところで犬の米国入国はいとも簡単でなんの検疫もなく人間様と一緒に税関を出て来る。ところが日 本に入るときは2週間の検疫留置があり、まさに「行きはよいよい、帰りはこわい」なのであるが、この点については後で詳述する。
ここではアメリカでのベスに纏わるエピソードを幾つか思い出して彼女を偲んでみようと思う。
その1;スカンクとトマトジュース
スカンクは縞模様のイタチに似た小動物であるがその臭いで有名である。結構車にはねられるのであるが、その場所を通りかかったときの臭いたるや、鼻がひん 曲がるというが、私に言わせれば、鼻をつんざくような、勿論そんな表現が無いのは承知しているが、耳をつんざく音が脳天をかち割るに似て、脳に突き刺さる ような鋭利な異臭なのである。ところが、ある日裏庭でベスがスカンクを追いかけて、その屁をひられたのである。目くらまし、ではない、鼻くらましの屁を喰 らったからたまらない。何処で聞いてきたのか娘がスカンクの臭い落しにはトマトジュースが良い、といって早速トマトジュース風呂に入れた。もともと水を浴 びるのが嫌いで、シャンプーの度に大騒ぎになるベスなのだが、さすがにトマトジュース風呂には参ったようで、それまでは私の飲み捨てた空き缶を喜んで舐め ていたのに、その後一生トマトジュースの匂いには拒絶反応であった。ところでトマトジュースは効いたの? 多分Yes。その後スカンク臭かったことはなかったので。
(写真は1989年10月、NY州Chapaquaの自宅裏で)


その2;フェリー上の恐怖の長い一夜
 ある夏私たちはカナダ東部の島、ノヴァスコシア(NOVA SCOTIA)へ旅行した。最初の夜、PORTLAND(MAINE州)からノヴァスコシアのYARMOUTHまで200マイルをフェリーに乗った。飼い 犬は預けろというので預けたが、犬舎は甲板上で舷側であった。翌朝受け取りに行くとベスは哀れにも震えが止まらず、水も朝食のドッグフードも見向きもしな い。私たちが朝食をとったレストランで暖かいポタージュスープを貰って飲ませようとしても鼻もつけない。察するに一晩中今まで体験したことの無い、風、 波、船のエンジンなどの音を聞かされ、孤独で長い夜を過ごした恐怖の後遺症なのであろう。こんなことになるのなら、車で寝かせたほうが良かったと後悔した が後の祭りである。回復には一日かかった。

その3;子宮摘出手術
 私たちの帰国が近づいた、1993年2月。ある夜ベスが異様なうなり声を上げて苦しんだ。獣医に診てもらうと、子宮が腫れて腎臓を圧迫しているとのこ と。子供を生まなかった犬には良くある症状だとのことで、摘出手術をする。手術代700ドル也。お陰で彼女はその後病知らず。
 いよいよ帰国である。娘はまだ最終学年が残っており、一年単身で残らざるを得ないのだが、幸いにも大学の寮のResident Advisorとやらに合格して、食費以外はただで寮に居住させてもらえることになり、年頃の娘を一人残して帰るという心配は軽減された。残る唯一の心配 はベスの日本入国である。通常2週間の検疫留置は義務であり避けられない。米国は狂犬病国である(従って米国入国の時には無検疫)が、日本では狂犬病が駆 逐されているがゆえに入国の際には厳しい検疫が必要となる。しかし上述「その2」のように彼女は孤独には弱くとても2週間もの留置には耐えられそうも無 い。妻の母性本能はいても立ってもいられない。ニューヨークから成田、伊丹の両空港(当時未だ関空は開港していない)の税関に電話はするが安心できる情報 はない。思い立ったのが件の子宮摘出の獣医。手紙を書いてもらった。曰く、この犬は手術をしたばかりで回復途上にある。できるかぎり保護者の目、手の届く ところでの保護観察が望ましい。
 さて、成田空港。税関吏は獣医の手紙に頷いてくれたのである。母性愛の勝利。但し保護観察する住宅の間取りを提出せよ。その敷地から出してはならない。 1週間後と2週間後の2回、連れて来い。と言う条件で留置は免れたのである。
 私たちの食事のときは、私の隣の椅子に飛び乗って、チーズやら竹輪をお相伴するのが常であったが、晩年には足腰が弱ってその定位置にもジャンプできなく なり、目も白内障で白濁して、動きが鈍くなった。大した病気はしなかったが、ある日オシッコが出なくなり獣医に点滴を二回やってもらった。二日目には、出 るようになったと喜んだのもつかの間その日の夜、逝ってしまった。翌朝ダンボール箱に遺体を納め庭の草花で埋めて、ペット葬儀屋に運んだ。録音のお経の後 荼毘に付す。煙を眺めながら妻と二人でぽつねんと過ごした二時間が長かった。遺骨は泰山木の下に埋葬。最早11年前の10月のことである。 (2010/10/08)

 

モーツアルト・レクイエムを歌う(2010/09/23)

  レクイエムは死者の安息を願うカソリック教会のミサで用いる聖歌であり、その歌詞は教会の正式行事で使われる典例文である(部分的に詩篇やイザヤからの引 用という例外もあるが)。発足したばかりの「モツレクを歌う会」の一員として私はレクイエムを歌うつもりである。信徒でない私に歌う資格があるのだろう か。私なりの回答を模索した。
 8月の猛烈に暑い日、ゼミ仲間K君の葬儀に参列した。彼は筋金入りのカソリックで、六甲台へ登っていく坂道の右手にあるカソリック六甲教会の長老信者で あった。ミサの前にお会いした未亡人から、主人が神に召されたことを喜んでおりますと挨拶され、慰めの言葉の接ぎ穂に窮した。ユーロジーで司式者は、クリ スチャンの必要条件であるイエスの復活を心から信じた人であったとK君を称賛した。多分死者の全てを同じように称賛するのであろうが、キリスト教の核心が イエスの復活であることは十分に理解させられた。聖マリアの処女懐胎即ちイエスの誕生そしてそのイエスの磔刑からの復活は、聖書と言う壮大な叙事劇の原点 であり、そこに立脚しない限り、聖書の世界は存在しない。卑近な例で申し訳ないが、村上春樹の1Q84で二つの月の存在、ヒロインが交わったことのない男 性の子供を身ごもるという話――世俗の世界では絶対にありえ無い――を多少の想像力のある読者なら受け入れるのに似て、聖書の原点は受容されてきたのだと 思う。
 話は飛ぶが、マーラーというユダヤ教徒にresurrectionという交響曲がある。彼は最も広い意味ではクリスチャンと呼んでもよかったと言われる が生涯改宗はしていない。その彼がキリスト教の核心である「復活」をテーマに、永遠に生きる為に死ぬと歌い、神の救済の王国を歌っている。つまり異教徒が キリスト教の原点を理解し希求しているのである。しかもこの音楽は教会とは全く関係が無く、あくまで近代的な音響を誇るコンサートホールの為のシンフォ ニーである。つまりこれは教会外で異教徒によるこのような音楽が存在しうるという好例の一つではないか。
 このような例を見ると、信者あるいはchurch goersと呼ばれる人と、異教徒でも想像力の豊かな人とでは、聖書の核心に対する理解確信は大差ないのではと思われる。
 さて、モーツァルトである。アーノンクールがNHKのインタヴューで、モーツァルトは生涯自分の感情を音楽にしなかったが、Dies Iraeで初めて自分の感情を表現したのだ、だからバスの旋律(どんな怖れがあるのだろうという歌詞の部分)ははっきり歌うなと指示していた。しかし私に いわせれば、指揮者にモーツァルトの心象解釈はして欲しくないと思う。徒に変な感情移入を誘発するだけである。この曲は奏者の勝手な感情移入を拒否してい ると思う。
 1791年モーツアルトはダ・ポンテ宛に、自分が死を身近に感じ、灰色の服を着た使者に督促されて、自らのためにレクイエムを書いていると手紙を書いた とされるが、この手紙が本物かどうかは疑わしい。死を目前に予感しながらも、モーツァルトは最後の審判とか、その後の地獄極楽などは全く頓着なく(言い過 ぎかなぁ)、ひたすら頭の中の音のほとばしり、ダイナミックなリズムをそのまま書いたのではないか。彼の深層心理を忖度しようとするのは、無駄であると思 う。それだけにこの音楽を演奏する難しさがある。しかしはっきりしていることは、モーツァルトのレクイエムの前に教徒か異教徒かの差は全くないということ である。この音楽がそんなことを全く度外視しているからである。
 そしてモーツァルトその人はウィーンの聖シュテファン寺院の軒先でしか弔われなかった。勿論典礼の葬儀ではなかったろう。誰がそのとき彼の為にレクイエ ムを歌うことができただろう。来年はそれから220年。その間数え切れない人たちが彼のレクイエムを彼のために歌ってきた。私も来年7月30日それに加わ るのである。と思うとゾクッとする。

 
 

あれから65年―――胃弱少年の来し方(2010/08/15)

  65年前、玉音放送は疎開先の兵庫県西脇町立西脇国民小学校の校庭で聞かされた。雑音で何が語られていたのかは理解できなかった。雑音が無くとも7歳2年 生の子供には理解し難かったかもしれない。今日その8月15日を迎えて、はるけくもよくぞここまで来たものかなと感慨深いものがある。というのは、65年 前にこの子は成長しないだろうと医者に見放された体験以来、自分は胃弱であるというプレッシャーとともに生きてきたといっても過言ではないからである。終 戦記念日の8月15日に際してなどといえば、当然戦争体験敗戦体験を語るのだろうと思われるだろうが、そうではなく、本稿の主役は私の胃であります。
 胃弱が単に自分の思い込みだけではなかったことは次のようなことからも証明されることになる。1980年代前半、1回目のNY勤務から帰国直後、胃潰瘍 が判明。1年ほどタガメットを服用して治癒したが、今でも幽門近くに痕は残っている。また2度目のNY勤務中にお世話になったDr. Sにはあなたの胃は胃潰瘍、胃癌になり易いという忠告も貰った。しかし結果的に、ここまで大事には至ることなく経過しているのは、90年ごろからポピュ ラーに服用できるようになった胃酸を押さえる薬のお陰だろうと考えている。私の場合はザンタックをここ15年ほど毎晩就寝前に服用している。
 一方、胃潰瘍以来、私は毎年定期的に胃カメラ検診を受けている。経験者はご存知のように、カメラを飲み込むときの苦しさは何回やっても嫌なもので、その 苦痛を排除するために初めて麻酔をやりだしたのが、上述のDr. Sで、ちょっと腕に注射をされると1分後には眠り落ち、後は何をされても不覚の状態になる。勿論胃カメラ喉越しの苦痛は感知しない。私を初め多くの患者が Sクリニックの門を叩いたのは当然であった。しかし現在は経口ではなく経鼻カメラが主流になりつつあり、チューブの太さも経口の3分の1といわれ苦痛は随 分軽減された。
 更に特筆事は2008年9月、胃潰瘍胃癌を惹起するといわれるピロリ菌の除菌に成功したことである。これには大谷先生にお世話になった。                
 ここで冒頭で触れた65年前の、胃弱恐怖症の契機になった出来事に触れねばならない。私は1945年、国民小学校2年生の1学期に、吐血するという原因 不明の病を得た。同年3月の大阪大空襲を神戸東部(当時の葺合区)の自宅前の防空壕で一晩まんじりともせずに過ごした直後、私は単身、祖父母のいる北播西 脇に疎開した。疎開してみると神戸では全く食えなかった野菜がふんだんに食える。初夏にはいままで食ったこともなかった空豆がうまい。全て祖父が、下肥で 育てたものである。吐血したのは6月頃ではなかったか。近所の医者には子供の胃潰瘍なんて考えられないし、かといって原因はわからんと見放された。東神戸 の6月大空襲で焼け出されて私に合流した母が、罹災していない至近の県立柏原(かいばら)病院(いまの丹波市)に連れて行くがやはり原因不明。この子は成 長しないだろう。と医者に宣告された不安が、しかしある日突然晴れる。口から回虫を吐いたのである。胃に侵入した回虫が吐血の原因だったのだ。その遠因 は、ご想像の通り下肥栽培の野菜だったというわけ。その後は比較的健康に恵まれるのであるが、後遺症が残った。ソラマメ嫌いだ。大人になってビールのおつ まみとしてこんなに美味いものがあるのかと再発見するまで、空豆は見るのも嫌だった。吐血の原因は回虫で、回虫の原因はふんだんに食った菜っ葉類だったは ずなのに、子供心に犯人は空豆であるという先入観が確立されたらしい。空豆にとっては筋違いの濡れ衣であったろう。
 あと何回、空豆とビールの季節を迎えることができるのだろう。飲むことは、歌うこととともに、或いはそれ以上に末永く楽しみたいものである。胃よ今暫ら くは頑張っておくれ。
(2010/8/15) 

  

30日間断酒できた。が、(2010/06/20)

  5月10日から6月8日まで30日間断酒した。ジン、ウォッカは勿論、ワインも焼酎も、ビールでさえ一滴も飲まなかった。 動機は最近体重が漸増気味で10日の朝68kgを計測したことであった。 68kgではBMI は25.6で、はっきりメタボである。昨年の同時期は64kg程度であった。そこで思い切って向こう一ヶ月禁酒すると妻に宣言したのである。酒と体重に相 関関係があるのかは正直わからない。私はあると信じて禁酒に挑戦したわけである。初めは日頃の自分の意志の弱さから判断してひと月もつとは思わず、むしろ 飲まねばならなくなったエクスキューズを事前想定したりしたが、やってみると意外に容易に貫徹できた。なにしろこんなに長期間アルコール無しで過ごしたの は、1982年暮に痔を切ったときのドクターストップ5週間以来で、今回誰からも強制されずに実行できたことは自分なりに評価できる事件であった。
 実は3月の初めに左太ももから左腰に掛けて激しい坐骨神経痛に襲われた。坐骨神経痛は持病であり、加齢による腰椎の変形で今までも激痛や痺れを経験して いたが殆ど右腰右脚であった。それが今回は左で痛みが過去の経験に比べてはるかにひどく、歩くこと寝返りを打つことがままならず、情けない限りであった。 3月15日にMRI検査の結果、第2腰椎と第3腰椎の間に椎間板ヘルニアが発見され、それが腰椎の左側の坐骨神経を押し出すように圧迫していることが分 かった。ペインクリニックで神経根ブロック注射の治療を受け、今はそのヘルニアによる痛みは全く感じなくなっているが、3月から4月にかけて、ペインクリ ニック通い以外は、六甲の練習を含め外出はできず、ましてや汗をかく運動が全くできなかった。それがこの春、体重を増やす一因でもあったと思う。そのペイ ンクリニックの待合室で、とある男性患者が1年間禁酒しているお陰で5kg体重が減ったとしゃべっていたのも頭の片隅にあった。
 ともかく禁酒がスタートした。何しろ初体験であるから、side effectをも期待した。例えば、頭が冴え読書が進み理解が深化するだろうとか、声帯が正気で声が良く出るのではないかとか。しかし30日経ってそれは ないものねだりであったことが判明した。今朝相当汗をかいた8kmの歩きの後で、体重66kgであることから、体重減の目論見も成功したとは言い難い。肝 臓には十分特別休暇を与えたはずだが、それがどうしたと言う顔をしているようだ。さすれば30日間の断酒という事実以外には何の結果も残らなかったわけで ある。しかしbeforeとafterで何も変わらないのであれば、この30日の実験はbeforeの生活、即ち酒を愛する人生に免罪符を与えてくれたこ とになるのではないか。
 勿論私の30日の断酒体験などは世間様と全く関係は無く、その間も世の中はいつものように退屈に推移した。ただちょっとした変化は、アメリカのメディア にloopyと馬鹿にされ、優柔不断で気まぐれという、男の風上に置けない男が漸く正しい決断をして、TVのニュース画面から姿を消したことである。多く の視聴者の胸のつかえがとれすっきりとしたことであろう。 

                      

ジン(Gin) とウォッカ(Vodka)・・・・・(2010/04/21)

 Johann Strauss Uの男声合唱とオーケストラのためのワルツに ”Wein,Weib und Gesang! Walzer” という傑作がある。そのタイトルと歌詞の一部は、下記の英訳のような意味の文言を下敷きにしていると言われる。
“Who loves not wine, woman and song
Remains a fool for his whole life long” (拙訳;酒女歌を愛さぬ男は一生涯阿呆に終わる)
この文言のオリジナルは、新約聖書のドイツ語訳に取り掛かったMartin Luther (1483-1546)が、居所にしていたドイツ、ヴァルトブルク(Wartburg)の城で書き残したものとされる。誰が書いたにせよ箴言であり、これ ら天賦の三大賜り物は哀れなるわれわれ男どもにとって永遠の慰めであり喜びの源であることは疑いの余地があるまい。その筆頭の賜り物について「私のお酒」 を書いてみようと思う。
 我が家の冷凍庫に常備されているのが表題の2種類の酒である;ジンはTanquerayというラベル(JFKやFrank Sinatraが愛飲したという)、ウォッカはAbsolutである。どちらも大麦やライ麦などの穀類を原料とする無色透明な蒸留酒であるが、ウォッカが 無臭なのに、ジンは松脂臭い。これはJuniper berry(ねずの実)の香りである。
 私のジンとの遭遇は、グリークラブ入団直後、8回生の石橋(故人)、川瀬、木原(六甲男声では成子・故人)、橋田さん達の諸兄に、三宮や合宿地の富山、 広島などのバーで教えられたジンフィーズである。正確には “Gin Fizz”故にジンフィズと延ばさないで発音するべきものであるが、当時はジンフィーズと呼んでいた。ドライジンにレモンジュースをミックスして砂糖を加 えソーダ水で割る、という今考えれば女の子の飲み物であるが、当時の若造にとっては新鮮で、これにはまった一時期があった。これが私のジンとの馴れ初めで ある。

一 方ウォッカとの付き合いは比較的新しい。とはいっても最初にニューヨークに赴任した1975年からのアメリカ人との飲み会がきっかけであったから、かれこ れ30余年の伴侶である。当時のニューヨーカーはストリーチナヤというロシアブランドを好んで飲んでいたのだが、1979年のアフガニスタンへのソ連の軍 事介入に抗議して、五番街にストリーチナヤを投げ捨て、スェーデン製のアブソルート(Absolut)<写真>に乗り換えたものである。付和雷同の私も爾 来30年アブソルート派である。アブソルートの原料はGrainと表記されているので種々の穀類の混合と解される。一般にウォッカは大麦、小麦、ライ麦、 ジャガイモを原料とし蒸留後、白樺の炭で濾過して作られる。特にフレーヴァーの付けられたもの、例えばレモンとかペパーとか、以外は無味無臭無色であるた め、カクテルのベースになることが多い。若き日、スクリュードライヴァー(オレンジジュースとのミックス)やソルティドッグ(グレープフルーツとのミック スでグラスのふちに塩をぬる)などをご婦人に勧めたお方が多数いらっしゃるのではないかと思う。
 ところで上記2種類の蒸留酒をベースに私が日頃愛飲するカクテル;ひとつはブラディメァリ、ふたつ目はドライマティニに就いて。いずれも昼食時の最愛の お友?(お供)である。前者はウォッカとトマトジュースのブレンドであり、後者はドライジンにヴェルモットを1-2滴垂らしたものである。
 その昔よく利用したニューヨーク行きのJAL便は、直行便になってからは、成田午前11時半頃の離陸で、離陸直後にランチが供された。その食前酒のオー ダーを私は殆ど常にブラディメァリとした。日常の会議や電話からの開放感と、さぁ今日からニューヨ−クという高揚感にぴったりの飲み物であった。機内では トマトジュースに既にフレーヴァーが加味されたものがあり、それをウォッカとミックスするだけであったが、現在我が家ではAbsolutとトマトジュース のミックスに、ウースターソースを少々、タバスコを数滴、黒胡椒のあら引きを加える。冬の真っ最中でもタバスコのお陰で体の芯からあったまるのがside effectの一つといえばお笑いか。
 さてドライマティニ。普通はドライジンにヴェルモットを垂らすだけであるが、現在の私は、007シリーズの作者Ian Flemingに倣って、ジン6;ウォッカ2;ヴェルモット1のブレンドを楽しんでいる。冷凍庫からTanquerayとAbsolutを取り出し、冷蔵 庫のCinzano(イタリアのヴェルモット)と上記の比率で、グラスに注ぎ、レモンピールをtwistして入れ、straight-up即ち氷なしで頂 く。冷凍庫でギンギンに冷やしておく所以である。空気がからっと乾き太陽がきらきらと輝くようなランチタイムにはドライマティニが最適だが、アルコール度 がTanqueray47.3%Absolut40%Cinzano18%で、全体で40%強となるので、昼に飲むと午後が潰れる可能性が高く、午後に仕 事があるときにはお奨めできないのが難である。
 ついでに夜はどうかというと、原則はAbsolutの水割りであるが、その日の料理と気分によって、白または赤のワイン、或いは焼酎を飲み分けている。 こんな風に書いてくると、あいつはアル中ではないかと思われるかもしれないが、六甲男声の練習日の火曜日は休肝日で、週に一回は一日完全dryに過ごして いる。天が哀れな男に恵まれた賜り物の一つを人並みに楽しんでいるに過ぎないのである。(4/21/2010)

                        

樫本大進・・・・・・バッハその2(2010年2月23日)

                                                                        


(樫本大進氏の演奏会プログラムから転載)

  2005年のドイツ演奏旅行の最初の演奏会はペッターヴァイルのサンクト・バルド教会で開催された。その開催に尽力下さった安達さんが先般一時帰国され、 河原さんと共に会食した。安達さんはフランクフルト・オペラ&ムゼー・オーケストラでコントラバスを担当されている。色んな音楽談義の中で樫本大進に話が 及び、彼が昨秋ベルリンフィルのコンサートマスターの試用オーディションに合格したことをうけて、「前(の観客)よりも後ろ(の楽員)が怖い」と言ってい た、という話を聞いた。試用期間の2年後(2011年秋)、楽員の3分の2以上の賛成があれば正式のコンマスに就任できるということなので、上記の発言も むべなるかなと思う。樫本は別のところで、ソロでは経験できないブルックナーやマーラーを弾けるのは何物にも替えがたい勉強であると、語っていたし、最近 の新聞では「座り方や体の動きで、音が出る前に出したい音をメンバーに伝えないといけない。いきなり海に放り込まれた気分。」(朝日夕刊2/15付け)と も言っている。正式のコンマスになろうとなるまいと、彼が幅広く奥深く音楽体験を積んで大成されるよう期待したい。
 その樫本の無伴奏ヴァイオリンリサイタルが2月20日シンフォニーホールで開かれた。曲目は演奏順に、バッハのソナタ第2番、パルティータ3番そして2 番であった。
 ソナタ第2番はgraveから始まる。ちょっと音色が明るすぎないかとも思ったが、フレイジングというのかセンテンスのつなぎというのか、消え入りそう な収めから次のフレイズへ極めて滑らかに移っていく巧みさに魅了された。去年1月にベートーヴェンのコンツェルトを聴いたときも第2楽章のあの優美なメロ ディの歌わせ方に感嘆したものだったが、彼の歌い方は実に上手い。次のfugueはポリフォニックな部分とメロディアスな間奏とが入れ替わりながら進行し ていくのだが、微妙なニュアンスの変化でめりはりをつけた演奏だったと思う。
 パルティータのキャラクターを一口で言えば、3番が「晴れ晴れとした快活」であり、2番は「厳粛なセレモニー」(Andreas Moser)といわれる。まさにシャコンヌは厳粛なセレモニーそのものである。この日の圧巻であった。曲の偉大さに演奏者が端から負けていることも多いと 聞くが、樫本は曲を自分の弓のコントロール下において弾いたと思う。たった8小節のテーマから30の変奏、人によっては4小節のテーマの上に64の変奏と も書いている、という巨大な建造物である。4本の弦を最大限に使った重音の連続を樫本は低音を意識して大事に鳴らし、その上に分厚い多色タペストリーを織 り上げていった。そして中間部長調に転じる最初のパッセージは突然雲間から差し込む一条の光を思わせた。憧れといっていいか。そして最後は再びテーマを重 厚に鳴らしながら盛り上がって終わった。
 バッハの無伴奏のソナタとパルティータはバロック時代の掉尾を飾る金字塔だと思うが、このポリフォニックな音楽を4本の弦と1本の弓で、作れるのがバッ ハの真骨頂であり(バッハはオルガンの名手と理解されているが、ヴァイオリンにも習熟していたと言われる)、それを再現してくれる若い名手がいることは、 聴く身にとってはこの上ない幸せである。樫本大進のリサイタルは心の高ぶりと、そして矛盾するように聞こえるかもしれないが、同時に深い沈静を与えてくれ た。プログラムによれば使用楽器は1674年製のアンドレア・グァルネリとのことである。
Good Luck樫本大進。

 

  

ブランデ ンブルグ協奏曲-----バッハその1(2010年2月21日)

  2月13日PAC大ホールで開催されたベルリン古楽アカデミーオーケスト ラによるブランデンブルグ協奏曲全曲演奏会を 聴いた。
 このオーケストラは1982年に東ベルリンで若手音楽家により結成されたとのことである。今回は総勢19人、ヴィオラダガンバにチェロ古楽器の第一人者 といわれるヤープ・テル・リンデンが座っており(彼は昨年3月PAC小ホールでバッハの無伴奏チェロリサイタルをやっている)、それだけでも相当な腕利き が集まっているものと推測できた。コンサートマスターとコンサートミストレスとがおり、そのコンミスはMidori Seilerという1969年大阪生まれ、ザルツブルグ育ちの日独混血で、現在京都府下で茅葺音楽堂ドゥオピアノコンサートを主宰しているErnst Seiler氏の、死別した最初の奥さん(この人も日本人ピアニスト)との間にもうけられた四姉妹の末娘ということである。
 ブランデンブルグ協奏曲と呼ばれる6曲のグループはバッハの「就活」の下心もあってブランデンブルグ辺境伯に献呈され、それゆえに後世の伝記作家にその ように名付けられたが、もともとそのために特別に作曲されたものではなく、また当時のベルリンにはこれを演奏できる奏者も環境もそろっておらず、一度も演 奏されることなくお蔵に大切に保管されることになったそうである(従ってバッハの就活の下心は報いられなかった)。むしろバッハが1717年にカペルマイ スターになったケーテンのレオポルト伯の宮廷で演奏されていたことが、宮廷事務所の会計簿やチャペルの記録から、証明されており、従って作曲はケーテン時 代(1717-1723)、あるいはそれ以前にさかのぼらねばならないと推測される。
 第1曲。2本のホルン、3本のオーボエ、コンマス氏のヴァイオリンソロ、バックの全体演奏が、相互に小気味よく絡まり、フレーズを出し入れし、いろんな 色の縦糸と横糸を織り上げていった。コンマス氏の足、腰、腕の動きは言うに及ばず、奏者同士のアイコンタクト、豊かな表情、特に時に見せる笑顔、あぁアン サンブルはこうやって作られるのだと実感した。まさにこれが生でチェンバー演奏を観るそして聴く醍醐味であろう。アットホームで楽しい雰囲気で始まった。 惜しむらくはチェンバロ奏者はバックをこちらに向けており表情は見えないし音もあまり聞こえなかった。
 これが第5曲で非常に不満の残るところとなった。この第5曲は,バッハが1719年にベルリンで調達(このときブランデンブルグ辺境伯と知り合い曲を所 望されたことが6曲の協奏曲の献呈の遠因になったと推測される)した新しいチェンバロのために作曲され、バッハ自身がチェンバロを独奏したものと考えられ る、正真正銘のチェンバロ協奏曲といっても良いものである。この日もこの曲ではチェンバロは向きを変えられ協奏曲の独奏楽器の位置にはなったものの、いか んせんチェンバロの音は小さすぎた。古楽器で演奏することでその時代の音を再現しようというのなら演奏場所もそうしないと意味がない。2000人が入る大 きな箱では、もともと優しい音のチェンバロには気の毒過ぎたのではないか。
 コンマス氏は第1曲と第2曲のヴァイオリンソロの後はヴィオラに持ちかえ、第3曲から第5曲のヴァイオリンはわがコンミス嬢が弾いた。第4曲の難曲とさ れるソロは素晴らしかった。またヤープ・テル・リンデンは全6曲出ずっぱりで活躍した。
 最後の第6曲のアダージオは、私たち老夫婦が、晩秋の日差しに包まれ、夫々若いときの思い出の1ページをくりつつ、時々お互いにうなずき笑みを交わして 散策している気持ちにさせてくれた。散策の場所? それは近隣の林間、あるいは5年前に訪れたハイデルベルグの古城。
外は風の冷たい冬の真最中ではあるがほのぼのうきうきした午後であった。

                             

高速道路 で180度スピン   (2010年2月11日)

  先週の土曜日(2月6日)の朝、大して積雪も無いのに、私のフィットネスジムの女性従業員が出勤途上、単車で左折しようとしてスリップ横転、両膝打撲で内 出血の怪我をした。これで思い出したのが、アメリカ時代に幾度と無く経験した車のスリップ事故。なかでも、一貫の終わりと一瞬観念したのがこれである。
2月の第3月曜が、ジョージワシントンとリンカーンの誕生日を記念してPresidents’Dayという祝日になっており、3連休になる。単身赴任中 だった1988年のちょうど今頃、同じ境遇の5人でスキーに行くことにした。ところがラガーディア空港に行ってみると目的地のバーリントン(ヴァーモント 州の州都)空港がスノウストームで閉鎖だという。スキーを担いで出てきたのに今更家に帰れるかという声に引きづられ、無謀にもレンタカーで陸路行こうとい うことになった。私たち3人が借りたのはフルサイズのジョージァナンバー。南の州の登録。スノウタイアなど着けているはずはない。
 マサチューセッツ州を過ぎてヴァーモント州に入って暫く、まだ明るかったので3時頃だったか、第1回目のスリップ(あちらではslipとは言わず skidと言うのだが)で、私たちの車は、完全に高速道路をはずれ道路わきの深い積雪にソフトランディングした。レッカー車を呼んで、小一時間で道路上に 復帰。Safe Drive!とレッカー車に言われて、ルート93の北上を続ける。
 あたりは真っ暗になって直線の長い下り坂。先行する車のテールランプが蛇行している。こりゃあやばいぜと思った瞬間私たちの車が左へスリップ。ガード レィルに激突かと思ったら更に回転。180度回転して今来た方向を向いてやっと停車。その瞬間大型トラックが我々の車を震わせてすぐ横を通過。肝を冷やし たその直後に小型車が我々の方向に向かって来るではないか。思わず頭をかかえて小さくなった。その車は我々のフルサイズカーの左前方を掠めて道路の反対側 へすっ飛んだ。それはホンダだったが運転席のドアが開かなくなって、ドライヴァーは窓から、おめぇらなんで反対方向向いてるんだと怒鳴った。あぁ彼は生き ていた。お互い小破ですんだ。しかし衝突事故は衝突事故。ポリスの調書がないと保険求償もできない。1時間危険な箇所でポリス待ち。その間あらためてまわ りを見るとなんと10台ほどの車が、道路から落ちたり、アップサイドダウンにひっくり返っていたり、道路わきの岩に激突していたり、信じられない光景だっ た。
 そもそも彼の地ではチェイン装着は禁止。その代わりこまめに塩、砂をまいてくれるが、スノウタイアではどうしようもない。積雪或いはアイスバーンの道路 では運だけが頼り(運転技術も多少あるかもしれないが)。歴史にifはないように、我々の人生にもifは無い。しかしもし30秒早く大型トラックが来てい たら。もしホンダが車の前方ではなく側面に激突していたら。間違いなく今の私は存在していない。何十秒か何メートルかの差。やはり運が味方をしてくれたと いうことか。


年の初め に------老人の一年はなぜ短いのか------(2010年1月22日)

 毎 年年末に、この一年も過ぎるのが早かったなぁと言う感慨に必ずとらわれます。例年1月は比較的ゆっくりと過ぎます。しかし2月は逃げる。夏以降は加速度が つきます。特に昨年は、11月に「モツレク」と「三商大」というイヴェントがありそのための準備が夏に本格的に始まると、その後はカレンダーに追われて アッと言う間でした。しかし物理的な一年の長さはお天道様のお決めになった通り地球上の万物に公平に一律であり、老人の一年が短いと言うことはあり得ませ ん。故に表題の設問の立て方は間違っています。老人の一年はなぜ短く「感じられる」のか?と問いを立て直しましょう。
概ね伝統的には次のように答えられます。「時間の長さの感覚は、生物がそれまで過ごしてきた時間の総量を分母として考量されます。五歳の子どもにとっては 一年は人生の二十%の時間です。五十歳の大人にとっては二%に過ぎません。」(内田樹著「日本辺境論」新潮新書p183-4)
ところが分子生物学者福岡伸一氏は上記の時間感覚の把握の仕方を否定しています。氏の知見或いは仮説が私には非常に新鮮で、皆さんとこれを共有したいと思 い、かなり長い引用をさせていただきます。
「私たちは自分が生きてきた時間、つまり年齢を、実感として把握してはいない。(中略)もし記憶を喪失して、ある朝、目覚めたとしよう。あなたは自分の年 齢を「実感」できるだろうか。自分が何歳なのかは、年号とか日付とか手帳といった外部の記憶をもとに初めて認識できることであって、時間に対する内発的な 感覚は極めてあやふやなものでしかない。したがって、これが分母となって時間感覚が発生しているとは考えがたい。」「今、私が完全に外界から隔離された部 屋で生活するとしよう。この部屋には窓がなく、日の出日の入り、昼夜の区別がつかず、また時計もない。この中で、どのようにして私は時間の感覚をうること ができるだろうか。それはひとえに自分の『体内時計』に頼るしかない。」「生物の体内時計の正確な分子メカニズムは未だに完全には解明されていない。しか し、細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることがわかってい る。つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢と共に遅くなると言うこ とである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。」「タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にも かかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じ速度で過ぎていく。(中略)つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから」ではない。実 際の時間の経過に、自分の生命の回転速度ついていけていない。そういうことなのである。」(福岡伸一著「動的平衡」木楽舎刊p42-5)
 そういうことなのである、と断定されてもストンと腑には落ちません。なにしろ日常生活をしている限り体内時計に頼る必要性がありませんし、それが加齢と もに遅く進むとなると、余計実感が乏しいと言わざるを得ません。しかし、いままで過ごしてきた時間の総量を分母とする把握の仕方よりは、説得力がありそう です。ただ幸か不幸かこの書斎には窓がある、時計もカレンダーもある、パソコンもテレビもある。従って体内メカニズムよりも外的与件のもとで、カレンダー のスピードに遅れずついていくしかあるまいと考える年頭であります


は じめまして (2010年1月17日)

  「グランパTedの書斎」の主、花岡 亜光(はなおか つぐみつ)です。六甲男 声の運営委員長兼団長を団員諸兄による再任を重ねて6年目を迎えまし た。今回ホームページのリニューァルに伴い、このページを与えられたのを機会に、先ずは簡単に自己紹介から始めます。
1938年神戸生まれ。1961年神戸大学グリークラブ卒。今年年男で3月に72歳となります。家族はワイフ一人。但し広島に女の孫二人、六甲アイランド に男の孫三人、計5人の孫がおります。それが書斎の主がグランパである所以です。
次にTedの由来です。外人は直ぐにお前のファーストネームは?と聞きます。そこでTsugumitsuだというと、長ったらしくて舌を噛みそうになるの で、イニシャルのTのつく、奴らの呼びやすい愛称にして、海外との商売或いは海外での生活をしてきたというわけです。皆さんもどうぞ気軽にTedと呼びか けてください。
さて今年は寅年。Tigersが寅年に華をそえることができるか。4回り前の寅年1962年にはリーグ優勝しました。今年も城島の補強で大いに躍進しても らいたいものです。
  Tigersファンだということも重要な自己紹介の一部です。
 末永くよろしくお願いします。





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