|
マエストロ
井上のアトリエ
音楽監督 井上和雄のページです
「井上和雄 吉田脩二 美術館」は、 → こち
らへ
|
目 次
(タイ
トルをクリックすると記事へジャンプします)
{プログラム}
第1部 第1ステージ 山田一雄作曲「祖谷谷より」
序詩 祖谷谷 道しるべ 釣鐘池 小径 葦 花鳥 杢太郎さん 闇夜
小屋ずまい INTERMEZZO 結び
第1部 第2ステージ 山田一雄作曲 「宮沢賢治・三章」
高原 市場帰り 風の又三郎
第2部 前半 山田一雄作曲
蜂のうた 遥かな花 貧しい贈り物 もうじき春になるだろう
第2部 後半 石渡日出夫
鹹湖 月夜の浜辺 汚れちまった悲しみに 笛の音のする里へ行こうよ
仏陀 風船乗りの夢
{解説}
このプログラム解説を依頼されて、初めてこの二人が作曲家として名をなした人たちであることを僕は知りました。その僕が解説を書くのも気が引けますが、実
は楽譜を頂いてから今日演奏される作品に親しむにつれて、「これはエライことだ!」とショックの受け通しだったのです。この解説はその衝撃を語ることにな
るでしょう。
山田一雄(1912~1991)
は少なくとも戦後、N響の指揮者として圧倒的に有名だった人ですが、今日演奏される代表作「祖師谷より」は、深尾須磨子のその詩とあいまって当時ほとんど
ショッキングとも云える作品でした。
大方の解説によれば、そのショックの内容は、それが日本歌曲の中にフランス近代の要素を見事に導入したところにあります。そのことは、とりわけ深尾須磨
子の詩に触発されたこととあいまって、じつに気の利いたエスプリが日本歌曲のなかで実現している点にあるというのです。たしかに深尾須磨子の詩は、まるで
パリのファッションを目映いばかりに身に纏った姿を彷彿とさせます。彼女がこの詩の中に散りばめている「ソロモン王」とか「ヘブライの言葉」といった言葉
さえ、今となってはそれが意味不明だとしても、それだけで異国の夢をぼくらに暗示して煌びやかだし、「祖師谷」そのものについての気の利いた詩的発想は、
当時の人に目くらましを食らわせたようにさえ感じられます。
ここで深尾須磨子論を語るわけにはいきませんが、そういった深尾須磨子の詩は、たとえ彼女が実際に、当時田舎であった武蔵野の祖師谷(現在は世田谷区)に
住んで詠ったものであろうとも、本質的に都会人がその夢を田舎に求めた詩であって、一見土着的発想があっても、それはまったく土着的なものではありませ
ん。
そして山田一雄もまた、そういった一種ハイカラな世界に反応しました。その反応も見事という他はありません。にも拘わらず僕がショックを受けたのは、彼の
作品が、そういうものに触発されたとはいえ、これまでの日本歌曲には全く見られないほどの斬新さを実現している点です。
彼の歌曲の特徴はまず、その単純な旋律線にあると云ってもいいのですが、その単純な旋律線が、極めて器楽的なところにあると僕は思います。そしてその事は
同時に、音楽的完成度の高さを示しています。見過ごされやすいのですが、第一曲の主題そのものがそうであり、第2曲も、非常な傑作である第4曲も第5曲も
注意深く見ればすべてがそうだと云えるほどです。「杢太郎さん」でさえそうです。そしてまたその和声進行が素晴らしい。特徴的なものでいえば第3曲で、こ
れなどはヨーロッパではすでにハイドン辺りから見られるものですが、日本的旋律と組合わさって素晴らしい効果を上げています。
要するに橋本国彦からいわば近代に向けてスタートした日本歌曲は、山田一雄に至って、ついにヨーロッパ音楽が学ぶべき対象であるよりは、山田自身のものに
なっているという印象を受けます。彼の作品は、彼の音楽的教養の蓄積と高さを示しているとも云えます。そこからフランス近代だけでなくマーラーやブラーム
スの残響さえ聞こえてくる想いがします。そしてまたそこには、おのずと作品が迸り出たような自然さがあるのです。その点でとりわけ素晴らしいのは転調や和
声進行です。橋本国彦が見せている意欲と技法のせめぎ合いはここには感じられません。ついに日本歌曲が新しい段階に来たのであり、そして今なお新しさを持
ち続けているのです。それが彼の作品のもつ衝撃でした。後年、作曲より指揮に没頭した経歴が惜しまれてなりません。
山田一雄に紙面を多く費やしたために石渡日出夫(いしわたひでお1912〜2001)については多くは書けませんが、彼も山田一雄と同じ年に生まれていま
す。畑中良輔によれば、彼は信時潔に学んだあと、やはり橋本国彦の影響をうけ、フランス的な志向を強めたということですが、今日演奏される中原中也や萩原
朔太郎の詩を中心にした歌曲は、両者の影響が如実に感じられます。最初の「鹹湖」(かんこ)や「仏陀」は明らかに信時の方向を石渡の情感世界に引き寄せて
重厚に歌ったものです。
しかしながらその他の作品は、山田一雄と共通するシンプルな旋律と器楽的構成を感じさせます。にもかかわらず石渡日出夫には独自の世界があって、それは彼
の中にある歌謡的ともいえる抒情性であると思います。それが最も端的に現れているのが中也の詩につけた「汚れちまった悲しみに」です。僕自身の解釈からい
えば、この作品は、あまりに中也の詩を石渡の感傷の世界に引き寄せすぎている。にもかかわらず、その主旋律の単純な姿は、だれもが愛せずにはおれないもの
です。その微妙なバランスがしっかりした意図のもとに造形されたものが萩原朔太郎の詩につけた最後の「風船乗りの夢」でしょう。これこそまさに山田一雄と
共に切り開いた新しい日本歌曲を出現させた力作です。山田と石渡は、戦前から戦後にかけて紛れもなく日本の新しい歌曲の世界を切り開いていたのです。
(2018/1/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1〜第4ステージ 貴志庚一作曲 八重桜 天の原 花売り娘 行脚僧 かもめ
第5ステージ 平尾貴四男作曲 うぐいす 栗問答
第6〜第10ステージ 清水脩作曲 春の寺 桜と雲雀 逢いて來し夜は 月草
髪 蛇 荒涼たる帰宅 北の海 サーカス
第11〜第13ステージ 貴志庚一作曲 かごかき 赤いかんざし 風雅(みやび)小唄
第14ステージ 福井文彦作曲 かんぴょう
第15ステージ 古関祐而作曲 白鳥(しらとり)の歌
第16〜第17ステージ 清水脩作曲 落葉のように 小曲
第18ステージ 服部正作曲 野の羊
第19ステージ 越谷達之助作曲 初恋
第20ステージ 古関祐而作曲 長崎の鐘
{
解説}
「神戸波の会」は以前、「日本歌曲の波を追う」シリーズの第六回目に明治生まれの作曲家を幾人か取り上げましたが、今回の作曲家は明治生まれといって
も、ほぼ明治の末に生を受けて、実際には昭和に入って活躍した作曲家を取り上げています。その中でも代表的な二人として貴志康一と清水脩の作品が多く取り
上げられていますが、この二人が大阪出身である事をご存知でしょうか。
まず貴志康一(1909〜1937)ですが、祖父から父へと受け継がれた繊維問屋の息子として10歳まで大阪市内の桜宮で過ごし、10歳以後は芦屋の別
邸から甲南小学校、甲南高等学校へと通い、高校2年生のときスイス、そしてベルリンへとヴァイオリンのために留学します。ベルリンではフルトヴェングラー
に指揮を学び、ヒンデミットに作曲を学ぶという幸運に恵まれますが28歳の若さで盲腸をこじらせて夭折します。
何回かドイツと日本を往復する旅のあいだに殆どセンセーションともいえる評判を得るのですが、彼の作品を見ると、彼の才能がいかに秀でたものであったか
分かります。ここで一曲ごとの細かい解説は出来ませんが、日本歌曲の歴史から見ると彼の歌曲の特徴は、驚くほど「日本的」といっていいものです。その音
階、旋律、和声、すべてが日本的です。これは意外ともいっていいもので、大抵の近代日本の作曲家、とりわけ昭和期に入ってからの作曲家は何らかの意味でモ
ダンなものを必死で追い求めていたからです。
とりわけ彼がドイツで8年もの間活躍し、ヒンデミットに作曲を学んだことを考えると不思議でもありますが、じつはそれゆえに貴志は日本的なものを意図し
たように思えます。彼は西洋にかぶれたのではなくて、むしろ自分のアイデンティティを問われる思いをして、このような作品を作ったのだと思われます。しか
も今から見ても、非常に良くできている。日本的と呼ばれる常套手段を取っているように見えて、実は非常に考え抜かれた和声を使っています。コミカルなも
の、抒情的なもの、いずれも現在の日本歌曲の水準から見て優れたもので、彼の才能がキラキラと輝いている印象をもちます。
この演奏会のもう一人の軸になっているのは清水脩(明治44〜昭和61年)の歌曲です。大阪の天王寺出身の彼は大阪外国語大学のフランス語科を出た後、
東京音楽学校で橋本国彦に作曲を学び、戦後数多くの作品を生みました。僕自身は彼の男声合唱曲に親しんできたのですが、今日採り上げられる歌曲の幾つかを
見て、その作品の精緻な作りに驚いたのが正直なところです。とりわけ詩への解釈の深さと、その深みから音楽を作り上げる集中力の凄さが印象的です。
ここでも一つ一つの解説は出来ませんが、例えば室尾犀星の詩につけられた「抒情小曲集」は、それぞれ趣を異にしながら、犀星の抒情が清新な音で綴られて
います。例えば「春の寺」のピアノの序奏のさんざめくような響きは印象的ですし、「逢ひて来し夜は」は、恋人と幸せなひと時を過ごして帰って来たときの、
幸せに満ちた気持を歌いながら、その気恥ずかしささえ表現しています。あるいは「蛇」は、詩の内容が一ひねりしたエロスの歌であるだけに、曲そのものも工
夫を凝らし、ドラマチックなものになっています。
以上の室生犀星につけた曲が基本的には青春の恋の歌であったのに対して、「荒涼たる帰宅」は清水の代表作中の代表作ともいえる「智恵子抄」の中の一曲で
す。いったいこのように深刻な詩が歌として可能なのかと思うほどの作品ですが、その導入部に見られるモチーフは、例えばバルトークのあるフレーズを思わせ
るような造形性をもって、心に沈み込んで来ます。ここまでの精神の集中を前にして僕らは言葉を失う、そういうところに清水脩自身の精神の集中と強靱さを見
る思いがします。
その意味では中原中也の詩につけた「北の海」は別の形で彼のピアノと歌の造形性の素晴らしさを見せていますが、「サーカス」は清水の別の顔、珍しく諧謔
味のあるピアニスティックを楽しんでいるように思えます。大手拓次の詩「落葉のように」と「髪」はいずれも女を歌ったものとはいえ、どこか苦味を伴った詩
ですが、清水は、そこの所をロマン的情熱とともに苦味をもった和声とフレーズでまともに表現しようとしているところが印象深い曲です。
以上の二人のほか、取り上げられている作曲家平尾貴四男(明治40年〜昭和28年)は珍しくフランスに留学したいわば本格派で「うぐいす」がその一端を
示していますが、二曲目の「栗問答」や、福井文彦(明治42年〜昭和51年)の「かんぴょう」、服部正(明治41年〜平成20年)の「野の羊」などは軽妙
な歌曲分野を広げ、古関裕而(明治42年〜平成元年)の「白鳥」、越谷達之助(明治42年〜昭和57年)の「初恋」は、ポピュラーとクラシックを繋ぐ歌曲
を生んでおり、明治生まれの作曲家がそれぞれの分野で多彩な活動をしたことが知られる今夜のプログラムです。
(2017/12/03)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1部 T歌曲集「日本の笛」 1.祭りもどり 2かじめとたんぽぽ 3.親船子船
4.波の音 5.あの子この子 6.たまの機嫌と 7.ぬしは牛飼
8.びいでびいで 9.仏草花 10.関守 11.追分 12.夏の宵月
13.くるくるからから 14.落葉松 15.伊那 16.山は雪かよ
17.ちびつぐみ 18.渡り鳥 19.ここらあたりか 20.あいびき
21.野焼きの頃
U「みだれ髪」 1.海こひし 2.やわ肌の 3.みだれ心地
4.細きわが 5.春はただ
第2部 V「三つの挽歌」(亡き子に) 1.草の実 2.月の光は
3.やまふところのおくつきに
W 月(そのT) 月(その2)
X名曲集 1.晩秋の歌 2.しぐれに寄する抒情 ゆりかご
3.ふるさとの わがうた 4.うぬぼれ鏡 5.秘唱 甲斐の峡
6.平城山 7.九十九里浜
フィナーレ ゆりかご
{解説}
神戸波の会の「日本歌曲の波を追う」シリーズの8回目は平井康三郎の歌曲です。このシリーズも前回の橋本国彦からいよいよ昭和の時期に入っ
てきたのです
が、橋本国彦の活躍した時代は昭和であったとはいえ、彼は青年期に大正のロマンティシズムを経験し、あるいは大正デモクラシーと呼ばれる自由も身に付けて
いたと思われます。そういった一種のモダニズムが彼の才能と相まって、新風を吹き込んでいました。
そのあとを受けたのが平井康三郎でした。そこで僕らも橋本国彦に見られた新しい歌曲の動きを期待したいところですが、第三者の期待通りには行かなかっ
た。そういうのが歴史の現実というものでもあるのでしょう。
とにかく平井康三郎(1910〜2002)の生まれは明治43年、高知県でのことです。橋本国彦から6年の開きがあり、更に彼が東京音楽学校(現東京芸
大)のヴィオリン科を卒業後、研究科の作曲部を終了したのが昭和11年です。つまり彼は完全に昭和期の人という事が出来ます。そして直後の昭和12年(日
中戦争の始まった年)から戦後の昭和22年まで東京音楽学校に残り、教鞭を執っています。そして今日取り上げる「日本の笛」(北原白秋作詞)という歌曲集
も、その間の昭和18年に作曲しています。そのあと大阪音楽大学でも教鞭を執っていたようですが、とにかく戦中戦後にかけて多くの作品を書いています。
このように書いてしまえば、それだけの個人史ですが、実はこの時代を考えると、この戦争が彼の音楽人生に大きな影響を及ぼしていたに違いな
いと思わずに
いられません。
とりあえずは以上の事を念頭に置いて、まず彼の作品を見ますと、特徴的な事は橋本国彦のような斬新さを持たず、その作風が非常にバランスがいいという事
です。演奏をお聴きになれば分かるように、彼の作品は決して凡庸という訳ではないのですが、人を驚かしたり、難解な思いにさせるものがなくて、むしろ曲想
は平明といっていいものです。誰もが安心して曲想についていける。それをぼくはバランスの良さと表現したのですが、べつの見方をすれば彼の作品には実験的
な要素が殆どみられない。作曲家あるいは芸術家として新しいものを求めるのは一種の本能のようなものだと思われるのに、それがないのです。
その理由が一体どこにあるのかと思うのですが、そのことを考えていくと、彼は新しいものを自ら生み出すよりは、むしろそれまでの日本歌曲の成果を汲み
取って、その成果の上に自分の感性を花咲かせていったのではないかと思われます。彼の代表作といっていい21曲からなる『日本の笛』の諸作品は、とりわけ
そう思わせます。
「日本の笛」は、彼自身がその前書きで書いているように、北原白秋の同名の詩集に感激して、一気に書き上げた連作です。その作品集は、決し
て人を驚かす
ようなものではなくて、どれも納得してその曲想について行けるものです。しかし凡庸と云うわけではなくて、「あの子この子」などは秀作といってよいでしょ
う。あるいは彼の作風の一つであるコミカルな作りの「山は雪かよ」や「ちびつぐみ」などは、多分後に書かれたと思われる「うぬぼれ鏡」に通ずるものを持っ
ている。あるいは彼の作風の一つである、極めてシンプルな旋律の持つ良さが「びいでびいで」や「夏の宵月」、あるいは「野焼きの頃」に良く出ています。そ
して民謡調そのものといっていい「親船子船」、「関守」、「追分」などは、明らかに北原白秋の詩にインスパイアーされた喜びがあります。
こういった作品を一つ一つ見ていくと、山田耕筰や中山晋平、場合によっては橋本国彦の洒落た曲想さえ受け継いでいて、要するにそれまでの大正期に花を咲
かせた日本歌曲の精髄を自分のものにしていた平井の立場が、そのまま現れているように思われます。
しかし実をいうと、平井が自ら望んでこれまでの日本歌曲の成果の上に安んじて作品を作り続けていたようにも思えません。かれは本当は、橋本国彦や山田耕
筰、信時潔のように留学して、ヨーロッパの新しい音楽に触れ、新たな冒険、実験を望んでいたのではないでしょうか。しかし作品を作り続けた東京音楽学校の
10年間、27歳から37歳の間は最も創造的である時期であるにもかかわらず、戦争と敗戦の荒廃で、留学は許されなかった。そのことが必然的に彼を従来の
作品の成果を摘み取る方向へ向かわせたように思われ、これも戦争のもたらした悲劇の一つではなかったかと思うのです。
彼の作風と云っていいのか、彼の作品にはこのほか情緒纏綿の作品群があります。ぼくはこの手のものは正直に言えばあまりいいとは思えません。センチメン
タルです。あえて曲名はあげませんが、やっぱり彼は、その点では作曲家としてもっとクリティカルな目を働かせて欲しかったと思っています。しかし彼の役割
は、それまでの日本歌曲の成果を刈り取る事にあったとすれば、彼の仕事は、それを充分果たした事が今日の演奏会でお分かりになると思います。
(2017/09/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1部 1.牡丹 2.なやまし晩夏の日に、垣の壊れ 3.薄いなさけに
4.城ヶ島の雨 5.犬と雲 6.薊の花 7ぼろぼろな駝鳥
8.斑猫 9.黴 10.舞
第2部 11.幌馬車、母の歌 12.親芋小芋
13.山の母 14.田植え歌 15.富士山見たら 16.お六娘
17.落葉 18.アカシアの花 19.お菓子と娘 20.朝はどこから
{解説}
神戸波の会の日本歌曲の波を追うシリーズも7回目を迎えることになりました。これまで明治の七音音階の導入に始まる日本歌曲の黎明期から、
大正ロマンが
花を咲かせた時期を経て、遂に昭和の時代に入って来たことになります。この時代はいうまでもなく日本が戦争に突入していった時代であり、政治経済のみなら
ず文化まで戦争に動員されていった時代です。音楽もまたその波に飲み込まれてゆきました。しかしながら、まだ大正のロマンが息づいていた昭和初期に彗星の
ように現れたのが橋本国彦(1904〜1949)です。今日演奏される歌曲の殆どが昭和六年までに書かれていて、端的にいえば、昭和7年に起こった五・一
五事件以前のものです。彼は昭和9年にウィーンに留学しますが、帰国後は彼自身、軍国主義の波に攫われていったといってもいい様相を呈します。しかしそれ
故に昭和初期の彼の作品は日本歌曲の流れの中でも瞠目すべき現象ではなかったかと思われます。
とりわけ今日演奏される第一ステージの曲は、どれもが彼の際だった才能を示しているといっていいでしょう。最初の「牡丹」、「薄いなさけ」、あるいは民
謡風の「城ヶ島の雨」にしても自然な中に、形がしっかり捉えられている。とりわけ「薊の花」はその情緒性が見事に捉えられているのみならず、ピアノの和声
も非常によく錬られています。この一曲だけでも新しい作曲家が現れたと言われるに相応しいものです。
しかしなんといっても素晴らしいのは深尾須磨子の詩に付けた3曲、「斑猫」、「黴」それに「舞」でしょう。当時としては文字通り斬新としか
言えない世界
が現れます。もともと深尾須磨子の詩そのものが、当時、現代詩として驚くほど清新な自由詩でした。それはいま読んでも僕らに鮮烈な印象を与えます。その自
由な言葉のインパクトを橋本は音の世界で捉えようとしました。そのとき彼の楽想の中には、おそらくフランス近代の斬新な和声がこれに呼応したに違いありま
せん。「斑猫」(はんみょう)や「黴」は、その事を感じさせます。因みに「斑猫」とは美しい色をした昆虫で、山道でまるで道を指し示すように突然現れたり
するので、「道おしえ」と呼ばれたりするそうです。深尾須磨子が女性のコケティッシュな魅惑を託した「斑猫」の詩は、それだけで素敵ですが、橋本の音楽は
ほとんど詩と一体となっています。和声も旋律もまことに魅惑的です。また「黴」は深尾須磨子が夫を亡くしたときの憂鬱を歌っているということですが、これ
はどこか萩原朔太郎さえ思わせるものがあります。そういった陰影をも橋本は捉えようとしています。
それに対して「舞」は「語り」の多いのが目立ちます。これは信時潔の弟子だった彼が、信時の追求した方向を自分で思い切ったところまで追求したものかも
しれません。もともとこの詩は深尾須磨子が六代目菊五郎の「京鹿子娘道成寺」を見て憑かれたように書いたものだといわれています。その話を橋本が正面から
受け止めたのかもしれません。橋本の周りでは、深尾須磨子や、歌手の荻野綾子(パリで「舞」を録音、発売)、それに四谷文子などがいわばサロンをなしてい
て、交流していたからです。ともかくウィーンへの留学前にこれほどの音形と和声を生み出した事自身、僕にはほとんど信じられないのです。
しかしこのように斬新な曲を信時潔の弟子だった彼が作ったというのは、興味あることです。日本人の音楽を追究してやまなかった信時とは、いわば正反対の
方向さえ示しているとも考えられるからです。事実橋本のきらびやかな才能は、信時の育った時代とは異なる時代に対応していたのでしょう。
橋本は明治三七年の東京生まれですが、幼年期に大阪に移り、北野中学当時、辻久子の父親だった吉之助にヴァイオリンを習います。そして大正12年に上京
して東京音楽学校に入りますが、その秋、関東大震災に遭います。そして大震災後の東京は大きな変貌を遂げるのです。まだ残っていた江戸時代の建物や文化が
完全に崩壊したところに、新しい都市文化が現れ、モボ・モガが闊歩する近代都市に変貌していくのです。そこにはいわば「戦後」に匹敵するような、頽廃がな
い交ぜになった新しい風が吹くのです。それを身をもって受け止めたのが橋本国彦という才能溢れる青年だったといえましょう。それがまた、第2ステージの
「お菓子と娘」や「落葉」といったシャンソン風の洒落た作品を生むのです。あるいは第2ステージの5音音階による日本風の作品群も、旋律は日本的でも、伴
奏では新しい工夫が凝らされています。
その青年は、さらにウィーンに留学をし、帰国の途ではアメリカに亡命していたシェーンベルクを訪れます。しかし帰国した彼は、軍国主義の波に飲み込まれ
てゆきます。帰国後の彼は戦意高揚の作品を数多く作り、ポピュラーな曲もたくさんつくりますが、戦後は、敗戦のショックとストレスからか、癌を患って昭和
24年に亡くなります。その人生後半の軌跡は、その才能ゆえに時代に翻弄された彼の姿を示しているのではないでしょうか。
(2017/08/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1〜第2ステージ 藤井清水作曲 河原柳、祭物日に、信田の藪、港の時雨、忍路(おしょろ)
第3ステージ 箕作秋吉作曲 「亡き子に」より、子守歌、悲歌(海の幻)
第4ステージ 大中寅二作曲 子守歌、ふるさと、わすれなぐさ
第5ステージ 下総皖一作曲 ほととぎす、鐘のなる、山のあなた
第6ステージ 坂本良隆作曲 別れし子を憶う、浅間の馬子
第7〜第8ステージ 清瀬保二作曲 「啄木歌集」より、東海の、砂山の、いのちなき、はたらけど、
やまいいえず、公園の熊の子、嫌な甚太、海の若者
第9ステージ 諸井三郎作曲 小曲、春と赤ン坊、少年
第10ステージ 岡本敏明作曲 風に乗る、秋くさの、ふるさとの
第11ステージ 高階哲夫作曲 時計台の鐘、 高木東六作曲 水色のワルツ
近衛秀麿作曲 ちんちん千鳥 中田 章作曲 早春譜
成田為三作曲 かなりや 斎藤佳三作曲 ふるさとの
大中寅二作曲 椰子の実 多 忠亮作曲 宵待草
宅 孝二作曲 林檎の花が降りそそぐ 成田為三作曲 浜辺の歌
草川 信作曲 夕焼け小焼け
{解説}
神戸波の会の「日本歌曲の波を追う」シリーズの6回目は、明治生まれの作曲家でも、これまで扱われなかった人々の作品を取り上げいます。それはいわば落ち
穂拾いのようにして集められた作品でもありますが、これまで扱った有名な人々とともに明治、大正、昭和という時代を苦労しながら、共に新しい音楽を目指し
た人々のものです。ここではその一つ一つを書くことは出来ませんから、大きな流れで見てゆきましょう。
日本が初めて西洋音楽を受け入れて独自の音楽を生みだそうとしたとき、その先駆を成した人々に、幼少からキリスト教の音楽に親しんでその世界に入ってい
た人々がいます。この人たちは、西洋音楽にいち早く親しんでいた点で有利な立場にあったと見ていいでしょう。その代表にこれまで取り上げた山田耕筰、信時
潔といった人がいるのですが、今日取り上げる作曲家でいえば、大中寅二(明治29年〜昭和57年)、高木東六(明治37年〜平成18年)、岡本敏明(明治
40年〜昭和52年)がそうです。とりわけ「椰子の実」で名高い大中寅二は、半世紀にわたって東京霊南坂教会でオルガニストを勤めながら、オルガン曲、賛
美歌を多く残して、いわば教会の世界で活躍しました。また「どじょっこふなっこ」で知られる岡本敏明も父が牧師であったこともあって、終生教会で音楽活動
をし、津川主一と共に合唱界のために力を尽くした人です。その点、変わり種は高木東六で終生、日本ハリストス正教会の信徒を続けながらも、当時としては珍
しくパリに留学し、戦後「水色のワルツ」を書いたように、シャンソンやポピュラー曲の分野でも新しい世界を切り開いていきます。
しかし一方で、西洋音楽の中でもドイツ流の音楽を日本の中でしっかりと根付かせようとした人たちがいます。例えば信時潔に師事した下総皖一(明治31年〜
昭和37年)です。今日の3曲は日本的なものを前面に出していますが、彼はドイツでヒンデミットに学び、帰国後は東京芸大で団伊玖磨、芥川也寸志、佐藤真
などを育てています。同い年の坂本良隆(明治31年〜昭和43年)もベルリンに学び、帰国後島根大学で作曲などの指導をしますが、下総などと共にヒンデ
ミットの音楽書を訳し、ベートーヴェンやシューベルトの楽譜の編纂をしています。同い年という点では「ちんちん千鳥」を書いた近衛秀麿(明治31年〜昭和
48年)がいます。彼が作曲を多くしたのはむしろ音楽の道に入る前といわれていますが、ともかく彼の功績は何と言ってもオーケストラ活動への貢献でしょ
う。山田耕筰と共に日本交響楽団を設立して以来、現代の指揮者でさえそうそう経験し得ないほどの海外での指揮活動を通じて、その豊かな経験を日本の聴衆の
みならずプレーヤーに伝えたのです。
彼らの数年あと諸井三郎(明治36年〜昭和52年)が現れます。彼もベルリンに留学するのですが、彼は本格的な器楽曲を目指した点で特筆すべきでしょう。
今日の演奏会はもちろん歌曲を、それも独得の抒情を孕んだ歌曲を取り上げていますが、彼はそれまでの日本の作曲家が歌曲を中心にしてきたのに対して、本来
のヨーロッパの音楽は器楽曲に見られる抽象性、構築性にあると考えて、交響曲、協奏曲、室内楽など多くの器楽曲を作りました。そしてその下で柴田南雄、入
野義郎、八代秋雄、団伊玖磨などが育っていきます。現代日本の器楽曲の礎を作った点でおおきな功績のあった人です。ドイツの音楽を日本の中にそのまま継承
したものとしては、他に「浜辺の歌」を書いた成田為三(明治26年〜昭和20年)、「早春賦」の中田章(明治19年〜昭和6年)などを挙げることができる
でしょう。
しかしそういった欧化のさなかにあって日本独自のものを追求していった人たちがいます。その嚆矢が中山晋平ともいえますが、もっと新しいドイツ的教養を身
につけながらもう一度日本的なものを追求した代表格が清瀬保二(明治33年〜昭和56年)でしょう。ドイツに留学しながらも、日本古来の五音音階を中心に
技巧に走らない作品を目指しました。その素晴らしい一端が今日も聞けると思いますが、一方では時代劇映画の音楽を20以上も作るかたわら、武満徹、長沢勝
俊などを育てた人でもありました。あるいは日本民謡を発掘、採譜、編纂した人に藤井清水(明治22年〜昭和19年)がいます。第2ステージではその成果が
窺えるでしょう。あるいは映画音楽という点では、フランスに留学し、帰国後は芸大のピアノ教授を務めながらジャズに没頭し、なおかつ50本近い映画音楽を
書いた宅孝二(明治37年〜昭和58年)という変わり種もいます。その他山田耕筰とベルリン時代を共にした舞台芸術家の斉藤佳三(明治10年〜昭和30
年)、戦時中「ヒットラー・ユーゲント」を作曲した高階哲夫(明治29年〜昭和20年)、「宵待草」の多忠亮(明治28年〜昭和4年)、「夕焼け小やけ」
の草川信(明治26年〜昭和23年)、情緒纏綿たる「亡き子」を書いた箕作秋吉(明治28年〜昭和46年)など、今夜の歌曲の夕べは、明治人のこれまでの
努力と成果が万華鏡のように映し出される事でしょう。
(2017/07/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1ステージ 「小倉百人一首より」 月見れば、久方の、花の色は、淡路島、長からん、
逢うことの、人はいさ、ほととぎす
第2ステージ 「鶯の卵より」 絶句、示諸生、鹿柴、張節婦詞
第3ステージ 短歌連曲
第4ステージ 「小曲五章」 いづくにか、うら淋し、薔薇の花、我手の花、子供の踊
第5ステージ 不尽山を望みて、独楽吟
第6ステージ 神戸市歌
第7ステージ 茉莉花
第8ステージ 「紀ノ国の歌」より 和歌の浦に、こせやまの、三熊野の
第9ステージ 「沙羅」 丹沢、あづまやの、北秋の、沙羅、鴉、行々子、占ふと、ゆめ
フィナーレ あかがり、春の弥生
{解説}
「神戸波の会」の日本歌曲の波を追うシリーズは、山田耕筰に続いて今回は信時潔を取り上げる事になりました。信時潔(1887〜1965)は、山田耕筰
(1886〜1965)より一歳年下ですが、亡くなったのは同年(昭和40年)で、同じ時代を生きてきた人といっていいでしょう。しかし二人は全く対照的
な音楽人生を歩みました。山田が飽くまで在野の音楽家として、東京芸大の招聘を拒み続け、そのきらびやかな才能でもてはやされたのに対して、信時は東京芸
大の教授として寡黙に作曲を続けました。そして現在では、山田の歌曲が今も多くの演奏会で歌われ続けているのに対して、信時の歌曲は、まれにしか取り上げ
られません。
しかし信時の音楽は、本当は山田と並ぶものではなかったのか。そういう思いのもとに神戸波の会は、今回、すべて信時の作品で演奏会を構成しました。
ところで信時の音楽は一般には、日本的な情感を素朴、実直に歌っているという印象をもたれています。しかしながら彼の生い立ちを調べてみると、彼の父は
牧師で、小さいときから賛美歌に親しんでいた事が分かります。山田が築地の居留地の牧師の家に間借りしていたのと同じように、明治20年生まれとしては稀
に見るほど西洋音楽に親しんで育ったのです。また山田よりかなり遅くなりますが、ベルリンで二年余り音楽の勉強もします。だから彼のクラシック音楽の受容
そのものは、山田とあまり変わりません。実際かれの名曲中の名曲と呼んでいい『海ゆかば』は完全な七音音階で作られています。
あるいはピアノ小品集『木の葉集』などは彼が当時の西洋音楽を驚くほど自分のものとして吸収していたことを示しています。一六曲に及ぶこの小品集には、
当時の童謡と変わらぬ旋律が出てきたりしますが、新しい和声展開もあり、それぞれによく工夫されている。いま聞いてもなかなか洒落たものが随所に感じられ
て、例えばシューマンがよく作った小品集を思い起こさせるほどです。信時がこの方向でどんどん作品を書いていてくれていたら、日本のその後の音楽の展開も
変わっていったのではないかと思うほどです。実際これを聞いていると、ここまでの感性を持っているなら、どうして音楽家としてここから新しい音の展開に夢
中にならなかったのかと、不思議な思いにとらわれます。
しかし彼はそう言う方向に進まなかった。とすれば、それをよしとしないものが彼の中にあったとしか思えません。というより彼の生涯を見てゆくと、彼が音
楽家である前に一人のいわば思想家として、見識をもって音楽に向かっていた事が分かってきます。彼は日本の近代化に直面した鴎外や漱石のように、明治人と
して彼なりに西欧と対決して日本人のアイデンティティを保持しようとした。すでにシェーンベルグやヒンデミットが活躍し始めたクラシック音楽の世界で、日
本人として納得できる旋律に何処までも拘ったのです。別の言い方をすれば、芸術家として当たり前の行為である感性に没入する前に、彼は一人の人間として時
代を洞察し、思想家として自らの感性の方向を制約したともいえます。それは弟子に対しても同じで、若き大中恩がドビュッシー風のものや彼らしい甘い歌を
持ってゆくと、信時は「末梢的で風雪に耐えないものと断じて、仮借なく切り捨てた」と言われています(坂田寛夫『海道東征』)。
そしてそういう姿勢が最もよく現れているのが彼の歌曲です。彼は日本語が語りかける言葉そのものとその内容を、そのイントネーションと共に最大限生かそ
うとしました。そして日本人なら誰もが近づけ、納得できる音形を生み出そうとしました。今日演奏される『沙羅』や『小倉百人一首』それに『鶯の卵』など、
どれも日本語が最大限活かされ、しかもちゃんと聞き取れるよう作られています。そして曲想も分かりやすいし、その構成もよく考え抜かれています。その意味
で、彼の歌曲はその後の日本歌曲の一つの柱を打ち立てたといっていいのです。今日の曲も一つ一つじっくり聞けば、その事が分かります。
しかしその事は逆に言うと、音楽そのものが先にあって、音そのものの展開の喜びが人の感性を捉えるという風ではなくて、音楽が日本語に従属して付いてゆ
くという感が否めません。彼の歌曲が今でも日本人の心に直接響くものを持ちながら、音楽としてはいずれも何がしか似たような印象を与えてしまうのは、日本
語に付いてゆく限り、日本語のもつイントネーションやリズム感に音楽が逆に制約されているからではないでしょうか。音楽そのものとしては、欧米の作曲家の
ように日本語のリズムを突き破るものが生まれにくい。それが信時の良さであるとともに限界をなしているとも言えるのですが、それは信時の思想家としての見
識から生まれたものと見るべきでしょう。
(2017/05/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1ステージ 歌曲集「風に寄せてうたへる春のうた」 青き臥床をわれ飾る、
君がために織る綾錦、光にふるひ日に舞へる、たたへよ、しらべよ歌ひつれよ
第2ステージ 「AIANの歌」 NOSKAI, かきつばた、AIANの歌、曼珠沙華(ひがんばな)
きまぐれ
第3ステージ 「名曲集」 馬売り、蟹味噌(がねみそ)、城ヶ島の雨、泣きぼくろ、ロシア人形の歌
(ヴェドロ、ヂェーウォチカ、ニャーニュシカ、カロゥヴァ、ロートカ)
第4ステージ
「日本古謡編曲集」 沖の鴎に、来るか来るか、中国地方の子守歌、さくらさくら
第5ステージ 「愛の歌」 愛と祈り、みぞれに寄せる愛の歌
第6ステージ 「童謡集」 お友だちといっしょ、かえろかえろと、海坊主小坊主、電話
砂山、葱坊主、お山の大将
第7ステージ 「名曲集」 かやの木山の、ペイチカ、母のこえ、野薔薇、からたちの花
松島音頭、この道
フィナーレ 赤とんぼ
{解説}
「神戸波の会」の山田耕筰の二回にわたる演奏会のうち、前回は山田の歌曲の大まかな位置付けのようなものについて書きましたが、今回は、その美しさの核
心がどこにあるかを考えてみましょう。
日本の歌曲の中で、山田の作品は群を抜いています。その点については誰も異論はないでしょう。彼のほかにも信時潔、中田喜直、団伊玖磨などさまざまな歌
曲作曲家がいますが、やはり質量ともに山田には及びません。何よりも日本人の心をこれほど見事に表現した作曲家は他にいないでしょう。「からたちの花」、
「この道」、「曼珠沙華」、この三つを思い出すだけでも、これに匹敵する日本歌曲を他の人の作品に見いだす事はできません。では他の人の作品と一体どこが
違うのでしょうか。
その点でまず考えられるのは、彼の詩に対する並はずれた感性でしょう。北原白秋という、これ又まれに見る詩人を得たとしても、誰も彼の詩で
あのように見
事な曲を生み出せなかったとすれば、やはり彼の詩にたいする理解力を第一にあげるべきでしょう。実際彼自身も素晴らしい文才に恵まれていました。それは彼
の自伝『若き日の狂詩曲』を読めば分かります。これは彼が小説家としても充分やってゆける言葉への感受性と洞察力を持っていたことを示して余りあります
しかしそれだけではない。もちろん作曲家としてのずば抜けた才能がいる。ただ作曲家にもさまざまなタイプがあります。シューベルトのように何よりも旋律
を生み出すのに優れた人もいれば、ベートーヴェンやハイドンのように、音楽を器楽的に構成することに優れた人が居ます。山田はどっちだったのでしょう。そ
ういう風に考えていくと、僕には山田は日本人の歌曲作曲家の中では、珍しく構築性を持った人のように思えます。この点を理解するには本来クラシック音楽の
特質がどこにあるかを理解する必要があります。ちょっと回り道になりますが、山田の本質を理解するために、「クラシック」の特質がどこにあるか、考えてみ
ましょう。
世界にはさまざまな音楽があります。アフリカの民族音楽、インドのガムラン音楽、日本の邦楽、アメリカのジャズ、スピリチュアルなど、あるいはロシアの
民謡もあります。それらはそれぞれに心に訴えかけるものであります。しかしヨーロッパのクラシック音楽と呼ばれているものは、それらと全く違った力をもっ
てわれわれを捉えます。他のものがいわば土着的な情感で僕らに訴えかけてくるのに対して、クラシックは何か全く別の力をもって訴えてくる。それは一体何で
しょうか。
ちょっと奇異に思われるかも知れませんが、それはクラシック音楽が、基本的に知的な普遍性を備えているからだと僕は思っています。いきなり
抽象的な結論
を述べてしまいましたが、それはこういう事です。
例えばクラシックと対極にある演歌を例にあげますと、これは確かに僕らの心をなごませてくれる。それは疲れた僕らの心を癒してくれるといってもいい。し
かしその効果は例えば酒を飲むようなものです。現実の辛さを一時忘れさせてくれる。現実をしっかり見つめてそれに対処するすものを与えてくれるというより
は、一時の慰めを与えてくれるにすぎません。
これに対してモーツアルトやベートーヴェンの音楽はどうでしょう。それは、例えば「人はこれほど深く悲しむ事が出来るのか」と思わせ、あるいは「人生に
このように素敵に自由な喜びを感じることが出来るのか」と思わせたりします。それは人生を深く感じさせ、考えさせるものをはらんでいる。そこに演歌との決
定的な違いがあるように思うのです。そしてそういう力がどこから生まれてくるのかを尋ねてゆくと、クラシック音楽が、実は極めて知的な吟味を経て構成され
たものであるという事実に突き当たります。作曲家は、音形の中で、自分の感情そのものがどういうものであるかを確かめ、それがまた的確な形をとっている
か、それを表す和声はそれでいいのか、リズムはどうか、全体の構成はどうか、そういったものを吟味するわけです。それは極めて知的な行為であり、それは音
を通じて自分が何を表現しようとするのかを知的に吟味する事なのです。それは詩人が詩をつくるときに、言葉を吟味するのと同じことです。そういう吟味の結
果、例えばベートーヴェンの「運命」が生まれたのであり、だからそれは僕らの精神に問いかけ、訴えかけ、あるいは励ますのです。それは精神を酔わせるより
は、目覚めさせます。そこがクラシックの力であり、特質なのです。
ところで山田の歌曲は、その意味で、構成がよく吟味されています。その事はとくにピアノパートと歌が混然一体となって構築されている点に窺
えます。メロ
ディの美しい作品は他の作曲家にもあります。しかし山田の歌曲は、ピアノがじつに美しいとともに、歌が美しく、そのいずれが欠けても音楽が損なわれる一体
性がある。そういう吟味された構築性そこ山田の歌曲が他のものから図抜けている点だと僕は思います。いいかえると山田の歌曲はまさにクラシックと呼ぶに相
応しいものになっている。そこが他の作曲家と違うところでしょう。
(2017/04/03)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1ステージ 初期の歌曲より 嘆き、燕、唄、野薔薇、病める薔薇、樹立
第2ステージ 歌曲集「幽韻」 はなのいろは、わすらるる、あらざらむ、
たまのをよ、わがそでは
第3ステージ 歌曲集「雨情民謡集」 捨てた葱、紅殻とんぼ、二十三夜、
波浮の港、粉屋念仏
第4ステージ
童謡集
酸模(スカンポ)の咲くころ、青蛙、ちんころ子犬、
小人の地獄、烏の番雀の番、青い小鳥、あわて床屋
第5ステージ 「芥子粒夫人」(ポトマニ) 綺麗な綺麗なちび鼠、
王様馬で通られる、今は御殿で女王様、
とても不思議な緑の芽
第6ステージ
名曲集
六騎(ろっきゅ)、鐘が鳴ります、からたちの花、
待ちぼうけ、この道
フィナーレ
赤とんぼ
{解説}
日本歌曲の波を追うシリーズも三回目となり、これから二回にわたって山田耕筰の歌曲を取り上げることになりました。彼の作品の多くはよく知られています
ので、まず今回は山田耕筰にとっての歌曲の重要性について書いてみたいと思います。
よく知られているように山田耕筰は歌曲以外にもオペラや管弦楽曲、ピアノ曲など多彩な作品を生んでいます。しかも山田自身は歌曲を作るのは、オペラを作
るための準備のためだったという風に言ったこともありました。しかしながら僕には歌曲こそ彼の音楽的本質をもっともよく表現したジャンルではなかったかと
思えるのです。
たとえば山田耕筰がベルリンに留学したときに山田自身が強い影響を受けた人にR.シュトラウスという作曲家がいます。シュトラウスもオペラをはじめ多く
の管弦楽曲や歌曲を作りました。とりわけ彼の管弦楽法は人々の教科書になるほど優れたものでした。にもかかわらず
R.シュトラウスは晩年になって、自分の
作品でいいのは歌曲だといいました。実際、彼の歌曲は新しい抒情世界を切り開いており、僕にはシュトラウスの気持ちがとてもよく分かる気がするのです。
山田の場合、彼自身がオペラのために歌曲を作ったといっているのですから、R.シュトラウスと同じに考えることは出来ないと思われそうですが、僕は山田
自身がどう考えようと、彼の歌曲はやはり山田自身を最もよく表現し、山田の本質を現したジ
ャンルのように思うのです。少なくとも結果としては、山田が留学
時に魅了された R.シュトラウスと同じ結果を生んだように思えるのです。
とりわけかれの留学当時の彼の回想はちょっと示唆的です(「自伝 若き日の狂詩曲」)。彼が留学した当初は熱烈なワグネリアンになったと彼は書いていま
す。ところが R.シュトラウスの曲を知るにいたって(当時「バラの騎士」や、「ナクソスのアリアドネ」が次々に発表された)彼はすっかり
R.シュトラウス
に魅了されてしまうのです。シュトラウスに魅入られた彼はワーグナーのことを「すべてが冗長で、過重で、中華料理とフランス料理を同時に提供され」ている
みたいだといい、「お経的過重さと冗漫さを併 有している感が深い」などと言っています。
これらの事は、彼がヨーロッパに着くなり驚くべき現代的感性を発揮したことを示していますが、そこにはすでに日本人としての感性が働いていたようにも思
えるのです。古来日本人には長編小説は書けない、少なくとも良質なものは圧倒的に短編が多いと言われてきました。もっと端的にいえば、俳句や短歌は短い言
葉のなかに、無限の宇宙を包み込むほどの世界を表現してきた。しかも思想的メッセージよりは、その時その時の抒情の表現に優れていたと。そういう感性が山
田の中にも働いていたように思うのです。だからこそ山田自身の言葉にもかかわらず、彼は歌曲の中でもっとも自己を表現することが出来たのではないでしょう
か。ワーグナーから
R.シュトラウスへの鞍替えにもそのことが現れているように思えるのです。ワーグナーの思想的重厚さにくらべて、R.シュトラウスは、
はるかに洗練された抒情性を持っているからです。そのことは他ならぬ彼の歌曲に最もよく表れています。
しかし山田耕筰の歌曲が優れているのは、彼が歌手としても一流のものを持っていたという事実にもよると思われます。留学当時、パーティーでヴォルフの
「アナクレオンの墓」の弾き語りをして、皆を驚かせるほどの実力をもっていました。彼はもともと東京音楽学校では、作曲科がなかったため声楽科に入っての
ですが、ベルリンでも声楽の先生につきます。その時、先生から王立音楽院の歌手に推薦してやろうといわれ、ゆくゆくはメトロポリタンの歌手にもなれるだろ
う、だから歌手になれと勧められました。これには山田も心を動かされたようですが、ひとつだけ条件がありました。山田の顎が歌手としては狭すぎるのが致命
傷だから、顎を広げる手術を受けなさいというのです。彼の生前の写真をみると、平均的日本人より顎が狭いとは思えませんから、ひょっとしたら日本人の声楽
家は大きなハンディを背負っているのかもしれません。
ともあれ彼は、明治時代の人らしく自分の国家的使命まで考えて作曲家の道を選びました。そして歌曲の中でこそ、歌手としての蓄積や能力、さらには日本人
としての感性をすべて結晶させて数々の名曲を生むことになったと思うのです。
(2017/02/27)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1〜第3ステージ 弘田龍太郎作曲 かもめ、小諸なる古城のほとり、
千曲川旅情の歌、浜千鳥、あさね、叱られて、昼
第4〜第5ステージ 杉山長谷夫作曲 忘れな草、愛のかげ、出船、
片しぶき、苗や苗、花嫁人形
第6ステージ 童謡集T 弘田龍太郎作曲 お山お猿、金魚の昼寝、
あした、春よ来い、靴が鳴る
中山晋平作曲 黄金虫、アメフリ、背くらべ
杉山長谷夫作曲 ねんねのお里
第7ステージ 童謡集U 中山晋平作曲
証成寺の狸囃子、シャボン玉、
雨降りお月さん、あの町この町、
兎のダンス、里ごころ、肩たたき、
弘田龍太郎作曲 雀の学校、雨
第8〜フィナーレ
中山晋平作曲 カチューシャの唄、紅屋の娘、砂山、
さすらいの唄、船頭小唄、青い茫、ゴンドラの唄、
波浮の港、出船の港、旅人の唄、鉾をおさめて、
鞠と殿様
{解説}
今回は大正期を中心に活躍し、しかも今年(2002年)、没後50年を迎えた中山晋平、杉山長谷夫、弘田龍太郎の三人の作品が取り上げられています。
彼らが活躍した大正期は、瀬戸内寂聴さんの言葉を借りると、明治と昭和という硬いパンに挟まれた「サンドイッチの中身」のような美味しい時期であり、文
芸評論家吉田精一氏によれば「近代日本の花盛り」の時期でした。今日演奏される曲はその殆どがこの時期に作られています。ただそれぞれの曲はよく御存知の
曲ですので、ここでも一つ一つ曲目解説するよりは、これらの歌曲や童謡が生まれた時代背景をお話しましょう。
たとえば「サンドイッチの中身」というのはどういう事かというと、何と言っても明治時代は外国から占領されないために国を挙げて頑張った富国強兵の時
代、つまり国家が全面に押し出された時代であり、昭和は言うまでもなく軍国主義に突入していった時代です。ですから大正は二つの国家主義の狭間にあって、
かろうじて人々が自分の生活にかまける事の出来た時代、つまり自分の生活を豊かにする事に熱中することが許された時代ということでしょう。その熱中の成果
が美味しい中身として結実したという事です。しかしこの中身もそう簡単に得られるものでもなかったようです。今日ステージにのせられた曲を聞いていると大
正期に才能ある人達がギターでもポロンポロンとやっていたら自然に生まれて来たもののように思えますが、当時の人達にとっては、たとえ簡単な童謡といえど
も、大げさに言えば作曲家としての生命を賭ける程の情熱をもって書いたように思えます。その事を典型的に示しているのが、あの有名な「赤い鳥」(大正7
年)の運動です。
御存知のように、この運動は鈴木三重吉を唱道者として、新しい芸術的な童話や童謡を作ろうという文学運動としてスタートしました。そして今日の三人の作
曲家もこの運動の中で多くの曲を作りました。この運動がいかに激しい情熱の下に行われたかは、北原白秋の言葉がこれを証明しています。彼はこれまでの文部
省唱歌を口を極めて痛罵するのです。唱歌の難解な詩語を一つ一つ取り上げて「あれは一体なんだ」と怒り、「思い出せば出すほど憤懣を感ずる。実際明治以来
の学校唱歌なるものはその選定において、その根本から間違いだらけであった」(「芸術自由教育」大正10年2月号)と言います。
それほどまでに白秋を怒らせた学校唱歌とは一体なんだったのでしょうか。そう思って振り返ってみますと、実は「唱歌」こそが、近代日本の歌、つまり歌
曲、童謡、歌謡曲、演歌など、すべての歌の出発点だった事が分かります。明治14年から17年のあいだに3冊にわたって発行された「小学唱歌」こそ、日本
人に七音音階の音楽を教えたものでした。明治20年ごろからそれは日本人の音楽的感性を大きく変化させるものとなりました。しかしそれは同時に明治国家を
支える国民を生み出すための教育、つまり国家に忠実な「国民」を訓育、徳育するためのものでありました。難解な歌詞がそのような観点から選ばれました。そ
ういう時代の流れの中で、自分たちの言葉による自分たちの歌を求めたのが「赤い鳥」の運動だったのです。だから「赤い鳥」の運動は単なる芸術運動を越え
て、新しい日本人であることの新たなアイデンティティを獲得する文学運動と連結していたのです。だからまた日本の歌曲の創作はいつも童謡の革新と手を携え
ながら生まれてきたのであり、今日のステージで童謡が多いのもそういう事情があったからです。
最後に簡単ながら三人の作曲家について触れておきます。
まず中山晋平(1887〜1953)は民謡調のものが得意ですが、何と言ってもデビュー作である「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」に見られるよう
に、現在の流行歌や演歌の世界を切り開いた点が注目されます。杉山長谷夫(1889〜1952)の作品で今も歌われているのは「出船」と「花嫁人形」ぐら
いですが、後者の旋律がヴァイオリン協奏曲のテーマだったように、本格的作曲活動もしていました。しかし歴史的には彼は室内楽を広めた所に大きな役割があ
りました。
また弘田龍太郎(1892〜1952)は「叱られて」など、当時としては、童謡でも格調のある(歌曲に近い)ものを生み出した新しい感性の持ち主だった
ように思われますが、ドイツに留学(昭和3年)して本格的に西洋音楽を学んだあとは、これといった作品が生まれていません。七音音階の世界が導入されて間
もないときだからこそ起こり得た悲劇なのかもしれません。西洋音楽の神髄を学ぼうとした彼は、日本人としてのエイデンティティに混乱を生じたのではないか
と僕は想像しています。
(2017/02/05)
ページトップに戻る
トップページに戻る
{プログラム}
第1〜第3ステージ 滝廉太郎作曲 組曲「四季」(花、納涼、月、雪)、荒城の月、箱根八里、荒磯、
四季の滝、秋の月
第4ステージ 小松耕輔作曲 砂丘の上、芭蕉、母、沙羅の木、泊り船
第5ステージ 庭の千草(アイルランド民謡、里見義作詞)、
故郷の空(スコットランド民謡 大和田健樹作詞)、
アンニー・ローリー(Scott作曲、作詞者不詳)、埴生の宿(Bishop作曲、里見義作詞)
第6ステージ 本居長世作曲 赤い靴、お月さん、小山の大将、七つの子、青い目の人形、十五夜お月さん、
白月(しろつき)
第7ステージ 梁田貞作曲 昼の夢、城ケ島の雨
フィナーレ 旅愁(Ordway作曲、犬童球渓作詞)
{解説}
神戸波の会の主催する「日本歌曲の波を追う」シリーズの今回は、「黎明期の歌曲」と銘打って、滝廉太郎をはじめとする四人の作曲家の歌曲と、当時導入さ
れた西欧の歌曲が取り上げられます。いずれも平明でよく親しまれたものですので、今回は一曲毎の説明は省いて、曲の背景となった時代の動きを中心にお話し
たいと思います。
「黎明期の歌曲」といった場合、それはいうまでもなく七音音階を中心とした作品を指していますが、いったい明治初期に七音音階はどのようにして導入され
たのでしょうか。
振り返って見ますと、江戸時代に一般の人々が歌っていた歌(唄)は、古来のわらべうたや民謡の類を別にすれば、歌舞伎で歌われた地唄、長唄、そして色街
を中心に歌われていた小唄、端唄、都々逸といったものであると共に、それらは五音音階で作られていました。人々の音楽あるいは唄への欲求はそれで充分満た
されていたに違いありません。
ところが明治政府が成立し、急速な近代化つまり欧化をあらゆる面で推し進めようとした政府は、何よりも「国民」を創出するための教育に全力を注ぎまし
た。明治五年に発布した学制令によって、一年後には全国に一万を超す小学校が出来ました。驚くべき普及率です。もちろんこれらの小学校は、寺子屋という民
間のシステムを背景にこれだけの普及を遂げたという事が出来るのですが、一方でこの近代的国家教育は、ローカル色豊かな、読み書きソロバン中心のシステム
を徹底的に破壊して、国家を軸にした普遍的国民教育を目指したのです。
ところが欧化を目標とする教育システムには、その理念、方法の開発が急務であると同時に、何よりも膨大な人材を必要としました。そこでいわゆる師範学校
が急速に作られていくのですが、問題は音楽教育です。これまで人々が充分満足していた童歌や小唄、端唄の世界に、一体何を教えたらいいのか。時の政府はハ
タと困ってしまったのです。音楽教育の大切さは認識していました。これは必要なのです。だから学制令の中に教科目として唱歌はあったのですが、「唱歌当分
之(これ)ヲ欠ク」と言わざるを得なかった。
そこで登場したのが伊沢修二という男です。彼はもともと高遠藩の下級武士だった人ですが、若くして師範学校の校長になり、アメリカの師範学校に留学しま
す。その彼が最も苦労したのが音楽でした。小唄、端唄の世界で育った彼には、七音音階の修得そのものが大変でした。そこでボストンのメースンという人に個
人レッスンを受けることにしたのですが、そのとき彼は七音音階と五音音階の違いの大きさを痛感すると共に、五音音階の世界を何としても七音音階の世界に近
づけない限り、世界の音楽に到達できないと思ったのです。帰国後の彼の課題は、その問題に費やされます。周知のように彼は帰国後、音楽取調掛(のちの東京
芸大)の掛長になって、唱歌の作成に取りかかります。明治12年のことです。
作曲家でもない彼がする事は、作詞家と作曲家を集めて五音音階と七音音階を橋渡しするような唱歌集を作ることでした。しかしそのような作品
を作れる人は
そうそういる訳がない。そこでアメリカでの師であったメースンを呼び寄せます。そして西欧でもきわめて五音音階に近い作品で、なおかつ日本人にも分かりや
すい曲を選んでもらい、それに日本語の詞を付けたのが、今日演奏される第五ステージの曲です。実際にその時の唱歌集は殆ど外国の曲で占められ、その中に
「蛍の光」、「仰げば尊し」、「むすんでひらいて」等の曲も入っていたのです。
明治の西洋音楽は、地域的に見ればキリスト教会の賛美歌と、横浜、神戸などいわゆる「居留地」の軍楽隊があったのですが、明治14年から17年にかけて
三冊出されたこれら初期の「唱歌」こそ、全国的なレベルで日本人が初めて接した七音音階の世界でした。これをベースにして日本の歌曲が生み出されてゆくの
ですが、その中で初めて歌曲らしい歌曲を作曲したのが、いうまでもなく滝廉太郎(明治12〜36年)です。
今日演奏される彼の歌曲は、彼の歌曲作品すべてを網羅しているといってよいのですが、それらを今日の水準から見れば(例えば山田耕筰のものから見れ
ば)、かろうじて「荒城の月」が残るぐらいかもしれません。しかしドレミファという呼び方がやっと確立するのが明治33年(最初はヒフミヨイムナ、つぎは
トケミハソダチ)だった事を思えば、今日演奏される曲は、それぞれに歌曲成立の若々しい試みを伝えているとも感じられます。そういった試みがその他の小松
耕輔(明治17年〜昭和41年)、本居長世(明治18年〜昭和20年)、梁田貞(明治18年〜昭和34年)などにもうかがえますが、それらを日本歌曲とし
て評価するなら、やはり不満を覚えざるを得ない。しかしそれが時代というものでしょう。彼らは、殆どの人たちが宴会といえば芸者を呼ぶことしか頭になかっ
た時代のパイオニアだったのです。
(2017/01/03)
ページトップに戻る
トップページに戻る
昨年まで「僕の愛聴盤」という名前で、まさに僕が愛聴して来たクラシック音楽のCDやDVDについて書いて
来ましたが、年が改まったところで、今年は日
本歌曲の歴史についてのエッセイを連載することにします。
その元になっているのは、日本歌曲の研究と普及に努めてきた「神戸波の会」という団体が平成14年に始めた「日本歌曲の波を追う」という演奏会シリーズ
のプログラム解説です。僕はこの団体のアドヴァイザーを務めていて、そのプログラム解説を担当して来ました。演奏会は、明治初期のいわば「黎明期の日本歌
曲」から始まって、大体は年代を追って年一回のペースで行われて来ました。今13回目まで来ていますので、ぼくの論考も13回ほど書いています。
これから月一回のペースで、元の論考に若干修正も施しながら連載したいと思います。六甲男声でも、日本人作曲家の作品をいろいろ取り上げて来ましたの
で、それらの作曲家について、あるいはその歌曲について知って頂くのもいいかと思ってのことです。
ただ原文のプログラム解説には、そのときのプログラムそのものは出ていないものも多いので、ここでは最初に当日のプログラムを加えて、それを念頭にお読
み頂きたいと思います。
(2017/01/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
以前ソプラノのアップショーが歌うドビュッシーの歌曲集を取り上げたことがあるが、今回はジェラール・ス
ゼーのドビュッシーの歌曲のCDを中心に取り上
げることにした。
先日ドビュッシーの歌曲のCDを整理してみたら6枚ものCDがあることに気づいたのである。知らないうちにこんなに沢山あったのかと我ながら驚いた。そ
れで、アップショー以外にもいいものがあって、特に最近はスゼーのものをよく聞いている。それでちょっと色んな歌手を比較してみたくなったのである。
ぼくが最初に気に入ったのは何といってもアップショーだった。彼女の発声には今もちょっと気に入らないところがあるが、彼女独特の節回しと美声は、何と
いってもドビュッシーの歌曲の魅力をよく捉えている。
しかしそのあとアルトの声域のナタリー・シュトゥッツマンを期待してCDを買ったが、これはちょっと期待に反した。彼女の声はまことに芳醇
といっていい
ものだが、ことドビュッシーの歌曲に関してはヴェルレーヌやボードレールの詩に付けた歌も僕には魅力に乏しい。実に情感豊かに歌っているにも拘わらず、ピ
アノとの掛け合いがちっとも生きていない。どれもが重々しいパルランド(語り)に聞こえて来て、煌めくピアノと歌との一体感がない。つづめて云えば、ピア
ノと歌との対話がもう一つで、ドビュッシーがピアノパートで表現した煌びやかな、あるいは意表を衝く和声が活きていない。
その次に友人から貰ったのが、今フランスで大活躍中のバリトンのフランソワ・ルルーのドビュッシー歌曲集である。これは初めて聞く男声のドビュッシー
で、新たなショックを期待したが、これも見事に裏切られた。いや、声も歌唱も素晴らしいのに、これまたピアノとの関係がよくない。どういう訳かここでも語
りばかりが目立って、ピアノが活きていない。
それで僕は、ひょっとしたらドビュッシーは殆どの曲で、ソプラノの歌い手を想定して書いたのではないかと思い始めたのである。ソプラノの声域にするとド
ビュッシーのピアノが見事に絡んで、ピアノが精彩を放ち、歌とピアノが一体になってドビュッシーの歌曲の素晴らしさを聞かせてくれる。現にその後、手に入
れ
たソプラノ歌手のナターリエ・ドゥセやサンドリン・ピオーは、いかにもドビュッシーの歌曲の美しさを見せている。ドゥセはちょっと声域に難があって、苦し
げな声をすることがあるが、ピオーの声は素晴らしい。アップショーより発声がいい。ただピオーは歌がいいのに比べてピアノがまるで安物のピアノを使ったの
ではないかと思うほど中音以下の音が曖昧で、ボンボンと妙に響いてくる。ひょっとして、と思って解説を読んだら、かつての名器と呼ばれたエラールを使って
いるということだ。後生大事にその古い名器について書いてあったし、ドビュッシーの時代はこれも使われていたように書いてあった。しかしぼくの中で鳴って
いるピアノはやっぱりふくよかなスタインウエイがドビュッシーの歌曲に合う。
ただ以上のような経験から、ドビュッシーが歌曲を作り、捧げた相手はソプラノ歌手に相違ないと僕は確信した。それはR・シュトラウスの初期の名曲がやは
りソプラノ歌手に捧げられたものであったのと軌を一にしているに違いないと思ったのである。そしてドビュッシーの伝記を調べたら、まさにその通りだった。
初期の歌曲のみならず、その後の作品も女性歌手を想定したものが非常に多い。
ところがそうではあっても、ソプラノ以外の声域、例えばバリトンでも歌手が素晴らしければピアノとの掛け合いがドビュッシーを裏切ることがない事を知った
のはジェラール・スゼーのものを聞いたときである。最後に出会ったスゼーは、ドビュッシーの歌曲はソプラノに限ると信じた僕の偏見を見事に打ち破ってくれ
た。バリトンの声域でも、ピアノと絡み合った最高のドビュッシーの歌曲がここにあるのだ。そして更に最後に到達した結論は、音楽性も発声もコトバも、ピア
ノも最高なのがスゼーの歌曲集だということである。
スゼーこそ最高のドビュッシーの歌曲を聴かせてくれる。ただ惜しむらくは僕の愛してやまないヴェルレーヌとボードレールのものが僅かしか入っていないこと
である。しかし彼が亡くなった(2004年)今では、新たなCDも望めなくなったのが悲しい。
(2016/11/20)
ページトップに戻る
トップページに戻る
以前ハイドンのカルテットを取り上げたことがあるが、一般的にいってハイドンの作品は演奏会でも滅多なことでは取り上げられない。だからハイドンほど有名
でありながらその曲が実際に知られていない人はないだろうと思う。その点はアマチュアに限らずプロもそうだ。僕の知人音楽家でもハイドンを知る人はまずい
ない。にもかかわらず、僕にとってはハイドンほど素晴らしい人は他に居ないと思うほどの人だ。
どこがそれほど素晴らしいかというと、何といってもその精神の自在さにある。その自在さから生まれる音楽は、何の衒いもなくそのセンチメントを歌い上げ、
それを笑い飛ばし、そして精神の自由な飛翔に遊ぶ。これほどの精神の自由な音楽家は他にいない。あえて探せばヴィヴァルディぐらいのものだろうか。情熱に
駆られた作曲家はいやという程いる。偉大な作曲家はすべてそうだ。しかしその重苦しい情熱から解放された人はハイドンただ一人だといっていい。
カルテットはその例だが、今日取り上げるピアノトリオも、その成果を示すものだ。しかもこの演奏は抜群にいい。古楽器のピアノフォルテがパトリック・コー
エン、ヴァイオリンがエーリッヒ・ヘーバルト、チェロがクリストフ・コインであるが、すべて古楽器を使っている。古楽器の演奏というのは、下手をすると音
色やフレージング次第では、文字通り古色蒼然となって、精彩を欠く音楽になりかねない。しかし彼らの音楽は音色といいフレーズといい、ハイドンはこれでな
くてはならないと思わせるほど美しい。典雅でいながらロマンに溢れ、時には遊び心に満ちた姿が浮かんでくる。
ぼくの持っているCDではピアノトリオの第38番から40番まで入っているがどれもいい。とりわけ「ジプシー風」と呼ばれる第39番ト長調は、その第3楽
章フィナーレのジプシー風の音楽によってそう呼ばれているが、どの楽章もハイドンそのものだ。
第1楽章アンダンテの冒頭、16分音符の流れるようなアウフタクトに誘い込まれた旋律は、その何気ない姿が美しく柔らかで、ここでハイドンの変奏曲が始ま
ると思わせる。実際にそれは変奏曲らしいが、よく聴くと同じ旋律が何回も出てくるロンド形式でもあって、しかし同じこのたおやかな主題が全く同じというわ
けでもない。要するに変奏曲とロンドが混在した形式だが、ハイドンはそんな事はどうでも良かった。心の赴くままに、もう一度歌いたければ歌うのである。
ハイドンはソナタ形式というフォルムを生み出した人だけあって、今から見ると実に様々な形式を混在させている事が多い。ここでもその点で自在な創作活動を
行っているわけだ。そして第2楽章ポコ・アダージョの優美な姿、これはハイドンの上質な恋の歌だ。これを恋心と思えない人は野蛮人だ。事実かれはこのトリ
オ三曲を、ロンドン旅行中に出会った60歳を越す未亡人レベッカ・シュレーターのために作曲したのである。彼は彼女からの手紙を写し取って、晩年でも机に
しまい込んでいた。それを見つけた伝記作家ディースがその由来を聞くと「もし結婚していなかったら彼女と結婚していただろう」とハイドンが話したという。
ハイドンの面目躍如だ。そして最後のジプシーの熱狂と大騒ぎを一緒に弾いたアマチュアピアニストであったレベッカは、このフィナーレを大笑いしながら喜ん
だに違いない。このトリオは彼女への恋文だったのだ。
(2016/11/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
もう30年以上前のことだ。デュオ林と銘打ったチェリスト林俊明さんと奥さんの由香子さんが関西に現れた時のことだ。凄いチェリストが関西に来られた、そ
の方のお披露目をするから自宅に来るようにと知人のお宅に招かれたことがある。その後、林さんは、大フィルのチェロの首席を10年ほど続けられたから林さ
んをご存じの方もおられるかもしれない。その林さんとの初めての出会がその時だった。そのとき聴いたのが他ならぬブラームスのチェロソナタ第1番だった。
ぼくの持っているCDは、披露目のあと神戸文化中ホールで1989年に演奏されたライブ録音なのだが、プライベート盤として神戸ではお馴染みの「串乃家」
の松本功さんがプロデュースしたものである。だからもう手に入らないが、素晴らしい演奏で、ライブである生々しい息づかいが隅々まで感じられるもので、林
さんのCDの中でも名演に属するものだ。録音そのものもとてもいい。
初めて知人のお宅に伺ったときの演奏も素晴らしいもので、いまだに印象深く覚えている。実はそれまでブラームスのチェロソナタは聴いた覚え
がなかった。あのブラームスの鬱陶しいウダウダの音楽を聴くことになるのかと、そんな気分でお宅に伺ったのだ。ところが冒頭のゆったりとした低音が鳴り始
めたとたん、あっという間にその音の魅力に捕らえられてしまったのである。
ブラームスは鬱陶しいどころか、まことに優しく、こころに染みいる優しさで語りかけてくるではないか。しかもそれは単に優しいだけでなく、そこには僕らの
心に深く染み入る悲しさがある。そのたゆたさに身を任せながら、ブラームスの何かしら辛かった人生に想いを馳せたのである。そして同時にブラームスが本質
的にロマンチストであることを知った。林さんのチェロの音色は一音一音が、それぞれにものを云うが如くに語りかけてくる。それが否応なくブラームスの心の
辛さと優しさを伝えてきたのである。
第2楽章は実質的にはスケルツォ楽章であるが、これまた舞うが如き三拍子の優雅さがこころに染みる。しかしその中間部、トリオに相当する部分の美しさをど
う云えばいいのだろうか。そのルバートのかかった導入部の見事さと共に主旋律が歌い出すとき、それは羽衣をまとった天女の舞とでも云えばいいのか、彼が心
の底からロマンチストであったことが誰にもはっきり分かるだろう。林さんの表現も特筆に値する。まさにその優雅さを痛々しいまでに表現しているのだ。音色
の変化と絶妙なリズム、タイミングを伴ったフレージング。これほど素晴らしい演奏は、林さん以外に聴いたことがない。
林さんの持ち味は、このような繊細極まりない感性にあるが、林さんの素晴らしさはそれだけではない。彼のもう一つの素晴らしさはフレーズを大きく捉える、
そのスケール感が確かな点である。個々のパッセージへの感性が鋭い人は、ややもすると大きなフレーズを忘れることがある。しかし林さんはそれがしっかりし
ているから、音楽が説得力を持つのだ。瑞々しさと同時に構成力を感じさせる。このCDは手に入らないが、林さんの演奏は是非実演を聴いて頂きたいと思う。
世界的チェリストと云っていい人が今も大阪に住んでいるのである。
最後の第3楽章は、以上の2つの楽章とは対照的にフーガを多用したものだ。ブラームスも頑張ったものである。彼はベートーヴェンになりたかったのか。ブ
ラームスは「ねばならない」と自分を叱咤激励する。それもブラームスの一面だが、今日はそのことに触れる余裕はない。ともあれ、ぼくにはこの第3楽章をそ
ういう頑張りだと解釈している。
(2016/10/17)
ページトップに戻る
トップページに戻る
フランス近代を代表するドビュッシーとラヴェルは、それぞれ弦楽四重奏曲を一曲ずつ書いている。どちらも近代に入っての弦楽四重奏曲を代表するものであ
る。以前フランスのカルテットがこの二つを演奏したものをテープでよく聞いたが、それを紛失してしまった今では、それがどこのカルテットかも想い出せなく
て、最近よく楽しむのはメロス・カルテットのCDである。
ドイツのメロス・カルテットは、僕の印象ではカルテットとして非常にバランスがいい。その音楽性が正統派の様式感覚を備えていると共に歌心がいいのだ。メ
ロスという言葉はラテン語の歌という意味で、彼らの気持ちがそのネーミングに表れているのかもしれない。
この演奏でも、フランスものであるにもかかわらず非常にいい。例えばドビュッシーの第三楽章で官能的ともいえる旋律が次々と楽器を取り替え
て現れる美しさは絶品だ。歯切れのいいフィナーレなどでは、これまた現代のカルテットがお得意とするものだから文句のつけようがない。
ところでドビュッシーのこの四重奏曲は、彼にしたら結構古典的な手法で書かれていて、どことなく固さがみられる。先にあげた第三楽章とフィナーレの序奏な
どはドビュッシーの作品の中でも絶品で、頭がクラクラッとするような不思議な美しさに満ちているが、たとえば第一楽章などは、僕はそれほどいいとは思わな
い。これが発表された時は、まさにドビュッシー自身もロマン派からの決別を意図していただけに、まさに斬新であったであろうと想像されるが、今となって
は、それまでの旋法を捨てた旋律構成は、むしろ民俗的なものを感じさせて、その新しさよりも意気込みの激しさが表に出てきて、ドビュッシーの後の美しさに
までは到達していない。
それに対してラヴェルの四重奏曲の洗練度はドビュッシーを遙かに上回っているといっていいだろう。そもそもラヴェルはドビュッシーの四重奏曲を聴いて自分
も弦楽四重奏曲を作ろうと決意したに違いないと思う。その辺の経緯は知らないが、ラヴェルが弦楽四重奏曲を作るにあたって、ドビュッシーから圧倒的な影響
を受けたことは、聞いてみれば歴然としている。もともとこの二人は、たとえばハイドンとモーツァルトが似ているように似ている。場合によったら区別がつか
ないような時さえある。にもかかわらず、これまたハイドンとモーツァルトがそうであるように、二人の個性は全く違っている。
ドビュッシーがどうしようもない身振りで、何者かに憑かれて独自のものを作っていたとすれば、ラヴェルはたとえ憑かれていても、憑かれた自分を楽しむ余裕
を持っていたからだ。だから第二楽章など、ドビュッシーのピッツィカートの曲想をそのまま借用しながら、遊び心に満ちている。第三楽章もドビュッシーの新
鮮な官能性にインスパイアーされたに違いないが、やはりラヴェルはラヴェルの官能に遊ぶのである。第四楽章になると、下品になれないラヴェルが、わざとそ
んな格好をして見せているという感じさえする。
要するに二つの作品は、いずれも若いときに作られてはいるが、二人の作風の違いを見事に表している。ドビュッシーはラヴェルの作品を聞いて「音楽の神の名
において、そして私の名において一音たりとも変えないよう」に言ったという。それでもラヴェルは手を加えたということだ。メロスの演奏を聞きながら、ぼく
はそういった二人の確執にも思いをはせながら楽しんでいるのだ。
(2016/10/05)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ドビュッシーの「前奏曲」はかなりの演奏家のCDをもちながら、書きそびれていたのに気づいた。以前ヴァイオリン小曲集で、いろんな人をとりあげたが、ド
ビュッシーの「前奏曲」も、一人だけでは済みそうにない。手元にあるのを数えてみたら6種類もあったが、その中で一番よく聴いて来たのがこのベロフのもの
である。その理由も単純で、僕が最初に何回となく聞き込んだのがベロフだったからで、やはり最初聴いた演奏というのは、なかなかその枠から抜けきれないも
のだと思う。とにかく他の人のものをいろいろ聴くようになっても、やっぱり録音やフレーズの点で安心して聞けるので、ベロフから話をしよう。
まずは「前奏曲」そのものの話を少ししておこう。それが理解されないと、演奏の評価もうまくいかないからだ。というのは、この「前奏曲」は
ドビュッシーの中でも特異なものだからである。誰が聴いても、初めて聴いたとき、一体ここで何が演じられているのか理解が難しい。ワイセンベルクのCDの
時に話したように、もともとドビュッシーの音楽は、個人の喜びや悲しい思いを語ろうとしたものではない。つまりロマン派のように、音楽を個人の感情の捌け
口として使ったものではない。その点ではドビュッシーの音楽はその対極にあるといってよい。なにがしか鬱陶しいあの自己告白とは無縁の世界であり、ド
ビュッシーの場合、たとえそれが何かに接したときの自己の感情に根ざしているとしても、その感情は第三者のものとして、醒めた目で評価され表現されている
という風だ。
ワイセンベルクが収録した「ベルガマスク組曲」や「版画」、「子供の領分」などすべてそういうものだと云ってもいいが、「前奏曲」になるとこれがさらに徹
底されるに至る。そこで音楽にされているのは人間が抱く感情というよりも自然事象そのものを音で捉えようとしている。もちろんそれが音楽である限り、それ
は自然事象から人間が感じ取ったものを表現する訳であって、そこに受け取る人間の感性が音となって表現されているといっていい。にもかかわらず、それは自
然そのものを音で表現しようとする。
といってもそれは描写音楽というものでもない。いわゆる描写音楽は鳥の声、風の音、場合によっては機関車の音など、それを殆どナマで表現し
ている。いうなれば、まさに似たような音色やリズムを用いて文字通り描写しようとする。要するに擬音的な描写の域を出ない。そういう点から見れば、ド
ビュッシーの音楽は全くちがう。そのあり方をここで詳しく書く事は出来ないが、あの不協和音に満ち満ちた世界は、音で聞き取った「夕べの香り」であり「雲
の上の足跡」であり、「花火」であり、「月に濡れたバルコニー」である。
人には音や和声に色を見る事があるように、逆に色や臭いに音を見ることがある。精神医学ではそれを人のもつ「共通感覚」あるいは「共感覚」と呼んで、感覚
器官同士がそれぞれの器官を通して根元的に同じものを感じ取る能力を持つとする見解がある。色に音を聞き、音に色を見る。あるいは味覚に形があるという世
界もあって、味に尖がった形とその事による痛みを感じたり、ある味には丸みと柔らかい手触りを感じるといったものである。ドビュッシーはまさにそれを感じ
る特異な能力を発揮したのではないかと僕は思っている。それは私的な想いや対象の描写とはまったく別次元のものだ。実際にカンジンスキーは音に色を見て、
絵でそれを表現し、スクリアービンはいつも音と色を同時に感じて、それをスクリーンの色とシンフォニーの音で同時に表現しようとした。
そう思って彼の「前奏曲」を聴いていくと、全てのピアノの響きが独特の斬新さと美しさを帯びてくる。そのことを初めて教えてくれたのが実はベロフのピア
ノだったのである。僕の手元にはそのほか、モニク・アース、S.フランソワ、ミケランジェリ、ギーゼキング、日本人では小林五月さん(ただし「第2集」の
み)のCDがある。それぞれに特徴があるが、一番驚いたのはギーゼキングのものである。録音は悪いが、いらない事をしない。第一曲「デルフィの舞姫」冒頭
のゆったりした付点8分音符と16分音符のタイミングというかその正確さだけ聞いても、彼の素晴らしさが分かる。
ぼくは合唱団の指揮でも付点のタイミングについては、とても神経質に注文を付けて来たが、ぼくはその点での正確さが、音楽の本質からして大
切だと思っている。そして他ならぬギーゼキングの正確な付点にハッとしたのである。勿論ぼくの持っているCDのピアニストは世界的に超一流の人たちだか
ら、その付点の処理が悪いはずがない。にもかかわらずギーゼキングを聞いたとたんに、僕が求めていたのはこれだ!と思ったのである。そして次々聞いていく
と、ギーゼキングのピアノは、音楽そのものの構造が見事に捉えられていることが分かる。要するにアナリーゼがしっかりしていて、それはやはりドイツ系のワ
イセンベルクのドビュッシー演奏と共通するものだ。
どこかで書いたと思うが、一般にドイツ語圏の音楽が、構築性にすぐれ、従ってその演奏も論理的な構築性を必須の条件としているのに対して、フランス音楽は
その時その時の抒情性を表現するのに秀でている。或いはその時の雰囲気の表現を要求する。そこでフランス音楽の演奏は、構築性よりは即興性が重んじられ、
気配のようなものが重視されたりする。そこで演奏者も、ともすれば気持ちを乗せることを優先して、構造のことを忘れがちになる。ぼくはそういう演奏を一杯
聞いてきたから、ギーゼキングを聞いて、これぞドビュッシー、という思いになったのである。そして最近知ったのは、ギーゼキングによるドビュッシーの復刻
版が今は沢山出ていて、どうやらギーゼキングはドビュッシー弾きといってよいほどの人だったらしいことである。
録音は悪いが、今ではベロフよりギーゼキングに手が行くようになった。録音が悪いと思っていたそのくすんだ音色が、とてつもなく美しい音色と思われ、それ
とともにドビュッシーの斬新さが溢れで出ている。ペダル使用の多いベロフより、この方がはるかに美しく思えてきたのがギーゼキングである。
(2016/09/21)
ページトップに戻る
トップページに戻る
前回ドビュッシーの歌曲は詩が優先していると書いたが、具体的にいうとドビュッシーの場合、詩が先にあって、そのコトバの発音やイントネーションがその美
しさを要求するように、音程の上下あるいはリズムが生じてきて、それが音楽として結晶していくという事である。ということで、アップショウの歌う最初の
「パントマイム」(ヴェルレーヌ)は言葉のリズムに乗って、軽快にピエロとコロンビーヌの話がバラード風に語られる。言葉の面白さがそのリズムとともに軽
快に語られる歌としては第3曲の「マンドリーヌ」(ヴェルレーヌ)、そして「操り人形」(ヴェルレーヌ)、「木馬」(ヴェルレーヌ)などがあるが、コトバ
の優先するこれらの歌曲はドビュッシーの歌曲のジャンルの一つといっていい。
この種のものは、フランス語ができない人間には全くお手上げだが、それでもその内容を一応知っておけば、いかにドビュッシーがそれを洒落た手並みで扱って
いるかを感じることはできる。最初の「パントマイム」など、今では日本でもこれに類するものが子供のテレビ番組でバラード風に歌われたりしている。それで
「ああ、この手のものか!」と思わせる感がなくもない。しかし聞いていくうちに、早口言葉の諧謔味だけでなく、そういうところからは想像を絶するようなメ
リスマ(母音だけで旋律を歌う形)が現れて、こういうのを聞くと、そこに天才と凡才の画然たる違いを思い知らされるのだ。
しかしなんといってもドビュッシーの歌曲ですばらしいのは抒情的なものである。それに属するもをすべて取り上げてゆけばきりがないから、ヴェルレーヌの
「忘れられた歌」のいくつかだけ取り上げよう。
第1曲は「やるせない夢心地」である。愛し合う二人は、愛し合いながら、あるいは愛し合っているからこそやるせない思いの中にいる。ヴェルレーヌはその理
由を語らない。しかし爽やかな木々のざわめきの中に憂愁が秘められているように二人の愛にはやるせない憂愁が秘められている。その微妙な感情をヴェルレー
ヌが言葉で表したものをドビュッシーは音にする。ドビュッシーはいつも詩に対しても音に対しても醒めたクリティカルな目を働かせる人なのに、この曲では珍
しく彼が詩に取り込まれている。そこが印象的だ。
そして2曲目「巷に雨の降るごとく」は堀口大学の訳詞でだれもが知っているものだが、ドビュッシーの絶品の一つである。雨の滴りを彷彿とさせるピアノの前
奏に誘われて「Il pleure dans mon
coeur・・・」(わが心に雨が降る・・)と歌い出すその上向旋律の美しさ。優しい雨の音に僕の憂愁は深まる。雨のなか、帽子を深くかぶった青年が、一
昔前のパリの白黒映画とともに浮かび出る。
そして第3曲「木陰」は、これまた珍しくドビュッシーが憂いに閉ざされたヴェルレーヌの詩に感応したものである。しかしドビュッシーが驚くほどドラマチッ
クに歌ったのが6曲目の「憂鬱」だ。「バラは真紅、蔦は深緑、空はあくまで青く、あまりに優しい・・・しかしお前のほんのわずかな動きさえ俺を絶望に引き
戻す・・」。冒頭のレシタティーヴォ風の語りかける旋律はいつしかアリアとなって感情は高まり、大きく波を打つ。「世紀末」の詩が、再び僕を青年に引き戻
した歌曲群であ。この小論では、これ以上詳しく書けないのが残念だ。いずれ、ドビュッシーの歌曲を一つずつ詳しく書きたいと思っている。
最後になってしまったが歌手アップショウに触れておくと、彼女の歌い方は発声がとびきりいいわけではない。むしろ素人っぽくさえある。下から押し上げるよ
うな発声をするときが特にそうだ。しかしその声と節回しのなんと魅力的なことか。ボードレールやヴェルレーヌが語りかける思いにさせる彼女の歌だ。
(2016/09/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
僕の次の著作のねらい目はドビュッシーである。それで最近はドビュッシーをよく聴いているが、その中でも、このところ夢中になっているのが
歌曲、とりわ
けソプラノのアップショウの歌うものである。
ドビュッシーの歌曲といえば、もう何十年も前に友人がテープに入れてくれたことがあって、それを聞いた時はさっぱり面白くなかったのを思い出す。そのこ
ろはまだドビュッシーの歌曲が全く理解できなかったのである。しかし今回改めて聞き始めると、その魅力にすっかり虜になった。その和声といい旋律といい、
なんと微妙でセンスに溢れているかと思う。しかしこれに親しむには、やはり時間がかかった。
何よりも彼の歌曲は、ほとんどがメロディをすっと覚えられるようなものではない。つまりシューベルトのように何番がきても同じ旋律が出てきて、それも親
しみがあって知らぬ間にメロディを覚えてしまえるようなものではない。つまり「通節歌曲」というスタイルが少ないのである。ドビュッシーの場合は、詩の内
容に従ってその旋律も和声もどんどん変化している、いわゆる「通作歌曲」というスタイルをとっているから、一つの歌曲のテーマがシューベルトのように記憶
に残るということが少ない。残るとしても、印象的なフレーズが断片的に記憶されるという感じである。
どうしてそうなったのか考えると、ドビュッシーにとっては、歌曲を作るときは、何よりも詩そのもの、言葉の美しさ、陰影が最優先していたのではないかと
思えてくる。たとえばシューベルトの場合などは、彼にとっては詩は美しい音楽を生み出すきっかけで十分だったのではないかとさえ思える。僕らも彼の歌曲を
聴くとき、その言葉はどうでもよくなって、「野バラ」も「ます」もメロディを楽しんでいる。大部分がそうだ。つまり彼の場合は音楽が優先している。
そういう観点から見るとドイツ系で圧倒的に詩、つまり言葉が優先しているのがヴォルフの歌曲である。ヴォルフは詩の朗読が好きだっただけで
なく、いつも
作曲するときは何度も朗読を重ね、自ずとそれが音楽になるのを待ったようだ。そのためヴォルフの歌曲もドビュッシーの歌曲も、それぞれドイツ語やフランス
語がわからないと、結局その歌曲のすばらしさを理解できないのではないかと思えてくるのだ。
たしかにそうだ。僕は今度ほどフランス語ができればと思ったことはない。フランス語がわからなければ、その魅力も半減しているのではないかと思ったの
だ。
ところでヴォルフの場合は、どうみても言葉を優先するあまり、ほとんどメロディとは言えなくて、言葉がパルランド(「語り」)風に上下しているにすぎな
いと思われることが結構ある。それに対してドビュッシーの歌曲は遙かにメロディックである。パルランド風のところを伴いながらも、何とも言えず優雅な旋律
が一種の浮遊感をもって流れていくことが多い。しかもそれを支える和声は、独特の新鮮さ、斬新さをもっている。いったいこの美しさは何なのだと不思議な感
覚にとらえられる。しかしどう見ても最後の勝負はやっぱり音楽の形である。そしてその点でこそドビュッシーは見事だ。
アップショウの歌について書こうと思って始めたが、ドビュッシーの歌曲の独特の形をまずは書かないと話が始まらないと思って書き出したら、もう予定枚数
が来てしまった。アップショウの歌と具体的な曲については次回改めて書くことにしよう。
(2016/08/16)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今回はちょっとこれまでと趣の違った愛聴盤をとりあげよう。ナイジェル・ケネディというイギリスのヴァイオリニストによる小品集で、CDのタイトルは
「クラシック・ケネディ G線上のアリア」というものだ。
僕は毎日、最低30分はヴァイオリンを弾いていて、大体は1時間ほど弾いている。カルテットの曲やモーツァルトのソナタもやるが、必ず小品を一つ入れて
いる。それもかなり有名な曲で、高音のE線のハイポジションから一番低いG線でのハイポジションまで入っている曲であることが多く、さまざまなテクニック
と表現を要求するような曲だ。それで手本になるようなCDを探しているうちに色んな奏者のヴァイオリン小品集が手元にあるのに気づいた。一応その代表格と
してケネディを上げたが、他にもいいものがある。
日本人では古沢巌、矢部達哉、五島みどりがあり、外国人ではチョン・キョンファ、グリュミオー、ヴェンゲーロフ、さらに今回採り上げるケネディ。こう並
べてみたら7枚もあって自分でもびっくりしている。どれも愛聴盤といってよく、改めて聞いてみても甲乙つけがたい。それぞれの持ち味が存分に発揮されてい
て楽しいのだ。古沢巌の場合は録音が悪いのが気の毒だが、今でいえば葉加瀬太郎の方向を切り開いたといっていい人で、日本人で初めてヴァイオリンそのもの
の楽しさ、驚きを感じさせた人ではないかと思う。改めてネットで見てみたら、いまは葉加瀬などといろいろ共演しているようだ。
矢部達哉はずっと以前、ピアニストの横山幸雄(辻井伸行の中学時代からの恩師)とデュオの演奏会を神戸で持ったときにプログラム解説を頼まれて初めて
知った人だが、こんなに若々しい感性をもった男性ヴァイオリニストが現れたのかと感動した人だった。演奏も録音も音色もいい。抒情的な美しさに溢れてい
る。その点もっとヴァイオリンらしさというか、ヴァイオリンそのものの甘さ、激しさを感じさせるのが五島みどりやチョン・キョンファだろう。女性特有のデ
リカシーと情念を孕ませている。ぼくのタイプではないが、それはそれで愛すべきものだ。
そしてグリュミオー。彼は、この愛聴盤のモーツァルト編で以前とり上げたが、最高のモーツァルト弾きだ。しかし小品となると、いわゆるヴァイオリンの
ヴィルテイオーゾという感じがしない。他の奏者全員にみられる自分の音色や演奏に酔っているところが微塵もなく、とても真面目にツィゴイネルワイゼンやク
ライスラーを弾いている。サンサーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」は素敵だが、はっきりいえばこういう小品の場合は僕にはちょっと物足りない。そ
れと対照的なのがヴェンゲーロフである。ロシア人のようだが、超絶的なテクニックを駆使しながら、民俗的な臭いを強烈に漂わせた演奏をする。
それに対してナイジェル・ケネディは、なんといっても優美だ。技巧はまさに超絶技巧でありながら、品のいい抒情性を持っている。上にあげた奏者の方が魅
力的な演奏をしているものがいくつもあって、その点ケネディは決してなにか強烈な臭いを発するようなところがない。彼が採り上げているものもポピュラー曲
に属するもの、ジャズっぽいもの、あるいはサティのものがあったりするが、その軽やかなセンスが臭いを消しているようなところがある。しかしである、僕が
弾くとすれば、やっぱりこういう風に弾きたいと思わせてしまうのだ。そう思わせるのは、かつてのエルマン・トーンを思わせる甘い音色と、センスのいいフ
レージングだろうと思っている。
(2016/07/31)
ページトップに戻る
トップページに戻る
サンソン・フランソワが大阪のフェスティヴァル・ホールに現れたのは、大学生の頃だったろうか。僕はその美しい名前から、愚かにも女性ピアニストである
と勝手に思いこんで出かけたら、何と禿頭の男がステージに現れたのである。そうか、そういえばサンサーンスのオペラに「サムソンとダリラ」がある。サンソ
ンとはサムソンだったのかと一人納得して聞き始めた。もう詳しいプログラムは忘れたが、ショパンの美しい音色が印象的だった事だけ覚えている。しかしそれ
からS・フランソワが、ラジオで鳴るたびに夢中になって聞いた。そして僕にとって、フランスものの最高のピアニストになってしまったのである。
それから何年後だったかこれも忘れたが、2枚のCDからなる輸入盤(EMI)のラヴェルのピアノ曲全集を手に入れた。そして今も車の中に入れておいて折
に触れて聞いている。彼については、天才肌で、ムラッ気があって、無類の酒好きで46歳で急逝、とゴシップ風の話が付いて回るが、ともかくセンス抜群。ゴ
シップとは無関係に素晴らしい。ルバートも他の演奏家の度肝を抜くようなことをやったりするといわれる。しかしこのラヴェル全集の演奏を聴く限り、見事と
言うほかないルバートだ。ルバートというのは、要するにフレーズの中でテンポを自由に揺することだが、これは下手をすると最低の音楽的効果をもたらす。と
いってもこれをやらないと音楽が死ぬ。音楽のフレーズは、揺らぎと共にあるもので、そうであるならメトロノームの正確さは逆効果しかもたらさないのだ。例
えば正確さをもっとも要求されるモーツァルトの曲でさえ、どのようなフレーズでもメトロノームからみれば揺れている。正確ではないのだ。そうでないとフ
レーズが死ぬ。
結論をいえば、ルバートの中にミューズの女神が宿っている。ところがこれにかまけてやりすぎると、たちどころにミューズは汚物を振りかけられたように逃
げていく。要するにルバートのかけ方に音楽的センスのエッセンスがあって、そこに演奏家の才能がもっとも象徴的に現れるのである。リタルダントにおいてお
や、といったところである。そしてサンソン・フランソワのルバートが最高なのだ。
例えば全集、冒頭の「死せる王女のためのパヴァーヌ」。その透明な音色と坦々とした伴奏のリズムに乗せられて歌い出すメロディの何という美しさ。しかし
よく聴くとフランソワは実に細やかなルバートをちりばめている。冒頭の坦々とした伴奏に揺るぎはないとしてもその旋律は、ほんの僅かの間を持たせて次のメ
ロディの最初の音を確信を持って叩く。しかし8分音符が三つ連なるアウフタクト(上拍)では、ほんの僅か急き込みながら次のフレーズになだれ込む。そして
それを支える低音、中音、高音の音量バランスの絶妙さ。そうだ、フランソワの素晴らしさは、ルバートだけではない。その音色と声部間のバランスが素晴らし
い。とりわけその音色とそこから生まれる独得の透明感がどこから来るのか、その事を考えていて気づくのは、彼はペダルを最小限しか使わない点である。僕の
持っている他のフランス人の演奏家は、やっぱりその点が甘いと僕には感じられる。フランソワぐらい、ピアノの音色の極限で弾いて欲しいと思う。ペダルに
頼って欲しくないと思うのだ。その事は「優雅で感傷的なワルツ」や「クープランの墓」で現れるそれぞれの変化に満ちた曲でも、これ以上ないというほど音と
フレーズが美しい。そしてそれは、モーツァルトのピアノ曲でそうでなければならないように、ペダルの使用が極限まで控えられ、ルバートが効いているからな
のだ。
(2016/07/17)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ブラームスの「アルト・ラプソディ」というと、その名前だけで、ぼくは高校時代の胸を締め付けられるような青春時代を思い出す。そのころ流行りだったステ
レオ喫茶に行ってよく聴いた。放課後に立ち寄った難波の「ウィーン」や梅田の「日響」でのことだ。自分の家にはまだLPもその再生装置もなかった頃だ。
今日採り上げるアバド(ベルリンフィル)のCDは数年前に手に入れたもので、それほど古くはない。しかしこの演奏は、僕をもう一度青春時代に引き戻し、そ
の青春時代が今も僕の中で続いていることを認識させたのである。実はこのCDにはその他に「運命の歌」と「パルゼンの歌」及び「ネニエ」が入っている。い
ずれもオーケストラを伴った混声合唱曲であるが、最後の「ネニエ」の女声合唱版は、僕が指揮している女声合唱団で取り上げたこともある。
ともかくどれをとっても素晴らしい演奏だが、なんといっても「アルト・ラプソディ」にトドメを刺すといってよい。冒頭の心臓をえぐるようなスフォルツァン
ドで始まる低弦の下降旋律は、その豊かな弦の響きとゆったりとした付点のリズムで僕らをほの暗い音の世界に引きずり込む。と同時にその豊かな衝撃に身を任
せた時、僕らはまるで奈落の底に引きずり込むような恐るべき力に捉えられてしまう。にもかかわらずその何と魅惑的なことか。僕らは、あのスフォルツァンド
の衝撃と下降旋律が僕らをどこに連れて行くのか分からずとも、その悲劇的な何ものかに即座に魅了されて、未知の世界を追わざるを得ない。
事実この悲劇的な旋律が一段落すると、それを慰めるが如き木管の上向旋律が現れる。しかしそれも束の間で、その上向旋律がスフォルツァンドで断ち切られる
と、心を揺るがすような低弦の3連符が現れて、不安を助長するような木管旋律が現れ、その気持を最後に引き受け、収めてくれるのが、ヴァイオリンの優しい
下降旋律である。さすれば、アルトの芳醇な声が、「Aber abseits, wer ist's?
だが、彼方にいるのは誰なるぞ?」と問いかける。そこまで来ると、僕らはもはやこの音楽から逃れることは出来ない。
実を言うと、この曲を採り上げることに決めたときになって初めてゲーテの詩を読んだ。これまで一度も詩の内容を見ていなかったのである。にもかかわらずブ
ラームスの音は、ひたすらなる哀しみと祈りとも思える慰めで僕を誘い続けたのである。詩の内容は、ゲーテが、彼の「ヴェルテルの悩み」に感激した青年を連
れてハルツに旅行したときの詩で、その青年に人の苦しみを投影した詩とも言われている。苦しみに捉えられてしまった青年の辛さを歌うと共に、その苦しさに
慰め与えよ、と神に祈る内容だった。実際、男声合唱が現れて、「彼に慰めを!erquicket 」と呼びかける旋律のなんと切実で美しいことか。
ブラームスにはいつも抑圧された辛さが秘められている。その抑圧されたものから出口を求めて藻掻いているときの音楽は、吹っ切れない鬱陶しさを宿している
ことが多い。しかし彼が、秘められたものを素直に愛惜し、それを歌うとき、彼の音楽は、人の心の奥底にある悲しさをその深さとともに歌ってくれる。「ネニ
エ」もまた、死んだ子供を悼む歌だが、そこには人を陶然とさせる哀しみさえある。ブラームスの哀しみがいつも秘められたものであるがゆえに、アバドの表現
した音楽は、その大きな作りによってブラームスの豊かな深さを伝え、僕らに至福の時さえ与えてくれるのだ。
(2016/06/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
これは実はCDではなくてDVDであることを最初にお断りしないといけない。愛聴盤ということでお許し願いたい。実はこのDVDの元になった映像と音楽は
かつてLDで発売されていて、それを手に入れてよくこれも見ていたのだが、これがすでにDVDになっている事を知って、ここで取り上げたいと思ったのであ
る。
映画のウエストサイドが日本に来たのは僕が大学生の頃だったが、これは文字通り衝撃的だった。あの躍動する踊りと音楽に参ってしまった。戦
後の日本文化の特質の一つはアメリカがすべての面で日本人の憧れになったというところにあるが、進駐軍の放送から流れ出るジャズもその一つで、それから僕
の学生時代になるとグレンミラーが圧倒的な人気を誇っていた。そのころウエスト・サイド・ストーリーが上陸したのである。せいぜいサッチモやグレンミラー
止まりだった僕のリズム感はウエストサイドでノックアウトを食らった。しかもその音楽のリズムは実は彼等のあの身のこなしとともに生まれている。もうこれ
は、僕の中では夢のまた夢の世界になってしまったのである。
それでサウンドトラックのCDを今もよく聴いているが、バーンスタイン本人がレコードを作っている風景を撮ったものがあるとすれば、これほど興味をそそ
られるものはない。それでLDが発売されたのを期に買ったのである。
これはしかし予想以上のものだった。マリア役にキリ・テ・カナワ、トニー役にホセ・カレーラス、そして指揮者のバーンスタイン。この3人を中心にドキュ
メンタリー・ドラマそのものが演じられているのだ。
カレーラスの一つ一つの神経質な対応、とりわけ何度歌ってもうまくリズムに乗れなくて、自分に腹を立てて録音を勝手にやめて帰っていく姿。それを心配そう
に、優しく見守るキリの眼差し。カレーラスが退出したことに指揮台の上で頭を抱えるバーンスタインと、その彼にそっと近づいて黙って手を掛ける女性ヴァイ
オリニスト。しかし次の日、カレーラスがその箇所を見事にクリアーして見せ、しかもこれまで誰もやらなかったような歌い回しでそれをやってのけた時の皆の
安堵と喜び。
以上のところはハイライト中のハイライトだが、どの場面をとってもバーンスタイン本人と共にこの音楽を熟知した演奏家たちが生気に満ちている。トラン
ペット奏者の少年のような眼差し。エアコンで喉をやられたキリが、何とかその日をクリアーしようとしている苦しげな表情。ミキサー室のディレクターの表情
も印象的で、彼が音楽に乗りながら喜びに満ちて仕事をこなしている姿も忘れられない。しかも彼は結構バーンスタインと丁々発止の掛け合いをやる。彼はこの
音楽を実によく知ってる。ディレクターであれば当然の事だが、スコアを全部わかっていて、録音されたときの最終的な効果まで頭に入れて注文をつける。
ともかく僕は音楽に魅せられると共に、その人間模様に魅せられてしまった。演奏者誰もが好きになってしまった。それで僕は音響文化論という講義の時、こ
れを学生に見せていた。音楽の現場がどれほど生気に満ちた、素晴らしい世界であるかを知って欲しくてそうしたのだ。それを導入部にしてカラヤンの作った
ベートーヴェンのシンフォニーの映像も見てもらったりした。そうするとこれまで全くクラシック音楽を知らなかった学生たちも、たちどころにこの世界に夢中
になるのが見て取れたのである。何度見ても気持の高揚を抑えきれない、僕にとって貴重な財産になった一枚である。
(2016/06/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
最近は日本でもやっとオペラが市民権を得るようになってきた。戦後NHKがイタリアオペラを招聘したころは、あまりの華やかさと信じられない声量をもった
歌手の舞台に圧倒されて、それは夢のまた夢の世界だった。それに比べると、いまでもチケット代は法外な値段がついたりするが、日本の歌手によって見事な舞
台がみられるようになった。わがモーツァルトクラブによる「フィガロ」のハイライトも観客と歌手が一体となって楽しんだし、先だっての佐渡裕による「メ
リー・ウィドウ」など、日本人、いや関西人による楽しいオペレッタが生まれたといってもいい。僕自身はとりたててオペラファンというわけではないが、知人
に歌手が多いし、レッスンを手伝ったりすることも多くて、オペラアリアには特別の親しみを持っている。
そしてオペラといえば、わが愛するモーツァルトを別にすれば、やはりプッチーニが好きだ。彼に比べるとヴェルディやワーグナーはそれほど好きになれな
い。残念ながら幾つかの例外を除いて、本質的なところでヴェルディに美を感じたことがない。その点、プッチーニは聴けば聴くほど、その旋律や転調、オーケ
ストレーションに感嘆する。モーツァルトに比べるとカラオケを思わせる伴奏形態がちょっと恥ずかしい気がするが、あそこまで音の官能に溺れてしまえば、も
う何をか況やという気持にさせられる。それを如実に感じさせるのが往年の名歌手M・カバリエ、J・ステファーノ、P・ドミンゴなどが歌っている「プッチー
ニ アリア集」である。オケや指揮者はいろんなレコードから取られていて、それをCDにリマスターしたものだが、これはプッチーニを堪能させてくれる。
「ラ・ボエーム」や「トスカ」、「蝶々夫人」を始め、有名なオペラアリアが集めてある。
しかしこれをずっと聞いていると不思議な気持になる。この気持ちよさは一体なんだろうと思い始める。何よりソプラノにしろテノールにしろ、その声の何と
柔らかく艶やかなことか。涎の出そうな声色なのだ。しかも旋律そのものとそれを支える弦は、これ以上ないほど官能的な響きをもって必ずクライマックスに導
く。これはセックスではないか。いや直接的な表現で恐縮だが、僕はあまりに美しいセックスと呼びたいものを感じるのである。音楽とセックスが背中合わせの
ものであることは一度書きたいと思っているが、ここで一つだけいっておくとすれば、両者ともに、その極地は一体化の陶酔、幸せを実現しているという点にあ
る。つまり彼等の歌を聞いていると、その気持ちよい一体感はセックスの陶酔と変わらぬではないかと思えてくるのである。
しかしそこまで観念すると、もう一度これは一体なんだという疑問がわいてくる。僕は、西洋のクラシック音楽は世界遺産と呼びたい凄いものだと思っている
が、そのエッセンスは、その極めて知的な吟味のうえに成り立ち、それゆえにそれは人間の精神を最も深いところで覚醒させるところにあると思っている。そう
いう点から見るとプッチーニのアリアはむしろ理性を麻痺させ、その事によって人を陶酔に導く。そのとき僕の脳味噌は溶けてしまったのではないかと思う。イ
タリア人はどうなっているのだと思う。
そう思いながらもこの陶酔に抗えない。そうだとすれば、これもまた西洋のクラシック音楽がいかに多様な表現を獲得するにいたったかを示しているのだと思
う。その事を如実に感じさせるのがこの一枚である。
(2016/05/31)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ある時期、シューマンの著作に没頭していた。そのころシューマンのものを毎日のように聞いていたが、その一つに今日とりあげるホ
ロヴィッツのピアノ演奏
のCDがある。ホロヴィッツといえば、年老いてから突然演奏を再開して人々を驚かせたのはご存じの通りだ。しかもその演奏の桁外れの素晴らしさが人々を熱
狂させた。そして再度日本を訪れたときは、今度は「ひびの入った骨董」だと吉田秀和に名言を吐かせたのである。ただ吉田の真意は、だからダメだというので
はなく、骨董の名品の価値はひびには関係ない、ということでもあって、ホロヴィッツの演奏は、まさにそういうものだったようだ。僕はそういう消息を当時滞
在していたロンドンで興味深く聞いたのである。
ともあれ今日とりあげるCDはホロヴィッツが旺盛な演奏活動をしていた時代のもので、彼の持ち味が最大限発揮されている。僕にとってホロヴィッツの素晴
らしさは、なによりその音色とフレーズにあって、彼のロマンティックなフレーズがあの音色を要求していて、フレーズと音色のいずれもが他方を自ずと要求
し、それらは一体となってホロヴィッツの、あるいはロマン派の音楽を形作っている。実演を聞いた事はないが、あの音色は、たとえば塩鮭を焼いたものを食う
ときは、やっぱりあの鮭の皮こそ「あまりに鮭的な」味であって、あれを食わないと焼き鮭を食った気がしないように、まったりとしたピアノそのもの味わいを
感じさせるのである。
そしてロマン派のピアノ曲は、例えば古典派のような構成力で曲が成り立っているというよりは、旋律の一つ一つの語り口が生命線で、伴奏部分もなにがしか
語りかけて来るかぎり、どう転んでもピアノの音色が絶対的な意味をもつ。例えば古典派の場合は、音色より何より楽曲の構成がしっかりと構築された演奏であ
れば、そのうち音楽そのものがものを言う世界が現れて、音色はあまり気にならなくなる事さえある。別のいい方をすると下手に感情を込めて演奏されて曲の構
成が乱されるよりはメカニックに演奏される方が、よほど聞いていて気が休まるといった事態さえ出てくるのだ。その点、ロマン派のピアノ曲は音色そのものが
語りかけてくる味わいを持たないと、そのすべてが失われる。とりわけショパンなどは、旋律も和声も感情に濡れていて、ピアノが濡れた色合いを持たなけれ
ば、ショパンはショパンでなくなる。
その点シューマンはもう少し清潔である。シューマンは極めて知的な批評眼、審美眼をもっていて、感情に溺れて作品を書くことはない。このCDに入ってい
る第3番のソナタはその点では、珍しく感情をほとばしらせているが、これは例外に属して、『フモレスケ』では知的審美眼とハイセンスの抒情性が見事に融合
している。以上の点でショパンとシューマンには、資質におおきな違いがあるが、ホロヴィッツの演奏は一口でいうとショパン寄りの演奏だ。ホロヴィッツは、
要するにロマン派の情感の豊かさに反応し、音色でそれに応えているのであり、そうすると彼の演奏によって僕らは、シューマンも、とてもショパンと似た情感
をもって作曲したことがあるのを知るのである。
これまでの話で推察いただけるだろうが、実は僕はシューマンのピアノ曲の演奏としてはホロヴィッツを満点の演奏とは考えていない。しかしながら、何と美
しい音色か。そして抒情性か。僕はシューマンとショパンの違いに思いを巡らせながらも、その違いに思いを馳せることになるのはホロヴィッツの音があまりに
美しいからだ、という事に気づくのである。
(2016/05/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今まさに六甲男声合唱団で練習の真っ最中の曲で、しかもぼくがお願いして練習用のデモCDまで配布していただいたこのCDにつ
いて書くのを忘れていた。そうでなくても今から60年前、大学に入学したときにこのLPレコードは手に入れていて、文字通りレコードがすり切れるほど聞い
た愛聴盤なのである。それはシューベルトの「冬の旅」とセットになっていたもので、これでぼくのリートの世界が決定されたに違いないと思えるほどのもの
だった。
ということなら、ディースカウの「冬の旅」を取り上げてもよかったのだが、ここでは取り敢えずマーラーの方について書こう。これを手に入れたのは昭和
33年(1958年)だから、日本でマーラーの交響曲の演奏など殆どなかった頃のことで、のちにマーラーブームが到来することすら予想も出来なかった頃で
ある。だから、これがぼくのマーラー理解の原点だったと云っていい。その若々しい抒情はぼくを虜にした。その失恋の甘く激しい情感は、そのまま僕の気持ち
を高揚させ、揺さぶった。それは夢の世界でもあった。
どこか煌びやかな4小節の導入に導かれた主題は、ゆったりと悲しげに恋人が他の男と結ばれる日の悲しみを歌う。それは今となって見れば、まさにベタな表
現
であって、いやベタベタと云ってもいいほどの旋律だが、当時はむしろそのベタな世界に浸る甘い、やるせなさに身を任せたものだ。
しかしさすがに才能豊かなマーラーは、音楽の起承転結へのセンスを持っていて、2番になると、晴れやかな世界に転換する。野をゆけば小鳥が囀り、花々は
挨拶を送ってくる。その音楽の転換は見事である。小鳥も花々も、この世の美しさを歌い、「なんとこの世は美しいではないか」と語りかける。でもそれは逆に
今の自分の境遇の悲しさを思い起こさせるものでしかなかった。後半になると「ぼくの心に花が咲くはずもないのだ!」と悲しみに沈みゆく姿が歌われる。
その
mir nimmer bluehen kann! という最後のフレーズは見事という他はない。
そして三番で「ぼくの胸のうちには燃え立つ剣がある」と歌うとき、これまで我慢していた怒りと悲しみが奔流となって溢れ出す。4曲の中でも最高の出来を
示している曲だ。そこに歌われた感情的内容と共に、その音楽の構成が素晴らしい。あらゆる部分がインスパイアーされている。「O weh O
weh(ああ、悲しい、ああ、悲しい)というリフレインが散りばめられた構成には文句のつけようがない。彼の若き才能が、見事な結晶を生んだものである。
ここで作曲家の中にも演奏家の中にも、あるいは聞き手の中にも一種のカタルシスが生まれる。最後に「黒い棺に横たわって再び目覚めなければ何といいだろ
う」と感情が収まりゆくとき、激しい感情を吐き出したときの魂の浄化、カタルシスを誰もが感じるだろう。
最後の4番で彼は文字通り「さすらう若人」となって旅に出る。彼女を想い起こさせる親しい街をあとにする他はない。自分にさよならを云ってくれる人さえ
誰一人いない。しかし旅に出た彼は一本の菩提樹の木陰でやっとひときの安らぎを得る。この後半からの長調への転換によって表現されたその安らぎの淡い悲し
さはマーラーの才能を余すところなく示している。
その菩提樹の花びらの降り注ぐ下で、彼は夢にまどろむのだ。そのとき愛も苦しみもすべてが美しく彩られた世界が現れる。それはまさにゆめ、まぼろしであ
る。しかし今の彼にとっては、その他に何があるというのか。その辛かった世界を美しかったと思うことこそが、彼がこれからもう一度生きて行くことを可能の
してくれるとすれば、そういう想い、その世界に漂うことが今を生きるということに他ならなかったのである。
これは文字通り青春の1ページを歌った傑作である。さすがにもう77歳にもなり、そして様々な音楽経験をしてきてみれば、この音楽はベタな音楽である。
たとえば、中田喜直の「雪の降る街」を想い起こさせるようなベタなところがある。でもさすがにマーラーのオーケストラの曲想は、ベタと云ってしまうにはあ
まりに煌びやかだと云っていい。ただ旋律そのものは1番と4番など、ぼくにはベタそのものに思える。でもそれが青春時代というものだと思う。そういう思い
出とともにこの曲はぼくの中の財産になったのである。
最後になったが、フルトヴェングラーの音楽の作りは、マーラーの瑞々しい感性をしたたらせると同時に、まさに彼ならではの世界の大きささえ感じさせる歴
史的名演である。そして文字通り若かったディースカウの歌唱も、フルトヴェングラーに導かれて、これ以上ないほど素晴らしい。とりわけ彼の声帯の若々しい
艶は他には見られない。デモCDでは、バレンボイムのピアノ伴奏によるものも入っているが、これは年齢を感じさせるし、おそらく音響もデッドなところで録
音したようで、ディースカウも衰えたり、という印象をぬぐえない。ただ同じ歌手でも、時が変わればフレーズもコトバもいろいろ変化する様子が知られて、そ
れはそれで興味深いものだったが、比較論をすればまた別のエッセイになるので、今回はこれで終わりたい。
(2016/05/05)
ページトップに戻る
トップページに戻る
かつて僕の指揮している六甲男声合唱団でガーシュインのオペラ「ポーギーとベス」のハイライトを演奏したことがある。
実は僕がどうしてもやりたくて、僕
自身が男声合唱用に編曲したのである。それで今回は「ポーギーとベス」を取り上げる事にした。
ところでガーシュインというと、何といってもクラシック音楽の世界にジャズ音楽を取り入れて、いわば殴り込みをかけたという印象が強い。そういうジャ
ズっぽい音楽として一段低くイメージされがちだ。しかし彼は天才なのだ。その事を骨の髄まで感じさせたのが、今回取り上げるヘンダーソン指揮のハイライト
集である。
ヘンダーソンという指揮者の名前を知っておられる方はまずないだろう。僕もこのCD以外には全く知らないし、CDにも何の説明もない。オーケストラは
RCAビクター・オーケストラ、これも昔は結構名前を知られたオケだったが、マイナーなオーケストラであることに変わりはない。ただベス役はレオンタイ
ン・プライス、そしてポーギー役はウォーフィールドである。CDの解説によると、実はこの二人によって、いっとき忘れられたような状態だったこのオペラが
戦後復活させられ、今日にいたる名声を得ることになったという。その二人を配したこのCDは多分、歴史的名盤といってもいいのではないかと思う。以前、た
またま生協のバーゲンでこれを手に入れたのはラッキーだった。それ以来、自分で編曲してしまうほど気に入ってしまったのだ。
実際に録音もレコードからのリマスター(1963年)で、いいとは言えない。しかしこの演奏は素晴らしい。友人から借りたCDには、エラ・
フィッツジェ
ラルドとルイ・アームストロングの競演したハイライト集があるが、これはオペラを全く離れて、自分たちでムード・ミュージックを奏でている感じで、比較の
対象にならない。またドイツで出されている、レーマン・エンゲルという指揮者のCDがあるが、英語が下手なのが印象深い。リズム感ももう一つ。一ついいの
にサイモン・ラトルがロンドン・フィルを使ってオペラ全曲をDVDに入れたものがある。これはさすがに録音もいい。映像、字幕まで付いているだけなおさら
便利だ。にもかかわらず音楽そのものの質がヘンダーソンのものに劣るのだ。
ラトルは僕のお気に入りの指揮者で、音楽ももちろんいいが、顔が気にいっている。精悍で、それでいて少年のような顔だ。ともかくラトルは僕のお気に入り
なのだが、ガーシュインになるとやっぱりアメリカ人ということなのだろうか。ほんのわずかの間(マ)、あるいは突っ込み、乗り、絶妙の節回し、こういった
ものがほんのわずかずつなのだが違って、そのわずかの違いが絶対的な違いになって音楽に現れる。ラトルも決して悪くないのにそうなのだ。これは例えばスメ
タナの「モルダウ」はやっぱりR・クーベリックの指揮するチェコフィルにトドメを指すのと同じで、体臭の違いのようなものだろう。
もちろんラトルの使った歌手も、ガーシュインが指示しているように全員黒人だが、やっぱり音楽の作りが違う。ともかくヘンダーソンのCDで僕が感じ入っ
たのは、ガーシュインが凄い天才だという事である。このオペラの中で彼は、黒人の悲しさとエネルギーに完全に同化し、インスパイアーされて音楽を飛翔させ
ている。彼はパリでラベルにも会っていて、フランス近代のモダンな音型も自分のものにしている。その転調の凄さに僕は参ったのだ。転調こそ、天才の証だと
僕は思っている。
といっても、ガーシュインがラヴェルに教えを乞うたとき、ラヴェルは彼に「ラヴェルは二人も要らない。あなたはあなたで充分だ」といった意味の事を云っ
たといわれている。むしろラヴェルの方がジャズ、あるいはガーシュインからの影響を受けたのは彼の作品からはっきりしている。
ガーシュインは「ポーギーとベス」について後年「自分がこれを書いたことが信じられない」と語ったそうだが、彼自身、そう思うほどの傑作なのだ。それを
教えてくれたのがヘンダーソンの名盤である。
(2016/04/17)
ページトップに戻る
トップページに戻る
前回、ワイセンベルクの演奏は「ドビュッシーの音の意味を語りつくしてくれている」という言葉で終わったが、その最も根元的な意味合いは、ドビュッシーの
音楽が「音が音を呼ぶ」ものであることをワイセンベルクの演奏が教えているということである。そこで今回はまず「音が音を呼ぶ」という意味から説明した
い。
僕が「音が音を呼ぶ」というのは、何よりも音それ自身の生理とでも名付けたい変化への要求が音自身に孕まれていて、その変化への要求に応じて次ぎの和音
や旋律が生まれてくる、という形で音の推移が感じ取られるという事である。そこにいわば文学的説明を何ら必要としない音自身の世界が展開していくという事
なのだ。それは、何か脳細胞の中にすでに音の宇宙があって、その宇宙は絶えず変化しながら美しく瞬いている。その世界をドビュッシーがかいま見たところ
を、そのまま写し取ったような印象を与える。
この事をもう少し別の角度からいうと、それまでのロマン派の音楽では、作曲家は何らかの個人的な思いや感情を表現しようと意図していて、それは恋人と
会った時の幸せな感情であったり、振られた時の悲しみであったりする。そういうとき聞き手は、作曲家が表現しようとした内容を例えば「恋人を思う幸せな感
情」だとか「失恋の悲しさ」とか「闘う意思」といった言葉で捉え直すことが出来る。そこで人々はそういう文学的解釈と共にその美しさを納得したりする。
たとえばベルリオーズの有名な「幻想交響曲」であるが、あの冒頭の旋律も作りも、気色が悪いぐらいに文学的作為に満ちている。音が音を呼ぶ世界とは無縁
の世界であって、ベルリオーズの何かしら文学的作為、あるいは彼の中で渦巻いている想いを何とか音にしようとする作為に満ちていて、モーツァルトやド
ビュッシーと全く対極にあるといっていい。要するに失恋した若者の自己自身の悲劇的な想いを彼は語りたかった。そっちが先にあるから、いうなれば動機が不
純なのである。といっても、人々はそういったベルリオーズの意図を解説書で読んで、あの交響曲が「分かった」と思う。はっきり言って、どっちもどっちなの
である。音楽そのものとは別の世界が音楽を出汁に使っているようなもので、聞く方もまた、それをすばらしい音楽だと錯覚しているに過ぎない。
これに比べて「音が音を呼ぶ世界」というものは、そういう文学的解釈を全く必要としないものだといってもいい。もちろんそれが感情的対応物を持たないわ
けではなくて、僕らが感動する何らかの、しかも素敵な感情を呼び起こすのだが、それでいてその感情はもはや作曲家個人の私的思いから解き放たれている。そ
れは言ってしまえば、ミューズの美しき世界なのだ。ドビュッシーの音楽はそういう世界を僕に感じさせるのだ。
ただ厄介なのは、ドビュッシーほど標題をつけて絵や詩から音楽を構想した人もいない点である。そういう角度から見ると彼ほど文学的、絵画的夾雑物に満ち
ている人もいない。ドビュッシーをよく弾いてきた知人のピアニストから見れば、そういう文学的意味づけこそがドビュッシーの一つ一つの音符を覆い尽くして
いるのであって、そういう意味づけと無関係に彼の曲を理解する事自身、想像を絶する行為である、という風な感想をぼくに語った事がある。
例えば僕は題名もさだかに知らないまま、つまり文学的、絵画的意味合いを殆ど知らないまま「あれは凄い!」なんて言ってきたのだが、そういった理解の仕
方が、彼女の想像を超えていたのである。しかしドビュッシー自身どう考えようと、あるいは演奏家がどう文学的解釈をしようと、僕から見れば文学的なものは
作曲のきっかけにしか過ぎなくて、彼の音楽は、ピアノの生理が要求するといっていいほどに、あのピアノの肉声とともにそこから生み出されている。例えば一
つの低音はそこにあらゆる音を倍音として孕ませているのであるが、ドビュッシーのアルペッジォは、その最初の低音が全ての和音を生み出す姿をそのままに取
り出して見せる。実際ドビュッシーほど変容に満ちあふれたアルペッジォで音楽を作った人はいない。そしてそこに見ら
れる音自身の展開の必然性は、文学的あるいは絵画的標題に焦点をあてて、その雰囲気を表現しようとする演奏よりは、アナリーゼの行きとどいたワイセンベル
クでこそ真に実現されていると思うのだ。
ただ最後にサンソン・フランソワのピアノについてひと言つけ加えたい。たしかにワイセンベルクによってドビュッシーのピアノ音楽の素晴らしさを知ったの
であるが、好き嫌いを基準にして言えば、ぼくはサンソン・フランソワのドビュッシーが最高に好きである。あの音色もフレーズも、そのセンスも、フランスも
のでは最高に好きなピアニストである。彼の演奏については、いずれラヴェルのピアノ曲集のところで取り上げるつもりだ。
(2016/04/07)
ページトップに戻る
トップページに戻る
フランスものが続いているが、フランスものの中でも文字通り愛聴盤といっていいのが今日取り上げるワイセンベルクの
弾くドビュッシーのピアノ曲集であ
る。もう随分昔になるが、初めてこれを手に入れたとき、僕には衝撃的でさえあった。
もちろんそれまで、いろんな機会にドビュッシーに触れてはいた。はじめてドビュッシーを知ったのは中学のときだ。大阪音楽大学の学生さんがいわゆる教生
として一月ほど音楽の授業に来てくれた時のことである。教生は女の先生で、美しい人だった。音楽について語って下さる姿も、その内容も素晴らしかった。中
学生になって音楽に夢中になり始めていた僕には、
音楽について語って下さる姿も、そのピアノの演奏も全てが美しかった。その先生がお別れの日にショパンの「幻想即興曲」とドビュッシーの「月の光」を弾い
て下さったのである。その演奏は、先生の醸し出す姿と重なって、何か痛々しいほどの美しさを僕に感じさせた。昭和28年か29年のことで、まだ焼け跡が、
そこここに残っていた頃のことである。
その次の日から僕はこの二つの楽譜を買い求めて毎日練習した。この夢のような曲が自分で弾きたかったのである。しかしピアノは家にあっても、自分勝手に
ソナチネまでやって来た我流の少年には、とても無理だった。とくに幻想即興曲の方は、左手が6連音符の伴奏を弾きながら、そこに8連音符の旋律をはめ込む
事はどうしても出来なかった。中間部のゆったりした旋律のところだけを弾いて満足するしかない。それに比べると「月の光」の方がまだしもだった。高校生の
頃にはともかく「月の光」をよく弾いた。絶対にどこかで間違うのだが、ただドビュッシーの音に触れているのが嬉しかったのである。
そういういわば片思いをドビュッシーに抱いて青年時代を過ごしたのだが、そうかといってドビュッシー音楽のエッセンスというか全体像が僕の中にあったわけ
ではない。「月の光」だけが特別の存在としてあったにすぎない。そういう僕にとってワイセンベルクの弾くドビュッシーは文字通り衝撃的な姿を現したのであ
る。それは「版画」や「子供の領分」、「ベルガマスク組曲」などの入った一枚のCDである。それもたかだか20年前ぐらいの事ではなかっただろうか。定か
なことは覚えていないが、ワイセンベルクの弾く曲集は、ドビュッシーがモーツァルト以来の真の天才であることを僕に教えたのである。
モーツァルト以来の天才という意味は、端的にいえば、どちらも音が音を呼ぶという事である。そこにいわば文学的夾雑物がない。妙な思想性やメッセージ性
もない。いや、そういってしまうとちょっと嘘になる。そういうものは確かにある。あるというよりドビュッシーほど、そういうもので音楽が飾られている作曲
家も他にないと言っていいほど彼の音楽は、文学的、絵画的夾雑物に満ちているという事さえ出来る。にも拘わらず彼の音楽は、ひたすら前の音が次の音を生み
だし、音自身の展開する喜びが全てを支配している。
このパラドックスというか、からくりを説明するにはこの一回のエッセイでは無理なので、もう一回続編を書くが、ともかくドビュッシーのそう
いう音が音を
呼ぶ素晴らしさを僕に教えてくれたのがワイセンベルクなのだ。ドビュッシーのもつフランス的エスプリや即興性という点ではアースやサンソン・フランソワに
劣るかもしれないが、アナリーゼ(分析)の行きとどいた論理的とも言えるワイセンベルクの演奏こそ、ドビュッシーの音の意味を語り尽くしてくれるように
思ったのである。
(2016/03/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
フランスものの演奏会でもっとも印象的な演奏会は、アンドレ・クリュイタンス率いるパリ管弦楽団によるものだった。大阪のフェスティヴァル・ホールでの
ラヴェルの「ダフニスとクローエ」の演奏会である。それは僕が学生か院生のころ、もう50年以上前のことだ。
戦後ピアニストやヴァイオリニストなど、さまざまな演奏家が海外からやって来たが、彼ら誰もが日本人にとって初体験とも言うべき鮮烈な感動を与えつづけ
た。なかでもオーケストラはそれぞれに、これぞオーケストラだといわんばかりの衝撃をあたえたのである。その中の一つにクリュイタンスのパリ管があった。
それは僕にとっては驚天動地の驚きと感激だった。もう死んでもいいと思ったほどだ。
でもこれでは何を語ったことにもならない。ともかく冒頭のオーケストラが鳴り始めたとき僕を包んだオーケストラの響きを忘れることが出来ない。何がこれ
から現れるかもわからぬ朦朧としたオーケストラのざわめきの中から、いつとは知れずコントラバスの旋律が姿を現し、それは次第に高音の弦楽器に受けつがれ
てはっきりと形をなしたとき太陽が地平に姿を現す。されば木々も目覚め、木の葉がキラキラと輝きそよぎ始める。小鳥も囀り始める。その朝霧が晴れゆく中で
ダフニスとクローエは目覚める。二人が立ち上がったとき、森のすべてが目覚めるのだ。それは二人を祝福するというよりも、二人が森の自然の一部として共に
目覚めるのだ。オーケストラの全ての楽器がクライマックスに達したとき、シンバルが砕け、ハープもトランペットもヴァイオリンもコントラバスも全てが大音
響の中で溶け合い砕け散る。大筒の花火があらゆる色彩をまき散らしながら砕け散る。ホールも砕け散る。その火の粉を浴びながら、さながらイカロスのように
僕は昇天したかった。
これは一体何なのか。これは官能の世界だ。これこそ官能の喜びであり、死の喜びではないのか。
ラヴェルは最も知的に、最も人為的に音楽を作った人だ。その知性ゆえに野蛮になる事さえ出来ない。それ故に彼はまた意図して野蛮になろうとさえした。
「ボレロ」のフィナーレ、この「ダフニスとクローエ」の終結部のバッカナール、「ラ・ヴァルス」の狂騒、それらは彼の野蛮への試み、滑稽とも言える試み
だ。その中に見えるギャップはどうしようもない。そういうものとしてこれを許し、楽しむ他ないものだ。
しかし彼の最高の作品は彼の優雅この上ないセンスが、そのセンスゆえの官能性を醸し出す。それは最も洗練され、知的であるがゆえに生まれてくる官能美
だ。例えば万葉から古今、新古今と詩歌の精神が洗練され、知的になるに応じて生まれて来た官能美と同様のものだ。官能は最も根元的な人間感情でもあり得る
が、ここでの官能美は、精神が深く広がりゆくときにその広がりゆく事自身に精神が快楽を見いだすことだ。その事自身が精神自身を陶然とさせ、うっとりとす
る快楽を生み出す。それは一巡して、性の究極と一致するに至る。そのとき人は死んでもいいと感ずる悦びである。それは三島由紀夫の官能美に通じているとも
いえるだろう。
しかしそれほどの知的快楽を生み出したラヴェルも晩年は認知症に陥って生涯を終える。人の儚さを知らされる話だ。しかしそれ故のかけがえのない素敵な一
瞬をラヴェルが、そしてクリュイタンスが僕に教えてくれた。僕が死にたいと思ったのは多分、そういう究極の快楽の一瞬に触れたからであろう。
(2016/03/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
かなり前のことだが、六甲男声合唱団でフォーレのレクイエムの男声合唱版をオーケストラ付きで指揮するする機会があった。そのとき僕が何回も聴き込んだ
のがガーディナーによる演奏である。今回はその話をしたい。
この話が決まったとき、5,6種類のCDを聴いてみた。どれももちろん混声合唱のものであるが、アンドレ・クリュイタンス、デュトワ、チェリビダッケ、
カルロ・マリア・ジュリーニ、小澤征爾など、まだ他にも名前の知らない指揮者のもあった。
とにかくこれら錚々たる指揮者の中からどうしてガーディナーを選んだかというと、一つは、僕らが使った低弦を主体とした「初版」(1893年)をガー
ディナーも使っていたからだ。それ以降の版は、オーケストラにヴァイオリンを加えた大編成になっていくのに対して、この版は、ヴァイオリンのソロパートを
別にすれば、ヴィオラが弦の最高音域のパートとなっている。僕が実際にオーケストラを振るときの楽器のイメージがこれではっきりつかめるからだ。
ところがもう一つ理由があって、幸いなことにこのオーケストラ編成のガーディナーの演奏がずば抜けていいという事がある。どこがいいかというと、フレー
ズ感覚が抜群である事と、スコア(オーケストラの総譜)が、まるで目に見えるような明快な演奏であるという事である。世界に冠たる指揮者は、この点いずれ
も優れているが、フォーレのレクイエムに関してはガーディナーに止めを刺すといっていい。
クリュイタンスはラヴェルを振らせると天下一品だが、レクイエムでは合唱団があまりに下手でどうにもならない。独唱だけはルチア・ポップとフィッ
シャー・ディースカウを揃えて、それこそ他の追随を許さないのに、合唱がまったく駄目なのだ。クリュイタンスともあろう者が、どうしてこれを許しているの
か理解に苦しむ。デュトワは可もなく不可もなしという演奏。チェリビダッケはやはり様式感覚に欠ける。カルロ・マリア・ジュリーニになると尚一層そうで、
「レクイエム」はこのように、静かに穏やかに秘めやかにやるものだと、彼の声が聞こえてきそうだ。しかしやりすぎなのだ。小澤征爾も別の意味で、抒情にの
めり込んでしまって様式感覚に欠ける。
その点でガーディナーは様式感覚がいい。充分豊かな情感を持続させながら、しかも締めるところは締めている。起承転結が鮮やかだ。にもかかわらずフォー
レのレクイエムにある独得の官能性を見事に表現している。モーツァルトのレクイエムが人間自身の神への恐れや怯え、憧れを如実に表現しており、それゆえに
人間自身の深淵を覗かされるようなおどろおどろしさがあるのに対して、フォーレこそ神の世界、神の清浄な世界を表していると僕は思う。しかしそれがフォー
レという人間を通して歌われたものであるかぎり、それは人が感じる官能的とも言える至福の感情でもあって、一つ一つのフレーズ、その一瞬、一瞬の響きがま
さに官能的な幸せを表している。
それを表現し切ったのがガーディナーだと僕は思う。それが可能になったのも、多分彼がモンテヴェルディ合唱団という、音楽性も技術も兼ね備えた合唱団を
採用したからであろう。実際彼らの演奏は見事である。フレーズ感覚といい、ピッチ感覚といい申し分ない。もし文句をつけるなら、レクイエムにしては「歌い
すぎ」だと言えなくはない。もう少し典雅というか、素朴さが欲しいという気がしないでもない。しかしあれほど美しく歌っているのに、何の文句があろうか。
(2016/02/20)
ページトップに戻る
トップページに戻る
シューベルトの本を書いている時に何度聞いたか分からないほど親しんだのが、今日取り上げるツァッカリアスによるシューベルトのピアノソナタである。
シューベルトの音楽はやたらと冗長なところがあるという点は評論家がよく指摘している。僕も同感で、とりわけピアノソナタにその感が深い。ソナタ形式で
さえ同じメロディが何回も出てくる。しかもどこかにクライマックスがあるわけでもないとなると、皮肉と愛情を込めて「あんたも好きね!」と言ってやりたく
なる。しかしシューベルトを書くにあたって、いろいろ聞いていくと、そういって片づけられない素晴らしいものがある事が分かってきたのである。それを教え
てくれたのがツァッカリアスの演奏だ。
シューベルトは三一歳で亡くなる直前に、わずか数週間で19番から21番のピアノソナタ三曲を書き上げている。それを何度も聞くうちに、ついに冗長とい
う感じが全くなくなって、終わるのが惜しいような気持で聞くようになったのである。
実は僕は「シューベルトとシューマン」を書くに当たって、これを「軌跡シリーズ」の一環として、これまでと同じように弦楽四重奏曲を中心にそれぞれの作
曲家のエッセンスを取り出すことを考えてスタートしたのである。ところがシューベルトが成人してから書き上げた四重奏曲は『死と乙女』や『ロザムンデ』を
含めて、三曲しかない。しかもそれらの曲は、何かしら吹っ切れないままに終わっている。それはいうなれば嘆き節に終わっているからだ。
もともとロマン派の特徴の一つが嘆き節であるとすれば、シューベルトの曲がそうであっても不思議はないが、文字通り天才と呼びうる大作曲家は必ずそれを
越えたものを持っている。古典派に比べてロマン派の特徴が、「自分一人が何故こんな目に遭わねばならぬのか」といった自閉的嘆きにあるとしても、作曲家は
そういった個人の嘆きを普遍的な人間の不幸にまで高めた何ものかを獲得しているとも言えるのである。それを獲得したとき、彼らは歴史に名を残す大作曲家に
なった。シューベルトの作品で言えば『未完成』交響曲がいい例だ。
しかもシューベルトはこの3曲のソナタによって、人の悲しさを歌うところから、更にもう一歩踏み出したところまで来ていた。彼が人生の悲し
さを否定した
というのではない。人の悲しみは、まるで通奏低音のようにいつもシューベルトの音楽を流れている。しかしその感情が純化されるにしたがって、悲しみを歌う
ことの快楽が生じてくる。悲しみを歌う快楽とは形容矛盾のように聞こえるかもしれないが、悲しみを歌う芸術は、実は悲しみを歌うことの感動、その喜びから
生まれたものだ。
悲しみそのものがすでに救い、癒しの感情であることはベートーヴェンの本で書いた。ここで詳しくは書けないが、端的な例をあげるなら、涙が孕む甘さはそ
の事を示している。純化された悲しみとは、不条理への怒りを脱し、どうにもならない己れを限りなく愛おしむに至ったその感情のことであり、それゆえ悲しみ
とは愛のことであり、それは精神の悦びをもたらし、創造の喜びをもたらす。仏教の「悲」は、慈しみ愛おしむ事を意味しているではないか。だから悲しみを歌
うことが精神の快楽ともなる。だから本人にとって救いにもなるのだ。
シューベルトはそこまで来たのである。そのとき、シューベルトはついに本物の芸術家になった。それを示しているのが最後の三つのピアノソナタなのだ。
ツァッカリアスのピアノはその事を僕に教えてくれた。シューベルトのピアノソナタと言えば、シューベルトについての随筆も書いた小説家でピアニストのア
ファナシエフのものが有名である。しかし実際の彼の演奏は思い込みの勝ちすぎた、説明過多のピアノで僕は好きになれない。それに比べてツァッカリアスのピ
アノはシューベルトの精神の悦びを必要にして充分に表した名演だ。
(2016/01/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ここのところ弦楽四重奏団が続いているが、僕がまさに愛聴して来たものとしてもう一つアルバン・ベルク・クヮルテットがある。もう解散したこのクヮル
テットはデビューして間もく大変な評判をとって、あっという間に世界のトップレヴェルのクヮルテットとしての地位を確立した。実際に聴いてみると、これま
でのクヮルテットではとてもかなわないと思うほど、それは凄い技術を持っていた。アンサンブルも素晴らしかった。これ以上望めないと思うほど凄かった。
しかしながら僕は彼らのモーツァルトには馴染めなかった。彼らはさすがにウィーンの教授たちが集まったものだけに、ウィーンの伝統を過不足なく持ってい
るのだが、それでもモーツァルトということになると、前回に書いたウィーン・クヮルテットの方が香りがある。何かしら楽しむ余裕があるのだ。そしてまた
ベートーヴェンになると、僕は若いときからバリリ・クヮルテットを聴いて育ったから、彼らのテンポが速すぎて、馴染めなかった。バリリに比べると録音もい
いし、技術的欠陥など微塵もない。まさに完璧といっていいのだが、それではあのフレーズの味わいが出ないではないか、と思う事もしばしばあった。
ところがベートーヴェンの本を書くことになって、毎日、車の中で聴くにはCDしかない。当時CDでベートーヴェン全集を出しているのはアルバン・ベル
ク・クヮルテットしか知らなかったため、これを毎日聴くようになった。そして次第に、彼らの演奏の凄さにはまり込んでいったのである。とくにベートーヴェ
ンの晩年の作品がそうである。
例えば中期の作品である『ラズモフスキー』の三部作であれば、今でもバリリの方が好きだ。アルバン・ベルクでは速すぎる。第一番の第一楽章など、初めて
アルバン・ベルクを聴いた時など、「これはひょっとしたら、2分の2拍子だったのか」と楽譜を見直したぐらいだ。やっぱり4分の4拍子だったのだが、彼ら
の演奏はまるで2分の2拍子のように速い。それではチェロのあの図柄の大きさが、もう一つ出てこない。偉大な人格のみが生み出すことの出来る優しさや大き
さが出て来ないのだ。あるいは第二番の第一楽章8分の6拍子も、いわゆる8分の6拍子のもつ余裕のある、そしていくらか優雅な拍子感覚に乏しい。『ラズモ
フスキー』3部作の次の作品である『ハープ』も同様の思いをした。しかしながらその次の『セリオーソ』から断然良くなってくる。『セリオーソ』は彼らの緊
密なアンサンブルと輝かしい音色が、ピタリと決まっている。とりわけこの曲のもつ斬新さを見事に表現している。21世紀の今でも斬新な音楽であることを僕
らに教えているのだ。
そして圧巻は第一二番から第一六番に至る晩年の四重奏曲である。どれを取り上げても凄いの一語につきる。第一二番の第二楽章「主題と変奏曲」、第一三番
の第五楽章「カヴァティーナ」、それに第一四番の第四楽章「主題と変奏曲」、これらは歴史的名演と呼んでいい。それにあの『大フーガ』などは、今後もこれ
ほどの演奏は出ないだろうと思うほど感動的なものだ。僕はこれら晩年の作品を何度聴いたか分からないほど聴いた。彼らの演奏と共にベートーヴェンの晩年の
辛いときを何ヶ月も共にすることが出来たといっていい。
そのおかげで僕はベートーヴェン論を書き上げることが出来た。最初疑問をもって彼らの演奏を聴き始めた僕だが、彼らの演奏のおかげで僕はベートーヴェン
の晩年の中にとっぷりと入っていくことが出来、彼らによって僕はベートーヴェンの壮絶といっていい晩年を知ることができたのである。
彼らが来日したときは、大抵聞きに行ったが、やはりいずみホールでの「さよなら公演」は印象的だった。そのことも付け加えよう。ぼくは最前列で聞いた。
彼らと一緒に弾いているつもりになって、とりわけぼくも弾いてきた第二ヴァイオリン奏者になったつもりで聞いた。そして拍手しながら確信した。最後のアン
コールは絶対、あの十三番の「カヴァティーナ」だと。
その最初の和音を聞いたとき、体が震えた。思わず拳を握っていた。これしかない。長年の自分たちの活動に「さよなら」を云うなら、彼ら自身がこれを弾き
たかったに違いないのだ。CDで彼らのフレージングはすべて身に染みて馴染みのあるものなのに、涙が溢れて止まらなかった。ベートーヴェンの哀しみも自分
の悲しみも一緒になって体に溢れた。
終わって彼らが前列に出てきてお辞儀をしたとき、どういうわけかセカンドヴァイオリン奏者が僕の目を見つめて頷いてくれたのが忘れられない。彼は弾きな
がら僕が涙を流し続けていたのに気づいていたに違いないと思った。最前列にいたからそういう幸運に恵まれたのかもしれないと思ったが、じつは素敵なカル
テットが来たときは、いつも最前列で聞くのが通例で、そのとき僕は、セカンドヴァイオリン奏者がぼくの代わりに弾いてくれている気分になる。それが素敵な
カルテットを聴くときの醍醐味なのは今も変わらない。彼らはそういう最高の時を僕に与えてくれたのだ。
(2016/01/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
シューベルトといえば、何と言っても歌曲作曲家としてのイメージが強い。しかし彼は15曲もの弦楽四重奏曲を書いている。その全曲を収録したものに
ウィーン弦楽四重奏団のものがあって、それが素晴らしい。今日はその事について書こう。
とは言え、15曲にも及ぶシューベルトの弦楽四重奏曲で良く知られ、また演奏されるのは13曲目の「ロザムンデ」と14番目の「死と乙女」ぐらいで、あ
とは殆ど知られていない。そうなってしまったのには、それ相応の理由もあって、一般には11番まではシューベルトの習作と見なされているからだ。
しかしながら彼の1番を初めとして、習作と呼ばれている作品は演奏会に充分耐え得るものだ。たしかに習作と呼べなくはないのだが、驚くべき事は、それら
が十代半ばから後半にかけて作られており、それはモーツァルトの若いときの「ミラノ・セット」と「ウィーン・セット」の作曲年齢とほぼ一致している。のみ
ならず、モーツァルトの同年代のこれらの作品より完成度が高く、なおかつどの作品もインスパイアーされた精気を孕んでいるということなのだ。モーツァルト
のものより遙かに優れている。
どの作品をとっても良くできていて、そこにはジョークがちりばめられていると同時に音楽を作る喜びが満ちている。しかも20代以降のシューベルト特有の
嘆き節は見られなくて、きわめて上質のロマンティシズムが脈打っている。天才の輝きがある。シューベルトはどちらかというと短編作家で、歌曲で有名だが、
これらの作品はシューベルトが若いときに、古典派の器楽曲の精神と作曲法を充分身につけていた事を教えているのだ。
ではその先生は誰だったのか。彼が愛してやまなかったモーツァルトなのか、それとも尊敬してやまなかったベートーヴェンなのか。いずれでもないのだ。彼
の若いときの弦楽四重奏曲を聴いて如実に分かるのは、それがハイドンだったということである。
もちろん彼はハイドンに会っていないが、彼が父親や兄弟と共に、小さい時から家の中でクヮルテットと楽しんだとき、最も皆の気に入ったレパートリーがハ
イドンのクァルテットであったに違いない。それは聴いてみれば分かる。実を言うと、これら初期の作品は、どれもハイドンの作品と言われても気がつかないほ
どハイドンのスピリットに溢れている。それ故に、これらの作品は習作だと呼ばれているのだが、実はよく聴くと、とりわけ6番あたりから紛れもないシューベ
ルトが顔をのぞかせている。その気になれば1番からでも彼の音を聞き取る事は出来る。「これ、本当にフランツが作ったの?」と兄弟たちが驚喜したにちがい
ない、そういう兄弟や父親の気持ちまで伝わってくる。そう思わせるほど、どの曲も、どの楽章も、青年の創作の喜びを伝
えているのだ。
実はシューベルトの父はアマチュアのチェリストで、こよなく音楽を愛し、子供たちにヴァイオリンを習わせて、早くからカルテットを家族みんなで楽しんで
いた。そしてシューベルトが中でも才能に恵まれていることに気づいた父は、シューベルトを11歳の時コンヴィクト(首都神学校)に入学させ、すぐステファ
ン教会の少年合唱団(今のウィーン少年合唱団)のメンバーに選ばれる。のみならず彼の才能に気づいた学校は、彼に特別の音楽教育を与えるのである。寮生活
をしていた彼は、16歳で声変わりのために学校を中退するが、それまでの間に彼は6番までのカルテットを書き上げ、そのたびに家に持ち帰って父や兄弟を驚
喜させたのである。
シューベルトはその短い晩年になってから、彼の兄がこれらの作品への愛着を語ると、彼は、それらをつまらないものだと答えたという。彼にすればそう思え
ても無理はないが、僕は彼の兄の言葉と同じ愛着を感じるのだ。とりわけ8番と9番がいい。ウィーン・クヮルテットの連中は、そういう青年シューベルトの創
作の喜びを見事に伝えてくれる。考えてみれば、ウィーン音楽の最高の体現者であるシューベルトの音楽をこれまた最高にウィーンの伝統を身につけたクヮル
テット奏者が演奏しているのであるから当然ではあるが、彼らの演奏はシューベルトの心の軌跡を僕に教え、親しいものとしてくれた貴重なものだ。
(2016/01/01)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ここらで僕の長年親しんできた弦楽四重奏のCDの代表格といっていいハイドンのクヮルテットをとりあげたい。それはもうずっと以前に廃盤になったイギリ
スの弦楽四重奏団エオリアン・クヮルテットによるものである。
今ではエンジェル弦楽四重奏団を初めとして色々出ていると思うが、以前は80曲にも及ぶ全曲を収録したものといえばエオリアン・クヮルテッ
トしかなかっ
た。六曲ワンセットにしたものは色んなクヮルテットの演奏が出されているが、全集となるとこれ以外にはなかったのである。
ところでエオリアン・クヮルテットであるが、録音はよくない。のみならず演奏も世界の超一流のクヮルテットに比べると見劣りがするといってよい。第一
ヴァイオリンのテンペラメント(気質)や音色がとりたてていいわけでもないし、アンサンブルの響きが素晴らしい訳でもない。どの点をとっても、市販されて
いるクヮルテットを聞くと、どこか優れた点があるのに、エオリアンにはそれがないのである。にも拘わらず僕は彼らの演奏が一番気に入っている。何よりいい
のは、どのフレーズに対してもそれぞれの奏者がハイドンへの愛情をもって弾いている点である。いや愛情という何か一般的な感情であるよりは、個々のフレー
ズに対する愛着を感じさせる。ではその愛着はどういうものかという事だが、この点は、ハイドンその人、あるいは作品そ
のものを語る以外に説明のしようがない。
たとえば、単に「素晴らしい」とか「楽しい」とか「面白い」という事だけでは、愛情はあっても愛着までは生まれない。彼のジョークも知れば知るほど分
かってくるものではあるが、単にそれを喜んでいるだけでは駄目だ。その背後にハイドンという人となりが感じられるようにならなければならない。あのロマン
ティシズムもジョークも、時にぬけぬけと見せるセンチメンタリズムも、全てある統一されたハイドンという人格から生まれているのだが、かといって彼が単に
人格者であったという事でもない。彼は平気で自分を馬鹿に出来た人だと思う。単なる狂気をはらんだ革新的作曲家というだけでもない。モーツアルトに比べて
も彼は極めて実験的、革新的な作曲家であったが、同時に彼は長年「宮廷楽長」としてエステルハーツィ侯爵に仕えながら、
宮仕えの仕事を見事にこなし、楽団員の心を掌握しながら膨大な作品を書き、オーケストラを指揮し続けた。腹立ちまぎれに大司教と大喧嘩してザルツブルクを
出たモーツァルトと大違いだ。そしてまた終生、女を愛し続けた。女に子供が出来ると、誰憚ることなく自分の子供と認知し、面倒を見続けた。他に女が出来
て、その人に愛情たっぷりの作品を作り、手紙を書きながら、件の女には、「二人とも、連れ合いが亡くなったときには、結婚しよう」と約束を交わしている。
要するに、奥さんへの義務はさておくとして、世間の義務はちゃんと果たしながらしかも自由に、そして背筋をまっすぐ伸ばして生きていた人だ。こんな友人
は素敵だ。彼の作品の全てがそれを語っている。つまりこういう史実を知らなくとも、ハイドンの作品からそういう事が感じられないと彼の作品の素晴らしさが
分からない。泣き言を並べたり演説したりするロマン派の作品とは全く違うのだ。
という事で、エオリアンのメンバーはどうやらそれを知っていたと思えるのだ。これに比べたら、他のクヮルテットは駄目である。真面目過ぎたり、情熱的過
ぎたり、間が抜けていたり、ユーモアを解しなかったり、ああ、どうして君たちはハイドンという人が分からないのかと、つい愚痴が出てくる。彼の人としての
余裕、ユーモア、ウィット、情の深さ、知的なバックボーン、ホロッとさせるあの抒情性、そして女好きを臭わせる旋律、こういったものが分かって演奏してい
るのは他にウィーン・コンツェルト・ハウスぐらいのものだろう。 (2015/12/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今回はちょっと変わったCDをとりあげたい。レハールの「メリーウィドウ」である。このオペレッタはJ.シュトラウスの「蝙蝠」と並んでオペレッタの二大
傑作とでも言えるものであるが、実際にはヴィリヤを含むいくつかの曲がよく知られているだけで、オペレッタの上演もそれほどないから全曲を聴くことも滅多
にない。
ところがもう何十年も前のことだが、僕のやっている男声合唱団で、この中の名曲をメドレーにした編曲ものを取り上げることになった。それでたまたま見つ
けたのがガーディナーが指揮するウィーンフィルのCDである。参考のつもりで購入したのであるが、その素晴らしさに仰天した。
ガーディナーは僕の大好きな指揮者の一人だが、オペレッタにこのような才能を持っていることが驚きだった。僕がそれま
でに持っていた彼のCDはヘンデル
のメサイアの抜粋だったが、その演奏は全般にヘンデルのスタイル感覚に優れ、「こうでなくちゃあ」という箇所にいくつも出くわす。にもかかわらず所々、変
な解釈をするというのが僕の印象だった。最近手に入れたシューベルトの合唱曲やフォーレのレクイエムでも同様で、全く文句なしに素晴らしい所と、その彼が
どうしてそんな事をするのかという所が同居している。その点は未だに不可解なまま残っている。
ところがこのオペレッタは隅々まで素晴らしい。凄い!という感じだ。何よりも華やかでしかも洗練されたリズム感が凄
い。こういうオペレッタは実はカラヤ
ンが一番だと思っていた。カラヤンの最高の持ち味は実はシンフォニーよりはオペレッタによく発揮されると思っていたのだ。彼の音楽性がそういうものにピタ
リなのである。ところがガーディナーはもっといい。歯切れの良さが抜群で、しかも流れがいい。この二つが見事に融合している。だから華やかであると同時に
優雅で、尚かつ歯切れがいい。それは多分ウィーンフィルを得たためだと思うが、逆に言うとウィーンフィルをこれほどまでに満足させた指揮者もそうそういな
いのではないかと思う。こんないい気分で弾かせてもらって有り難うと云う団員の声が聞こえて来そうな演奏だ。
そういう全体の素晴らしさに加えて、歌手がまたいい。男声陣もいいが特に女声のヴァランシエンヌ役を歌うバーバラ・ボニー、それにハナ役のシェリル・
シュトゥーダーは出色だ。そして例の「リッペン、シュヴァイゲン」の有名な三拍子のメロディが弱音器をつけた弦楽で流れ始めると、もう夢の世界である。こ
のまことにダサイともいえる愛の旋律が何と優雅に流れて行くことだろう。もともとウィンナワルツというのは、大太鼓と小太鼓がドンシャカやる田舎臭さとあ
の優雅な旋律が微妙に組み合わさったものだが、この田舎臭い優雅さの極地が「リッペン、シュヴァイゲン」のワルツではなかろうか。
ともかく誰でもいいから聴いてみて下さいと言いたくなる演奏なのだ。それは19世紀のブルジョワや生き残りの貴族が楽
しんだ一時の享楽の世界かもしれな
いが、こんな素敵な気分にしてくれるのなら、そういう小言はどうでもよくなる。とりわけメリーウィドウその人であるハンナとダニーロの密会の場面は最高
だ。まさに「密会」という言葉の持つ気恥ずかしさとスリル、その悲しくも甘い旋律、そして田舎臭いドンチャン騒ぎが来る。こんな洒落た世界はそうそうお目
にかかれないのだ。
まあ一度お聞き下さい。
(2015/11/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
も
う何十年も前、ジェッシー・ノーマンのステージを見たことがある。そ
のとき印象に残ったのは何といってもスピリチュアル系の歌と、これ
と全く対極的な
ラヴェルの歌曲だった。スピリチュアルがいいのは黒人歌手として当然だが、ラヴェルの歌曲の洗練された歌唱にも感動した。そしてそういう歌全体をとおして
最も印象深かったのはその圧倒的な存在感だった。歌も人間も、何かしら聴く者を圧倒する存在感がある。大きさがある。その彼女がブラームスを歌っている。
ブラームスの歌曲は一般にはあまり親しまれていないが、実はブラームスのロマンティシズムが最も素直に出たジャンルでもある。ブラームスの代表的な作品
はいうまでもなく交響曲だが、室内楽も同様によく親しまれている。そしてそこに見られるブラームスはベートーヴェンを師と崇めた彼の態度を反映していて、
ロマン派の中ではとりわけその重厚な構築性が印象深い。しかしそこには同時に独特の、ある意味でくだくだしいまでの情念と、それにのめり込んではならぬと
いう自己規制があって、その葛藤が彼の音楽の魅力であると同時に鬱陶しさの原因ともなっている。少なくとも僕にとってはそうだ。
とこ
ろが
ベートー
ヴェンの呪縛から逃れたときのブラームスの素顔をみると、
これがまた実に素直なロマンティストである事が分かる。それを教えるのがいく
つかの室内楽と歌曲である。とりわけ歌曲がそれを感じさせる。
そも
そもブ
ラーム
スが作曲家としてスタートしたとき、名もなき若者として彼
はシューマンの家を訪れる。そのときシューマンはブラームスの楽譜を見て驚き
の声をあげたのである。すごい若者が現れた、と彼はクララの部屋に飛んでいく、そして一緒にブラームスのピアノを聞くのである。それから、シューマンはブ
ラームスの面倒を見続けたし、シューマン亡き後、今度はブラームスがクララの面倒を見、クララの支えになったのは周知のことである。つまりブラームスが独
自の個性を持った人であるのは当然としても、彼は心の底からシューマンという究極のロマンティストのもとで作曲を始めた人だったのであり、彼がシュー
マンから受け継いだロマンティストとしての世界は紛れもなく彼の生活そのものを浸していたといってもいい。そういう彼が歌曲に向かったとき、それはまさに
ロ
マン派の愛の歌として流れ出すのだ。
僕の
CDに
収めら
れているのも殆どが愛の歌であるが、愛らしいもの、軽妙な
もの、あるいは情感が溢れだしたもの、あるいは悲しみが深く歌われたものな
ど、どれもいい。しかも彼自身の民謡への好みからか、殆どの歌曲が有節歌曲(同じメロディを何回も繰り返す歌曲)の形式をとっている。だから安心してその
情感に漂うことができる。
ジェッ
シー・ノー
マンはそういったブラームスの趣を実に上手く表現してい
る。そのうえソプラノとはいえ、メッツォ・ソプラノのような厚みのある声がブ
ラームスの重厚さにもぴったりマッチしている。その点がもっともよく発揮されているのが、ピアノとソプラノにヴィオラを加えた作品91の「鎮められた憧
れ」と「聖なる子守歌」だ。この2曲は、おそらくこれ以上は望めないと思えるほどの絶品である。あの豊かなジェッシー・ノーマンの声に乗って、ブラームス
の深い情念が浄化されたと思えるほどの豊かな旋律となってあふれ出す。それがヴィオラと溶け合うように歌われるとき、例えば「聖なる子守歌」で嬰児(みど
りご)イエスを気遣う気持が、クリスチャンでない僕にも深く伝わってくる。それは豊かな音楽だ。ジェッシーの存在の大きさが、そういう人間感情の大きさと
なって僕らを包むのである。
ピア
ノを受
け持っ
ているのは、指揮者としても活躍しているバレンボイムであ
るが、彼のピアノもさすがである。指揮者ともなった彼は、やはり音楽をよく
知っている。ブラームスはどの作品も実に入念に仕上げているが、その全体構造を見事に捉えた演奏をする。その点ではこれまで何回か出てきたピアニストの
パーソンズの一枚上手だ。その点も特筆すべきであろう。
ブ
ラームス
の歌曲
で最後に付け加えたいのは、シュテファン・ゲンツというバ
リトン歌手が出している民謡集である。その素朴さと優雅さは、ブラームスの歌
曲CDとしては出色ものである。 (2015/11/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
僕
がシューマンの歌曲の洗礼を受けたのは何と言ってもフランスのバリト
ン歌手、ジェラール・スゼーの「詩人の恋」だった。大学生の頃、心
斎橋の日本楽器
でセールのレコードを偶然手に入れてから毎日のように聞いた。その時すでに手に入れていたフィッシャー・ディースカウの「冬の旅」と「美しき水車屋の乙
女」と並んで僕の三大歌曲集になって、ピアノをまさぐりながらよく歌ったのである。 そして「詩人の恋」になるとフィッシャー・ディースカウもスゼーには
かなわないと思った。そのビロードのような音色とデリカシーがまさっていると思ったのだ。しかしそのスゼーのレコードも紛失して何十年もたってから素晴ら
しいバリトン歌手が現れた。それがオラフ・ベーアというバリトン歌手である。
僕が
知った
のは二
十五年前ぐらいだろうか。シューマンのリーダークライス作
品24と作品39を入れたCDである。車の中で第一曲のMorgens
steh' auf
(朝、起きあがると)がピアノの前奏に導かれて流れ始めたとたん僕は背筋がゾクッと来るような美しさを感じた。ディースカウでもスゼーもでない。品性が高
くてなおかつある種の肉感性を感じさせる音色、それがどのようなフレーズであろうとも、一瞬一瞬に変化する細やかなニュアンスの変化を感じさせる。しかも
大きなフレーズの形を決して過つ事がない。第五曲Schoene Wiege meiner
Leide(悲しみの揺りかご)など、僕の体が実際に震え出したのではないかと思うほど、その美しさに心が打ち震えた。
こう
いう風
に言う
と、ディースカウもそうではないか、と言われるかもしれな
い。たしかにディースカウもその点完璧といってよい。僕もベーアを聞くまでは
そう信じていた。とくにフレージングの完璧さは古今東西だれも実現できなかったことを彼はやり遂げている。しかしディースカウを厭と言うほど聞いてから
ベーアを知ると、ディースカウの完璧主義がかえって非音楽的に聞こえるときさえある。その完璧さゆえに、誰の曲を聴いても同じように聞こえるのはどうした
訳であろうか。つまり彼の歌を聴いていると、完璧さへの配慮がどうしても先行して印象づけられて、シューマンやシューベルトという人がやむにやまれず作曲
に向かった情念がどこかで抜けてくる。もちろんこれがちょっとシビアーな見方であるのは承知している。しかしディースカウの歌を聴くと、そういう切実さよ
りは技術的な完璧さに参ってしまうという感じだ。
それ
に対し
て、
ベーアの素晴らしさはその切実さにあるといってもいい。その
切実さを感じさせるものこそ彼のドイツ語だ。彼のドイツ語の素晴らしさは人間
がコトバを発したときの感動をわれわれに伝えているところにある。ドイツ語はなんという美しいコトバか、世界で一番美しいコトバではないかとさえ思わせて
しまう。そのコトバの響きと共にシューマンの痛々しいほどの感情が伝わってくるのだ。 ああそれなのに、シューベルトの歌曲はダメなのだ。そして待ちに
待ったマーラーのオーケストラとバリトンのための「流浪う若人の歌」の実演にはがっかりさせられた。前回のボニー同様、やはり演奏家には得手不得手がある
のは、それだけその人の真実があると見た方がいいのかもしれない。だからこそ彼のシューマンは、オールマイティのディースカウよりいいのではあるまいか。
(2015/10/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今
では何度も来日して日本人のファンも多くなったが、20年以上前、僕が始
めてボニーの歌に接し始めた頃はそれほど知られていなかった。知人の歌手がヴォルフを歌うことになって、そのコーチのために初めてこのCDを知った時の驚
きが忘れられない。
その
透明で
柔らか
な声は、彼女のフレージング(歌い回し)とあいまって僕を
陶然とさせた。世の中にこのように美しい声が、そして音楽が存在するのかと思えるほどのものだった。僕は彼女によってはじめてヴォルフにもシュトラウスの
歌曲にも目ざめさせられたといってよい。僕の買ったその時のCDはヴォルフとシュトラウスを半分づつ収めたものだったが、ヴォルフの「少年と蜜蜂」、「秘
めた愛」、シュトラウスの「明日には」、「夜」など、どれもが新鮮で美しかった。パーソンズのピアノも見事だった。それまで歌曲のピアノ伴奏者といえば、
なんといっても古くからフィッシャー・ディースカウやシュワルツコップの伴奏を勤めたジェラルド・ムーアが有名だったが、パーソンズという人はある意味で
ムーアを越えたピアニストが現れたという印象を僕に与えた。これも新発見だった。ピアノそのものが遙かに美しくて多様だ。しかもボニーの感性にピタリと
マッチしている。
要す
るに僕
は彼ら
の演奏に惚れ込んでしまったのである。ではどこに惚れ込ん
だのかという事だが、それは滴るような音色とそれを惜しげもなく溢れさせるフレージングとでもいおうか。彼女は歌いながら自分の声の美しさに陶然としてい
るのではないかと思えるほどだ。だから本当言うとR.シュトラウスが一番いい。メロディラインが古典派のような様式や節度を持たず、ワーグナーの無限旋律
を取り込んだようなシュトラウスの抒情性にぴったりだ。しかもシュトラウスの場合は、抒情的でありながら、例えばワーグナーのように情念にのめり込んだ
り、あるいは演説をしだすわけでもない。その意味ではどこか覚めていて、テクニカルに走っているところさえあるし、そこまで言わなくても、のめり込まない
ゆえのスマートな抒情性がある。そこのところがボニーの声やフレージングに一番よくマッチしているのだ。
だ
からその点から見ると、ヴォルフの方は決してその本質を上手く捉えているとは言えない。音楽が流
れすぎだ。ヴォルフはもっと皮肉屋だったり、語りが音楽を支えている。ところが彼女はそういうところは一切無視して「彼女の歌」を歌う。しかしそれ故に得
も言えぬ抒情性がヴォルフの中からも浮かび上がってくる。要するに彼女は全て自分の歌にして、彼女自身の声の歓びを歌うのである。だからヴォルフの選曲も
彼女の声や抒情性にあったものしか選んでいない。自分を良く知っているのである。
とま
あそう
いう事
で、僕は何度このCDを聞いたかしれない。疲れた時が一番
で、あの大震災の頃良く聞いた。そしてある時モーツァルトの歌曲がリリースされたのを知った。歓び勇んでCDを買いに走ったのである。しかしこれには全く
がっかりさせられた。ダメなのだ。彼女には古典派の、あるいはモーツァルトの様式感覚が全くない。そのことにびっくりした。どうして彼女が!という裏切ら
れた思いがした。しかしこういう事はよくあるのだ。要するに彼女がいいのは後期ロマン派なのであって、彼女の感性がそういう所にあったのである。しかしそ
れはそれで僕らの財産を一つ加えてくれたのであって、今も僕は彼女のシュトラウスやヴォルフを聴き続けているのである。
しか
し、で
ある。
そのあと彼女の声が変わっていったことも付け加えなければ
ならない。それは彼女がオペラを歌い始めてからである。この美声を人々が放っておくわけはなかった。それからR・シュトラウスを初めとするオペラに出るよ
うになった。そしてあのしたたるような声が変質していった。オーケストラに負けない声を出そうとしたのである。そのことが声帯に大きな負荷をかけた。デ
ビュー当時から、一種の追っかけをしていた僕は唖然としたのである。
たと
えば、
R・
シュトラウスの歌曲にはいくつかオケ伴にシュトラウス自身が
アレンジしたものがあって、これを聞くと、あの彼女がどうしてこんな発声で、こんな声を出すのか、本人は一体どう思っているのか、彼女をコーチしてきた先
生はどうしてこれを放置しているのかと思う声があちこち出ている。それは単なる喉の遣い痛みではなくて声の出し方が変わっている。以前の彼女の優美な声に
比べたら、まるで吠えているのではないかと思うような声があちこちに見られる。実は、そうなってから来日したときの演奏も聞いたが、実際に聞いてみても同
じだった。演奏直後ロビーに現れた彼女に「'twas Wonderful」と声をかけたものの、
やっぱり淋しい思いをしたのである。
(2015/10/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
この曲をモーツァルト以外の作品で最初に取り上げたのは、全くプライベートな事ではあるが、曲自身が僕にとって特別の意味をもつからである。要するに、
この曲は僕が生まれて初めてプロのオーケストラ(ザ・カレッジオペラハウス管弦楽団)を指揮したものなのである。しかもオーケストラを伴う男声合唱曲とい
うことになると数も限られていて、その中でも僕が一番気に入っているのがこの曲であるのみならず、これはケルビーニのなかでも最高傑作と呼んでいい曲であ
る。その指揮を頼まれたときは歓びで体が震える思いをした。1995年のことだ。
そもそもオーケストラを振ったのは高校までで、それ以来オーケストラは、たまにエキストラをやることはあっても殆ど無縁だった。だから不安になってもいい
のに、歓びの方が遙かに大きくて、不安などどうでもよかった。この曲があまりに素晴らしくて、指揮が決まったとたんに、僕の中で次から次へとオーケストラ
と合唱が鳴り響くのだ。
ところで指揮が決まってからスコアをかかえて毎日のように聴いたのが、ムーティである。この曲のCDは他にホルストシュタイン、マルケビッチ、ヤル
ヴィ、若いときのムーティ、といっぱい出ている。しかし1974年盤のムーティは群を抜いている。ホルストシュタインには様式感覚はあるが、コーラスの扱
いがもう一つだ。マルケビッチはちょっとドンチャカやりすぎだ。ヤルヴィは様式感覚が足らない。若いときのムーティ(といっても4年の差)は音楽が痩せて
いる。
僕が新盤のムーティに惚れ込んだのは、とりわけコーラスというか、声の指導がすごかったからだ。歌の流れが流麗であるとともに重厚で、冒頭のイントロイ
トゥス・エット・キリエの心の底から湧き上がる流れの素晴らしさ、ディーエス・イレの激しさのもつ重厚さと終盤の甘えるがごとき祈り、それらすべてが感動
的なのだ。しかしそれだけではない。そもそもケルビーニが持っている古典派出身である事から来る端正さと、それでいてロマンティックとしかいえない感情の
動きをこれほど見事に融和させたものは他にないのだ。
ケルビーニが生まれたのはモーツァルトとベートーヴェンの間で、つまり古典派として成長した人である。そこで晩年のベートーヴェンはケルビーニの骨太な
音楽を愛したと伝えられている。しかしこのレクイエムはベートーヴェンの死後10年近く経ってから作られたもので、骨太であるだけでなく、ケルビーニは更
に進化を続けて、ロマン派と見まごうばかりのロマンティシズムを見せている。
古典派とロマン派の融合などといえば、一体そんな事が可能なのかと疑いたくなるかもしれない。しかしケルビーニはまさにそれをやった人で、そこがケル
ビーニの凄さだと僕は思っている。だいたいどのような作曲家でも、よほどの天才でない限り、自分の育った時代の様式を抜け出れないものだ。それが次の時代
の流れをも獲得するとすれば、並はずれた感性を必要とするに違いない。それをケルビーニがもっていた。ケルビーニの理解と演奏の難しさはそこにあるといっ
てよい。古典派とロマン派が融合したその均衡状態を過不足無く表現し、それが知らぬ間に人を感動に誘うものでなくてはならない。
ムーティこそそれをやった人である。ケルビーニが同国のイタリア人であったことがムーティにそういう理解を可能にしたのかもしれないが、僕はそれ以来、
ムーティのファンになったのである。
(追記)昨年、つまり2014年の六甲男声合唱団60周年記念でこの曲をオケ伴でやったのは、皆さんご存じの通りである。本文で書いた時の演奏は、アン
コールの会の合同演奏だったために、練習時間も満足に取れなかったし、いまDVDを見てみると、自分の指揮があまりに未熟であった事が恥ずかしい。実は、
当時も振り終わって、自分の指揮を見たとき大変ショックを受けたのを思い出す。演奏そのものはとても評判は良かったし、僕自身も歌った皆さんも実は大変満
足はしたのだが、僕自身はなんと下手な棒捌きかと骨身に応えた。自分が勝手にイメージしていた姿とあまりに違ったのだ。
これではとてもオケを振る資格などない、オケの方にも合唱の方にも迷惑を掛けたと思ったのである。それから、有名な指揮者の映像をいやというほど見た。
それで分かったのが、素晴らしい指揮者は、振り下ろす直前に、すでにダウンビートのポイントを奏者に感じさせている、だからいわゆる「早振り」をしている
ということでもある。
合唱の指揮者は、自分が振り下ろした最下点でのポイントを歌い手の拍子のポイントにするように言うが、これは間違っているということである。それでは指
揮としては遅すぎる。それでは、あらゆるポイントが指揮と合唱で同時進行(サイマルテイニアス)でないといけないことになる。そんな事を実現するには、合
唱団が指揮者と何百回も同じことをしないといけないことになる。つまりは指揮者が要らない状態になったとき、それは達成されるだろう。しかし指揮者は前の
拍、あるいは予備拍で、次のポイントを完全に感じさせないといけない。そうでないと少なくともオケの奏者は、次にどう演奏すべきか分からないのである。
まあ合唱、それもアマチュア合唱団というのは、指揮者との同時進行を目指しているから、それはそれで結構だとも言える。つまり指揮者が要らないところま
で何回も練習をすれば、合唱もそれなりに完成しているからである。しかしそれならもともと指揮者は要らなかったことになる。トレーナーが居れば充分であ
り、じじつ合唱団の指揮者は指揮者というより、トレーナーとしての能力の優れた人がいい指揮者なのである。
まあそんなことが色々分かって、それで昨年のケルビーニを迎えることが出来た。以前に比べて合唱団としては遙かに練習量を積むことが出来たし、僕自身の
振り方もある程度自分で納得出来るところまで来たように思う。もちろんケルビーニのレクイエムそのものへの理解というか譜読みも、年を経ることで進んだと
思っている。
ということで、ぼくとしては昨年のケルビーニのレクイエムは、六甲男声の歴史の中でも名演に属するものが出来たと思っている。最後は自画自賛に終わって
しまったが、僕としては、このような機会を与えて下さった六甲男声の諸兄にこころからお礼を言いたい。音楽を専門として来なかった僕が、こんな機会を何回
も与えられ、その都度新しいものを一杯学ぶことが出来たことが本当に有り難く、文字通り感謝の気持ちで一杯なのだ。
(2015/10/03)
ページトップに戻る
トップページに戻る
実はモーツァルトの「レクイエム」は、愛聴というにはそれほど回数は聴いていない。それはもちろん演奏がまずいとか、曲がもう一つといった理由からではな
い。逆にモーツァルトのレクイエムは、僕にとってあまりに恐ろしい曲であり、年一回で十分な曲だからだ。あだやおろそかに聴いて、この曲に対するあの恐る
べき感覚を少しでも摩耗させたくないからだ。
例えば最初のキリエのあのテーマを人々はどのように聴くのだろうか。若い頃初めてあれを聴いたときの事が忘れられない。あのテーマがポリフォニックに展
開し始めたとたんに、僕は得も言えぬ戦慄に襲われた。大地を揺るがすようなあの動きは、神の心をも揺るがしたのであろうかと。そもそもキリエは祈りの音楽
として定着している。モーツァルトの若いときのミサでさえそうであり、大方の作曲家のキリエは静かな祈りの音楽として始まるものと相場が決まっている。そ
れに対して彼のレクイエムのキリエは想像を絶する激しさ、いや激しさという言葉さえそぐわない、何か恐ろしいものを孕んでいる。僕にはそのようにしか思え
なかった。
それに次ぐ「怒りの日」は追い打ちをかけるように、おどろおどろしい音楽である。これこそ激しいという言葉が相応しいかもしれないが、ここでも激しさ以
上のもの、つまり「怒りの日」(最後の審判の日)とその背後にある神そのものへの怯えを人は感じないだろうか。この恐ろしさは「呪われし者」にも如実に現
れている。
ともかくレクイエムの場合、キリストに対する祈りは通常の作曲家に見られる敬虔な祈りという範疇をはるかに超えているのだ。彼の場合、それは祈りを超え
て、キリストを恐れ、キリストに訴えかけている。激しく訴えかけている。十曲目の「主、イエス・キリスト」がそうだし、最後の「アニュウス・デイ」(神の
子羊)でさえそうだ。
そうであれば「ラクリモーサ」(涙の日)は文字通り涙なくしては聴けないものだ。死の間際にあった彼が、ちょうど訪れた友人に出来上がっていたラクリ
モーサの所まで歌って聴かせたとき、彼はこの曲にいたって涙を溜めていたと伝えられている。彼はその夜に亡くなったのである。出来すぎの話だと思われそう
だが、モーツァルトの感情の振幅がどれほど大きかったか、この曲を聴けば分かる。
はっきり言えば、「レクイエム」は通常の「宗教曲」ではない。それは神を賛美した曲というより、人間モーツァルトの歌である。彼はまるで幼児のように怯
え、恐れ、憧れ、祈っている。それは人間の赤裸々な感情である。僕はこれほど人間そのものの感情を歌った曲を他に知らない。
父レオポルトやハイドンさへ引き入れたモーツァルトのフリーメーソンの信仰はカトリックのミサとどう関わるのであろうか。そういう疑問もわいてくるが、
おそらくそれは愚問だろう。言葉の世界がどうであれ、彼の音楽は百万の言葉より彼の心、魂を伝えている。少なくとも僕にとってはそうだ。この音楽は、一人
の人間として何ものによっても誤魔化されたり濁らされたりする事のなかった彼の心を伝えているのだ。
最後になってしまったが、そのような「レクイエム」を完璧なまでに表現しているのがベームその人だ。ウィーンフィルとのコンビはここでも素晴らしい。キ
リエのテンポとダイナミズムも、ラクリモーサのテンポとヴァイオリンの伸びやかな強弱もすべてがそうだ。いま残されている最高の演奏だと信じて疑わない。
(追記)これを書いたのは、もう20年ぐらい前だが、そのあとご存じのように六甲の皆さんやクールフレールほか、多くの参加者を得てこのレクイエムをオ
ケ伴で演奏する幸運に恵まれた。そのときに僕が一番参考にしたのは、ネヴィル・マリナーの指揮するレクイエムで、皆さんにもそれを推薦した。どうしてベー
ムではなくてマリナーにしたかという事について弁明しておきたい。
もちろん出来ればベームのように振りたかったのである。でも僕にはどうしてもベームのテンポについてゆけないのだ。ベームはぼくには不可能なゆったりし
たテンポ取りをする。交響曲でも、自分にはそんなテンポでは振れないと思うことがいっぱいある。そのテンポが凄いのだが、残念ながら僕には無理だ。心臓の
鼓動のテンポが違うし、体格が違うし、食べ物も違う。そしてやっぱり体の感じる何ものかが違うのだ。無理して最初は真似をしても、正直なもので、すぐ化け
の皮が剥がれてしまう。それなら、最初からやめておいた方がいいわけだ。
要するにベームのテンポは僕が逆立ちしても不可能なテンポであり、それゆえに僕には手の届かない音楽を彼が生み出している。もっと言えば僕にとってベー
ムはまるで神の如き人である。それに対して残念ながら僕は俗人だ。俗人にはあのテンポは取れない。そして自分が感じ実現可能な音楽作りで、一番近いものと
して目にとまったのがマリナーだったのである。いうなれば、分を知って自分で可能な範囲で最高のものを目指したらマリナーが一番近かったということであ
る。その意味でマリナーは今も親近感を持っている指揮者である。(2015年9月16日記)
これでモーツァルトの演奏シリーズを終わる事にします。なお次回からは「僕の愛聴盤」というシリーズで、モーツァルト以外の作曲家のものを連載したいと
思います。今後とも宜しく。
(2015/09/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
この曲の正確な日本語訳は「ヴァイオリンとヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲」であるが、この曲は何といっても第二楽章の美しい旋律で知られている。
名演を探せばいくらでもあるだろうが、僕の手元にあるのはパールマンとズッカーマンによるものだけで、それが結構いい。何度も愛聴したというのではない
が、ときどき聴きたくなると「やっぱりいいなあ!」と思う。今日はそれについて書きたい。
最初、いかにも「これから始まりますよ!」という風なファンファーレと共に軽快な第一主題が走り始めると、それに導かれてホルンの第二主題があらわれ
る。このホルンは「モーツァルトのお出ましだ」という感じだが、実はこの演奏、現れたホルンのピッチがちょっと高い。しかもホルンのピッチの調子外れとと
もに、どことなくオーケストラ全体のチューニングが狂っているらしいと思われてくる。「オイ、オイ、何してんだよ!」と思わず口走るのだが、それも導入部
最後のチェロの雄壮な旋律が聞こえる頃にはもう「来た、来た」という興奮の中でピッチの事は忘れてしまう。さすればヴァイオリンとヴィオラがどこからとも
なくオクターヴの音色を輝かせながら、燦然と登場する。二人はオクターヴのまま第一主題の旋律になだれこみ、そこから更に元気のいい掛け合いを始める。さ
らには穏やかな第二主題をもとにここでも素敵な対話が続く。二つの楽器の個性とでもいうべきものが素敵に絡み合ってくる。
ヴァイオリンという楽器は例えばフルートやオーボエなど高音の木管楽器に較べてはるかに表現力の豊かな楽器であるが、こうやってヴィオラと共に出てくる
と、その目を見張る華やかさが印象深い。それに対してヴィオラの音色は何か舌なめずりしたくなるような、まったりとした味わいをもっている。ズッカーマン
はもともとヴァイオリニストだけれども、その点で過不足はない。ところでパールマンはまさにヴァイオリニスト中のヴァイオリニストといっていい。パールマ
ンは前に書いたグリュミオーと対極にあるような超絶技巧の人で、ヴァイオリンという楽器の性能を最大限に発揮させる人だ。そこで場合によっては、技巧の先
走った人だとか、あるいは彼のキャラクターとあいまって、少々調子の良すぎる人と思われたりしている。しかし彼の技巧と音楽性のバランスは見事である。小
品集などはその点、絶品だ。のみならず、彼は古典ものに対しても非常にすぐれたセンスをもっている。抒情性にのめり込んだり、激しく訴えるようなタチの音
楽ではなくて、とてもセンスがいいのだ。だからこの二人の第一楽章の精気にあふれた対話は、ヴァイオリンとヴィオラの音色の違いが織りなす彩りとともに、
音楽そのものの交感の喜びを伝えている。
そうであれば第二楽章は、あのセンチメンタルこの上ない旋律を、感傷に堕することなく美しく演奏する。もともとズッカーマンの方はセンチメンタリズムに
堕する気遣いのない人だから、二人の触発しあうデュオは最高のものだ。
実際ぼくらでも素晴らしいプレーヤーと二重奏をするときというのは、至福の時である。相手のフレーズのデリケートな変化、あるいは思い切ったフォルテや
間髪を入れぬ突っ込みに、僕の脳細胞のシナプスの湧き出る興奮を抑えることが出来ない。モーツァルトの作品である事さえ忘れて、相手のフレーズとの応答に
夢中になるのである。「そうか!」「エェッ?そこまでやるの?」「参った!」等々。そこまでいかなくても単に連続する三度の八分音符をピタリと合わせただ
けでも「やった!」と大喜びである。パールマンとズッカーマンの二人は、オーケストラまで巻き込んで、心ゆくまでそれを楽しんでいる。それが最も鮮明に感
じられるのが第一、第二楽章いずれにも出てくるカデンツァの部分だ。たった二人だけで、いわば即興的に対話するこの部分こそ、そう言ったことが如実に感じ
られる。この演奏はそういう最高の時を二人が、いやオーケストラまでが共有する姿を教えている。
しかしまた不思議な事に、そのように感興にあふれた交感の中で立ち現れる世界は、モーツァルトが目にいっぱい涙をためた姿なのである。音楽というのは何
と素敵な世界であろうか。
でも泣いたあとは笑えばいい。第三楽章はモーツァルトがそう言っている。この世に悲しい事はいっぱいある。でも泣いたあとは忘れたらいい。泣いてどうな
るものでもなければ、笑い飛ばせばいい。「さあ、行こう!」というように第三楽章がはじまる。
この演奏、オーケストラはイギリスのフィルハーニア管弦楽団である。イギリスのオーケストラらしく、さして個性的でもないが、決して下手でもない。指揮
をするズービン・メータもこれといって目覚ましいモーツァルトを聞かせるわけでもないが、勘所は抑えている。やはりいい演奏だ。
(2015/09/03)
ページトップに戻る
トップページに戻る
もう三十年前のことである。大学の同僚にオーディオマニアがいて、時々彼の家に呼ばれた。数人集まって素晴らしい再生装置を堪能したのだが、そのとき彼
はブラインド・テストなるものを僕等に課すのだった。ブラインド・テストというのは、演奏者の名前を伏せておいて、次から次へと同じ曲を聴かせる。当時の
事だから、ご苦労にも彼はそれらを一本のテープに予めまとめておいて、演奏者名を当てさせるのである。
とはいえ演奏者名の当たり外れはいわば「おまけ」のようなものであって、本当のねらいは、名前が分からないまま演奏についてあれこれ言い合い、あとでそ
の印象と演奏者名を付き合わせて認識を新たにするという所にある。さんざん好き放題言い合ったあげく実名が明らかにされるとすれば、自分の鑑識眼の無さが
白日のもとに曝されることにもなるが、逆に大発見にもつながるのである。全くの偏見なしに聴くだけに、掛け値なしに自分の感じたものがはっきりする。それ
で例えばカラヤンが全くモーツァルトを分かっていないという事がよく分かったし、フルトヴェングラーのモーツァルトが素晴らしいことも知った。ベームの素
晴らしさも改めて確認したりした。
そのようなブラインド・テストの中にピリスがいた。その時は名前も知らなかったピアニストだが、素晴らしかった。大家のモーツァルトより魅力的だった。
それで早速ピリス(最近はピレシュという呼び方が多い)のレコードのジャケットを見せてもらうと、その写真がまたよかった。若手の女性ピアニストだった
が、髪をいわば断髪にしていて、そのボーイッシュな姿が清楚でいながら、えも言えぬ色気を感じさせた。
たちどころにピリスファンになって、彼女の来日を待ちわびたのである。それから随分たって彼女は来日したが、何かの都合で行けなくなって結局いまに至る
まで実演に接していない。ところがごく最近テレビで、ヴァイオリンのデュメイと共演しているのを偶然目にした。そして彼女の「スーパーレッスン」である。
あゝ、何と言うことか、あのボーイッシュな彼女は眼鏡をかけた老女となっていた。いや演奏は相変わらず素敵だった。それがベートーヴェンの「スプリン
グ」ソナタだったせいか、以前よりもっと情感が表に出ていたが、依然として音楽の基本姿勢は端正なものだった。でも僕にはちょっとショックだった。彼女自
身の姿にである。聞き始めた最初、「まさか……」と我が目を疑ったほどである。
まことに身勝手といえば身勝手である。僕自身も三十年前は三十代前半で、今のように皺だらけではなかったはずだから、彼女にいつまでも若くいて欲しい等
というのは身の程知らずの願望である。そんな事を思いながら彼女の今の演奏に聴き入っていたのである。
ところで今日取り上げる「初心者のための」ソナタであるが、これは中でも素敵なものである。住宅地の一角からでもよく練習曲として流れて来るもので、た
どたどしい分散和音が耳にこびりついているような曲だが、これがピリスの手にかかると珠玉の作品に生まれかわる。何よりピアノの音が美しい。だから何度と
なく現れる旋律としての分散和音、そしてトリラー、更にはドレミファのハ長調の音階そのもの、そういったものがとてつもなく美しく、楽しく響いてくる。
例えば分散和音にもいろいろ種類があって、まずは冒頭に現れる左手の伴奏がある。これなど、右手の常套的なドミソのテーマに合わせて左手がドソミソ、ド
ソミソとやる単純なものである。しかし初心者が初めて左手の分散和音を教わったとき、喜んでしまって右手のメロディーがどうあろうと左手をドソミソとやっ
て喜んでいる楽しさがある。ピリスの演奏はそれをその通りに感じさせるのだ。
そしてまたモーツァルトは分散和音を旋律として様々に遊んでみせる。それがさらに右手と左手の掛け合いの形でどんどん転調しながら現れるときなど、まこ
とに珠玉としか呼びようのない十六分音符がころげまわる。その圧巻は展開部で、短調になった分散和音の掛け合いは衝撃力さえ備えている。
こういったものの目まぐるしい変化が、この曲が「初心者のための」ソナタであることを忘れさせる。ピリスの演奏は、この曲が技術的には初心者向けに易し
く書かれたものであっても、実はモーツァルト晩年の傑作である事を教えてくれるのである。
第二楽章アンダンテは、高校時代まさに初心者であった僕にも弾くことが出来た。第一楽章は、必ずどこかで間違ってしまうけど、これは何とかこなせた。そ
れで思いを込めて弾いたものである。とりわけ短調の所が好きだった。そういう想い出の深い楽章だが、ピリスの演奏を聴いての印象は、音楽の出し入れのセン
スの良さである。ここで出し入れというのは、どこでちょっと急き込んで何処でそれを取り戻すか、それを支えるものとしてのクレッシェンドとディミニュエン
ド、あるいは右手と左手のバランス、さらにはフレーズ最後の左手の収め方、といったものである。
一口で言ってしまえば、ピリスはこの点で抜群にセンスがいいという事だが、そこに漂うデリカシーがとりわけいい。それは、乱暴に処理して思わずガーンと
叩いてしまうような所を、逆にはっとするような弱音で奏するといった類のもので、これはやはり女性のデリカシーがそうさせるのかと思わせる。しかしこれは
単に女性的というより、僕にはむしろ知的なもののように思われる。優美なデリカシーはともすれば女性的という言葉で表現されるが、実はピリスに見られるデ
リカシーは、抑制のきいた感情表現あるいは端正さの中にみずみずしい感性が滲み出したところにある。この種のバランス感覚は、実は高度に知的なものではな
いかと僕は思っているのだ。そこがピリスの最高の点で、ピリスの品性の高い抒情性がそこにある。
第三楽章は、そのバランスのなかで、愛すべきロンドが奏でられる。ピリスのモーツァルト全集の全てに納得しているわけではないが、この演奏は彼女の最高
のものであるとともに、やはり彼女は現代のモーツァルト弾きの最高の一人だと思うのである。 (2015/08/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ハーゲン・クァルテットという弦楽四重奏団は、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の教授の子供たち四人でスタートしたクァルテットである。今は第二
ヴァイオリン奏者だけ交代して、ハーゲン一家のクァルテットではなくなったが、彼等が十代だったデビュー当時からアンサンブルの良さには定評があった。環
境を同じくし、血のつながった一家の家庭音楽会がそのままプロになってしまったという雰囲気があるクァルテットだった。
しかし僕が最初に聴いたモーツァルトの初期弦楽四重奏曲集で印象深かったのは、何よりも彼等が純正調の柔らかな響きを知っている事と、いかにも若々しく
てキビキビした彼等のテンポ設定だった。その育ちの良さが、妙な作為を一切排除し、率直でしかも上質な音楽を生み出していた。ただこの十三曲に及ぶ初期の
クァルテットは僕等も長年親しんで来ただけに、「おいおい、ちょっと速すぎるよ!」と言いたくなる時もあって、これはやはり若さというものだろうと思った
りした。実際、若者といっても例えば少年と呼ばれる年頃の演奏は、その生理的呼吸の速さに応じて、テンポも速いものである。
ところでそのハーゲン・クァルテットが「ハイドンセット」と呼ばれるモーツァルト中期のクァルテット集をその後に出している。それを最近手に入れたの
で、今回はその第二番に当たる K.421 ニ短調の演奏の話をしたい。
今回この中期の演奏を何回か聴いて印象深かったのは、まずは依然としてその和音感覚(純正調)の良さである。初期でもそうだったが、ビブラートを極力抑
えて、柔らかい典雅な響きを醸し出している。いわば古楽器の奏法をほどよく取り入れて、それが美しい。ビブラートは、たしかにこれがないと独奏のときなど
ヴァイオリンが色あせてしまうほどのものではあるが、合奏の場合これをやりすぎると、音程が細かく揺れるだけに和音がどうしても乱れがちになる。一流の
クァルテットプレーヤーの場合、和音感覚さえ良ければそれほど気にならなくて、そのフレージングや音色がそういった事を忘れさせてしまうが、ハーゲンのよ
うに演奏されてみると、弦楽四重奏の響きそのものがこんなに典雅で柔らかいものだったのかと、改めて驚かされるのだ。
それともう一つ印象的だったのは、曲の途中で新たなフレーズが来たとき、何とも言えず一瞬、間を置くことが多くなっているという点である。初期の全集で
はそういう事は殆どなく、シンプルに進行していたが、およそ五年後から録音を始めた中期の作品では、この間合いが目立つようになっている。ところでこの間
の取り方がちょっとオーバーなのだ。クァルテットプレーヤーなら「おいおい、そこまでやるか」とちょっと皮肉ってやりたい所なのだが、それが「センスがな
い」と一蹴してしまえない所が面白い。やりすぎなのは明らかなのだが、長年同じ曲に親しんで来たプレーヤーなら、一度そこでそんな風に間合いを持たせた
り、ルバートをかけて見たくなる。充分親しんで来た人なら「そうもしてみたいよな!」と思わせるのである。アマチュアは、いわばそんな事ばかりして楽しん
でいるようなものだが、プロは絶対これをやらない手のものである。ところがハーゲン・クァルテットがまさにこれをやるのである。そこに僕は得も言えぬ親近
感を覚えたのである。
ともあれ K.421
の四重奏曲の冒頭の八分音符の伴奏と、それに乗った第一ヴァイオリンの旋律は文字通り典雅で美しい。第二ヴァイオリン以下の八分音符の柔らかなデタッシェ
と純正調に彩られた伴奏は絶品で、その上にビブラートを抑えた第一ヴァイオリンが歌い始める。抑制のきいた第一ヴァイオリンがオクターヴ上がって同じメロ
ディを奏でるとき、それは空気を引き裂くような悲しみに転じる。そのあとに出てくる各楽器の掛け合い、フレーズの作りの自然さとお互いの受け渡しのレスポ
ンスの良さなど、それらすべてが彼等のこの曲への愛情を如実に示している。こういうのがまさにクァルテットの醍醐味である。純正調の感覚という点では、第
二楽章の緩徐楽章でそれが最大限に発揮されている。純正調は長調の和音でこそもっとも美しく透明度を増すからだ。ただこの楽章で残念なのは、そこここに出
てくる十六分休符の間が殆どすべて長すぎる、つまり休みが長すぎることである。これは依然としてまだ彼等が若くて、その若さゆえの思い込みの強さがそうい
う結果を招いているのかもしれず、あるいは何といっても家庭的、アマチュア的な気安さが、彼等を油断させているのかもしれない。この何回となく出てくる基
本的モチーフの中の十六分休符の長さゆえに、リズムの流れが阻害されているのである。
しかし第三楽章メヌエットになると、今度は若さゆえの激しさがピタリと決まっている。モーツァルトがこの曲を作った年頃と、彼等の演奏した年齢とが、
ひょっとしたら同じ年頃だったのかもしれないと想像してしまうほどだ。ハーゲン・クァルテットの平均年齢が確かめられないから真偽のほどは分からないし、
多分ハーゲン一家の方が歳が上だと想像されるが、少なくともモーツァルトが二十六歳の時の作品であれば、やっぱりこの作品は若い時のものだったと、改めて
思ったのである。また有名なトリオも第一ヴァイオリンの自然な美しさは特筆に値する。
第四楽章はこれまた有名な変奏曲であるが、その主題の演奏は何ともいえず、かそけき思いをさせてくれる。それが変奏されるとき、時には激しく波打ち、あ
るいは優雅に漂う。次々に出てくる変奏に構えたところが全くなく、これまた実に自然である。
ようするにハーゲン・クァルテットの演奏は、僕のようにアマチュアで長年クァルテットを楽しんで来た者にとって、この上なく親しみのもてるクァルテット
である。そこに表れた彼等の振舞が手に取るように感じられ、しかも僕等の手の届かない美しい音楽になって現れている。やっぱりこういうのが僕にとって最高
のクァルテットなのだ。 (2015/08/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
それはいつものように、オーケストラのテーマで始まる。あの流麗なヴァイオリンの旋律を聞き始めたとたんに、眠気がいきなり襲ってきそうな、ふんわりと
した優しさが僕の身体をつつむ。やさしい風が吹いてくる。オーケストラがテーマを歌い終わると、いよいよピアノの出番だ。オーケストラは沈黙し、ピアノ一
人がそのテーマを歌い出す。それもオーケストラの雰囲気そのままに。アシュケナージがピアノを弾きながら指揮をしているから、それも当然なのだろが、それ
にしてもその気持ち良さをどう言えばいいのだろう。
アシュケナージのピアノの音色は芯があると共に、独特のまろ味を帯びている。それが特有の間合いをもって、何とも言えず人なつっこい優しさをもって歌い
始めるのだ。それは決して透明度があるとは言えないし、爆発的エネルギーが吹き出すわけでもない。あるいは厳密な構成力といったものを感じさせるわけでも
ない。にもかかわらず何と美しいモーツァルトであろうか。
構成力や透明度を感じさせないと言っても、けっして俗に流れているのではない。その意味ではモーツァルトの様式を実によく分かっていて、格調を落とすこ
とはない。だからこそモーツァルトの名演なのだが、やはり僕にとって一番印象的なのは、その格調ある演奏の中に何ともいえず人なつっこい優しさが溢れてい
る点だ。だから僕の友人など、これを「ちょっと説明過多だ」と言うのである。彼に言わせれば、モーツァルトの演奏はその骨格を出来るかぎりシンプルに弾け
ばよい。それ以上、自分の思い込みでもっていろいろ語ってくれると、煩わしいというのである。しかし僕にはむしろアシュケナージの気持が分かりすぎるほど
わかって、アシュケナージの優しさが心に滲みてくる。
ついでにいうと。僕はこの楽章の終わり方が好きだ。ようするに単純に、何気なくテーマを歌い収めているだけのことだが、それがアシュケナージの演奏とあ
いまって、モーツァルトに「いいよ、いいよ、君はなんていい奴だ!」と語りかけたくなるのだ。こんなに素敵な音楽をあふれさせても、ちっとも気取ったとこ
ろも、押しつけがましさもなく、素っ気なく終わってしまう。そこだけで僕は感動してしまう。
さすれば第二楽章のあまりに有名な旋律が、いきなりピアノ一人で奏でられる。モーツァルトの「泣き」の典型的なものだ。ピアノがテーマを歌い収めると、
今度はオーケストラがこれを奏で始めたときの何という悲しさ。そのオーケストラにピアノがまとわりつくように一緒になって歌い始める。僕は以前、モーツァ
ルトのこういう悲しさを「感情失禁」という言葉で表現したことがある。今でもこのようなモーツァルトの「泣き」を表すのに、それ以外の言葉が浮かばない。
彼は決して自分の辛さや悲しみをベートーヴェンのように曝け出したり、人に訴えかけたりはしなかった。むしろそういうはしたない事を恥ずかしいことと
思っていた。だから彼の音楽は、秘すれば華という趣をもつ。ただ彼の音楽には、歓びの爆発といったものはある。場合によっては精神の狂騒状態といってよい
様相を呈することさえある。「ジュピター」のフィナーレのフーガなどがそのいい例である。しかしその場合でもベートーヴェンのように、自己の感情をぶちま
け、人を否応なしに引きずり込むようなことはしていない。
ところがこの楽章では、モーツァルトは一目もはばからずホロホロと涙を流し、泣いている。僕は時たま夢の中でエンエン泣いていることがある。夢から覚め
ても悲しくてそのまま泣いていたい時がある。そういうのが文字通り感情失禁というのだろうが、創作の場でモーツァルトが思わずそうなってしまったのがこの
楽章であり、あるいは弦楽五重奏曲ト短調のアダージョではあるまいか。
そういう悲しみのあとは明るく微笑んで見せるがモーツァルトだ。フィナーレの第三楽章である。あのような悲しみのあとでは、これは軽すぎると言われたり
する。弦楽五重奏曲の場合もフィナーレについてそういう言葉を耳にすることがある。
たしかに現代の欲望を解放された人種にとっては、あの明るさは「まだその酒は飲みかけだ!」ということにもなる。もっともっと悲しみに深くのめり込みた
いと思っていたところに、何というアッケラカンとした明るさか、と。いや明るいだけでなく、軽すぎると言われたりする。明るすぎると感じるのはまだいいと
しても、これを軽く感じるとすれば、これはちょっと問題ではなかろうか。それは単に感情生活の時代の差を越えて、現代人が歪になって、ある種の感受能力を
喪失し始めている事を示唆しているように思えるのだ。それは明るくあっても軽いものではない。つまり感情の捉えどころは充分深いということなのである。こ
の明るさは、けっして半端な精神で実現できるものでも、表現できるものでもない。少なくともこの楽章はモーツァルトの精神の躍動を伝えている。アシュケ
ナージの演奏はまさにそれを僕等に伝えているのだ。 (2015/7/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
モー
ツァル
トの交
響曲の演奏についてはすでにベームとチェリビダッケを取り上げたが、大切な人を忘れていた。ブルーノ・ワルターである。僕が青年時代に
LPレコードでモーツァルトのシンフォニーに親しんだのが、他ならぬワルターであり、そのレコードは今回取り上げる『ハフナー』交響曲と第四十番の二曲か
ら成っていた。その時すでに四十番はいろんな演奏を知っていたが、『ハフナー』の方は、この曲自身を初めてワルターに教わったようなもので、僕にとっては
この方が印象深かったのである。
当時の印象として残っているのは、なんといってもそのしなやかなフレージングと、緩徐楽章の何とも愛らしい第二主題だった。ただ僕の安物のオーディオ
セットのせいか、コロンビア交響楽団の音色が透明ではあるが、どこか底の浅いものに思った記憶がある。ところが今回改めてCD化された復刻版を聴いてびっ
くりした。浅いどころか実に艶やかな音色をしている。「これはいい!」と感動を新たにしたのである。
ともかく第一楽章冒頭のフォルテの全音符がティンパニーと共にユニゾンでドーンと始まる。ニ長調の主音であるD音の全音符が二小節目には一オクターブ上
に跳躍し、そこで同じようにほぼ全音符(4拍)の長さを高らかに奏でると、最後に十六分音符を元のD音で引っかけて三小節目のCis音(嬰ハ音)の四分音
符に突っ込む。この単純至極なモチーフはそのあと様々に展開されるが、ワルターの演奏を聴いて何より印象深いのは、この二つの全音符の奏でる壮大さであ
る。それは単に力強いとか華やかだというのを越えている。二小節のたった二つの全音符でこのような壮大さを感じさせる指揮者は他にいないといってもよい。
その壮大さが僕には不思議でさえある。このフレーズは誰が棒を振っても同じようにしか鳴らないと思えるほど単純なユニゾンなのに、一体どこがどう違うので
あろうか。
もちろん素人のオケでは同じようにいかないとしても当然だろう。現に僕はロンドンの素人のオケでこの曲を弾いた事があって、そのとき指揮者(一応プロ)
は、この二つの全音符が何となくダルイのを見て取ると、まず八分音符で同じD音を一小節間(つまり八回)やらせて、この全音符の中には八分音符のリズムが
八回も脈打っている事を僕
等に感じさせようとした。それが終わると今度は四分音符を四回、次に二分音符を二回、そして最後に全音符を一弓で弾かせたのである。素人集団だとこうでも
しないと、四拍一弓の中にリズムが波打っている事を忘れてしまう。すると次の二小節目の頭が揃わないのみならず、全音符の単音そのものが死んでしまったり
するのだ。
これは確かに素人の話である。しかし実のところオーケストラと指揮者の組み合わせ次第では、プロのオケでも微妙な所でこの単音に差が出てくるに違いない
のである。例えば最初のD音への突っ込み方に様々なやり方がある。ちょっとアクセント気味にするか、それとも柔らかくフォルテで突っ込むか。あるいはその
後、単音の中でヴァイオリ
ンの弓が中ほどから弓先へ行ってしまうとき、ヴォリュームを絶対に減衰させないでしっかり弾き切るか、それとも弓圧の自然な低下にある程度まかせるを良し
とするか。あるいはティンパニーと他のパートとのバランスをどの程度にするか、さらに木管のバランスはどうか。そういった事がすべて演奏効果に差を生じさ
せるはずだ。
ワルターがその点、他の指揮者とどの程度違うか聴き較べた事はないが、多分ワルターは様々な指示を与えたはずだ。そして様々にかれが語って聴かせた教養
や音楽観が楽団員に染み込んで、ワルター独特の大らかな広がりと格調を生み出しているに違いないのだ。こういう大きさを感じさせる指揮者はもういない。
ところでワルターが楽団員に与えた指示については、面白いことにCD化された同じモーツァルト交響曲集にリハーサル風景が録音されている。交響楽団はも
ちろん同じコロンビア交響楽団であるが、曲目は『リンツ』である。これがまことに面白い。団員とワルターのやり取りを聴いていると、彼が指揮者というより
はトレーナーとして指示を与えているという印象が残る。例えば冒頭の四分音符一つを何回やらせているだろうか。いろんな指示を手を変え品を変えやっている
が、何度やっても長すぎるのだ。思い余った彼は「やりすぎるほど(短く)やってみなさい(Over-do
it)」と言うのである。そしてその「やりすぎ」の演奏が始まったとたんに、「それだ!それでいい!( That's it!
Yes!)」と叫ぶ。その他にもスフォルツァンドが激しすぎず、弱すぎず、短かすぎず、長すぎずといったニュアンスを教えるのに手間取っている。これを聴
いていると、ワルターはコロンビア交響楽団を育てるのに大変長い間苦労したに違いないことが分かる。というのは、その内容を見ていくと、それは殆ど様式感
覚の問題である事が分かるからだ。テクニックは持っているが殆ど古典音楽の、とりわけモーツァルトの様式感覚を持っていない連中に、様式感覚を手取り足取
り教えている感じだ。ウィーン交響楽団だと、譜面のパターンを見ただけで誰もが勝手にそう弾いてしまう事を一から教えているのである。だから指揮者という
よりはトレーナーのような指導をやらざるを得なかったのである。これを聴いていて僕は、デュトワがN響に赴任してからずっとこんな苦労をしたのではないか
と余計な心配までしてしまった。
ともかく第一楽章ではこの壮大で広やかなモチーフが変容をこうむり、豊かに流れてゆく。するとあの大好きな第二楽章だ。どこもいい。悠揚迫らぬ第一主題
を引き継ぐ第二主題の何という愛らしさ。モーツァルトの中でもとりわけ愛らしい旋律だ。これにしてもワルターは苦労したに違いない。例えばあの第二主題の
モチーフは擬音で表すと、「タラタタタッ、タラタタタッ」と十六分音符が連なっているが、最初の「タ」へのほんの僅かのアクセントや、最後の三つの「タタ
タッ」の収め方。後者は押しつけ過ぎてはいけない、まして尻餅をつくようではいけない。さりとて抜けてしまうようではいけない。それこそ最高のセンスがい
る。これをワルターはどうやって教えたのだろうか。
第三楽章メヌエットは堂々としたメヌエットである。二十世紀後半に現れた俊英たちは、総じてモーツァルトの演奏が速い。とりわけメヌエットでそうしたく
なるようだ。宮廷のゆったりした舞踏感覚など最初からなくて、日常生活ではジャズやロックのリズムで育ったせいかもしれない。しかし戦前生まれの日本人で
ある僕にとってはワルターのメヌエットがいい。モーツァルトもこれなら納得したはずだ。とはいえ正直いうと、コロンビア交響楽団の連中は、ちょっとワル
ターについてゆけなかったか、逆に若干重い印象だ。
そして第四楽章が快走を重ねる。これも現代の指揮者から見れば、若干遅い。というより、こういうのをゆとりのある速さというべきである。そしてこのテン
ポになればコロンビアの連中も気持ちよく没入できたという感じの演奏である。
久々にワルターを聴いて思ったのはやはり音楽の大きさである。彼の演奏の特徴は何といってもそのしなやかなフレージングにある。事実かれはリハーサルで
しょっちゅう「Sing!,Sing!(歌って!、歌って!)と叫んでいる。しかしそのしなやかなフレーズを生み出す背景に彼の広やか人格性が感じられ
て、そういうものを感じさせる指揮者はもういなくなったという思いを深くしたのである。そして映画「カーネギーホール」で彼がタンホイザーの序曲を振る姿
を思い出していたのである。
(2015/6/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ちょっ
と
大げさだけど、これまで音楽を聴いていて「このまま死んでしま
いたい」と思った事が二度ほどある。いずれも二十代の若いときで、一つは元町の
ウィーンという音楽喫茶でこのクラリネット五重奏曲を聴いたとき、もう一つはアンドレ・クリュリタンスがパリ管弦楽団を率いて大阪のフェスティバルホール
で「ダフニスとクローエ」を演奏したときである。「ダフニス」のときなど、あの夜明けの訪れと共に太陽が昇り、木々がキラキラと輝き、そのまぶしさに世界
が白色と化して爆発する。そのクライマックスのシンバルの一撃と共にフェスティバルホールが粉微塵に砕け散ったかと思い、このまま昇天すれば何といいだろ
うと思った。
クラリネット五重奏の時はそのように劇的なものではなかった。しかしまことに貧弱なLP再生装置しか持たなかった僕は、大学をさぼって元町のウィーン
か、梅田の日響に通ったものである。そのとき初めて、僕にとって生演奏としか思えないその演奏に接したとき、世の中にこれほど美しい音楽があったのかと、
身の震える思いで聴き入ったのである。
あの第一楽章冒頭の透明でしなやかな弦の旋律と和声、あの六小節ほどの導入部を思い起こしてほしい。不快な現実世界でザラついた心が「そうだったの
か!」と思わず呟いてしまう情緒世界に出会う。かほどに静かで優しく、柔らかな世界があったのかと。しかしそれはザラザラした心の現実を逃れた世界という
のでもない。そのような心をも包み込み、慰める深さがあって、それはいつしか最も深い現実世界に僕等をつれてゆく。だからそれは悲しみの世界でもあるの
だ。でも何と美しく充実した悲しみの世界か。弦の六小節に導かれてクラリネットが低音から湧き出るように八分音符を奏で始めると、身体に染み通る音色と共
に僕等はあっという間にその情緒世界のただ中にいるのだ。第二主題ともなると長調でありながら何というかそけき悲しみであろうか。そして展開部の楽器を取
り替えては次から次へと出てくる八分音符のモチーフの自在な開放感。
さらに第二楽章ともなるともう誰もが、もはやあのザラザラした心を忘れ去って、クラリネットとヴァイオリンの対話に、殆ど眠りに誘われるが如き美の世界
を感ずるはずだ。先日も、いつもの仲間と弦楽五重奏のヴァージョンでこれを弾いて楽しんだが、終わったとたんにその一人が「女に涙を流すことはなくても、
この曲には涙が出るね」といったものである。至言である。しかし僕はその時、これを作ったときモーツァルトに何かが起こっていたに違いないと思った。この
曲の成立当時のくわしい事情はまだ調べていないが、これほどの世界はモーツァルトの作品でも珍しい。それが言葉にならないのがもどかしいが、この美しさ
は、この世のものとは思えない一種の夢幻の世界のものである。
そして三楽章のメヌエット。この曲で何といってもいいのは中間部のトリオである。それまでの展開の中でモーツァルトの抒情に浸りきっていた僕は、この時
にいたって「このまま死にたい!」と思ったのである。その時のレコードはイタリア弦楽四重奏団とクラリネットが組んだものだった。クラリネット奏者が誰
だったのか、残念ながらいまは覚えていない。ともあれここまで深い抒情世界に誘った以上はモーツァルトは最後はにっこり笑ってさよならを言わねばならな
い。それが第四楽章の変奏曲である。御存知のように、最後には爽やかな風が吹き抜けてサヨナラをいうのがモーツァルトだからだ。しかしこれは単に爽やかな
だけではない。時に愛らしく時に悲しく、時にははじけるような躍動の喜びがある。そして第四変奏にはゆったりとしたアダージョが現れて、それが第三楽章ま
での憂いを回想させると、曲は一気にアレグロとなって軽やかにサヨナラを告げる。
この曲を初めて聴いてから暫くそれと同じレコードを探し求めたが、遂に得られなかった。それ以後何度かクラリネット奏者とお手合わせをし、あるいは弦楽
仲間と弦楽ヴァージョンの五重奏を楽しんで来たが、僕の中では、今もイタリア・クァルテットのイメージが染みこんでいる。しかし今回この曲を取り上げるに
してもイタリア・カルテットのCDが手に入らないので、どの演奏を取り上げようかと迷っていたところ、息子が二枚のCDを持っていた。一つはベルリン・
フィルハーモニー・ゾリステンとカール・ライスターが組んだもの、もう一つはウィーン八重奏団のメンバーによるもの(クラリネットはペーター・シュミドゥ
ル)である。この比較がおもしろかった。
一般的に言えばどちらも最上級の演奏に属するといってよい。だから今から述べる優劣は決してベルリンの演奏が駄目だという事ではない。ベルリンの方も十
分美しいのである。しかしやはり一層高いレベルでいえば、依然としてはっきりした差がある。文句なくウィーンがいいのである。
例えば第一楽章冒頭の弦楽のみの導入部だ。これは二分の二拍子の曲で、最初の二小節は二分音符が四つ連なって下降していく。三小節目には四分音符が四つ
ならんで上昇に転ずるが、四小節目には二分音符二つにもどり、さらに五小節目に四分音符が四つ、そして六小節目に下降の二分音符二つで、ここで導入部が全
体として下降の極に達する。そるとクラリネットがその底から湧き上がってくる。この弦の導入部はまことに透明で、柔らかな情感に満ちている。その点で、二
つの演奏は両者共に素晴らしい。にも関わらず、すでにここに違いが生まれている。
直接聞き較べれば分かることだが、例えばベルリンの演奏はまったりしていて、見方によれば、どこかしら重く、ねばっこい。それに較べてウィーンの演奏は
透明で柔らかでありながら、どこかしら躍動感がある。何かしら脈打つ生命感があるのだ。何故そのように聞こえるのかちょっと分析的に聞き直してみると、ベ
ルリンの方は、二拍子の一拍目と二拍目にヴォリュームに殆ど差がない。だから一小節目から二小節目への移行にさいしてもヴォリュウームに減衰がなくて、そ
のまま流れ込んでいる。要するに旋律構成がフラットに出来ていて、それが独特の静かな雰囲気を醸し出している。それに対してウィーンの方は一拍目と二拍目
の強弱に微妙な差があって、さらに三小節目などは四つ並んだ四分音符のテンポが若干速めになって、躍動感がさらに増して来る。その勢いの差のようなものが
心地よい。この躍動感に導かれて、七小節目のクラリネットは待っていましたとばかりに水底から湧き上がって来る感じだ。
ここにみられる微妙な躍動感、リズム感の違いは全楽章を通じて現れている。その点第二楽章はあまり差の出てこない曲想になってはいるが、第三楽章のメヌ
エット、とりわけトリオの部分の差は大きい。いやこれも物理的には微妙な差であり、その違いは旋律の最初のアウフタクト(弱起)の一拍がベルリンは少し長
すぎるだけなのである。しかしそんな所で恰好をつけて長くしてはいけない。つけたい気持は分かるけど、それをしたら抒情性にのめり込み過ぎることになるの
で、それをしたらあの「死にたくなる」ほどの洗練された悲しみが誇張されすぎる。それと共に自然な流れが阻止されて、悲しみの中に潜む躍動性が邪魔され
る。現にベルリンでは、何小節か先の波打つ悲しさがぎこちない。それに較べてウィーンの流れの何という麗しさか。どうしようもなく涙が溢れる流れだ。僕は
これを改めて聴きながら、イタリア四重奏団の演奏はこれより良かったのだろうかと、若いときの自分の識別能力に不安になるほどだった。死にたいと思ったほ
ど当時の自分にとって美しかった事は間違いないが、今に較べたら個々の演奏に対する識別能力ははるかに劣っていたに違いないからだ。少なくともこれ以上素
晴らしい演奏は考えられないほどウィーンのトリオは素晴らしい。
ところで第四楽章になると、躍動性という点では、人によってはベルリンのほうが躍動性があると感じるかもしれない。彼等は冒頭のスタッカートを実にクリ
アーに響かせて軽快感あふれるものとなっているからである。それに対してウィーンの方はむしろ長い目のスタッカートである。にもかかわらずウィーンの方が
よい。ウィーンの方がテンポが若干速めで、しかも躍動感がある。そして所々に出てくるルバートのかけ方もウィーンの方が本物だ。
全体にいえばベルリンの演奏は真面目で几帳面なのに対して、ウィーンはセンスでこなしているといってもいい。もちろん最初に書いたように、両者ともに素
晴らしい。ベルリンの演奏しか知らなければ、それで充分モーツァルトの真髄は分かる演奏である。しかしウィーンの連中はその先を行っている。それはおそら
くウィーン人の中にモーツァルトの血が流れているからでもあろう。しかし僕はそういう形でこの問題に決着をつけてしまってはいけないと思っている。日本人
の僕がここまで分かるという事は、やはりベルリンの人にもここまで分かる次元に来て演奏してほしいと思ったのだ。
(2015/06/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
い
わゆる
「ハイドン・セット」と呼ばれるモーツァルトの六曲の弦楽四重
奏曲は、短いかれの人生の中でも、やはり中期に属するもので、その旺盛な活動がさま
ざまな作品を生みだしている。したがって作品の質という面から見ればどれを取り上げてもおかしくない。どれもが個性的で、モーツァルトのもつ豊かさを万華
鏡のように見せてくれる。しかし一曲だけということになると、僕はやはりイ長調のこの曲をとりあげたい。それもウィーン・カルテットの演奏がいまだにその
イメージの原点になっている。という事で、今回はウィーン・カルテットの話をしたい。
このケッヒェル番号を自分のモーツァルトクラブの会員番号にしたように、ともかく僕はこの曲が好きなのだ。このカルテットでモーツァルトは遂に精神のう
ちに潜むもっとも美しいものに到達し、精神の透明な揺らぎを音で表したと思っているからだ。それ以後、精神にひそむ悲しみも、怒りも、喜びも、あるいは空
しい虚無さえも自在に溢れ出すことになる。そういった世界への出発点がここにある。もちろんこのような思いをさせる曲はこれまでにもあるにはあるが、少な
くとも全楽章を通じてそれが結晶しているのがこの四重奏曲のように思えるのだ。そしてこの曲が孕むそういった美しさを最も自然なかたちで表現してくれてい
るのがウィーン・カルテットなのである。
といっても実はそのレコードがどこを探しても、いま手元にない。ひょっとしたら僕のものではなくて、友人のものだったのかもしれない。でもその演奏は印
象的に覚えている。第一楽章の三拍子の冒頭の、少しゆったり目の流れるようなモチーフとそれをしめくくる三小節目の四分音符スタッカートの何ともいえぬ柔
らかさ。その出だしだけで、僕等はまさに透明な石清水の流れに出会ったような気持になる。それに身を任せれば僕等は清水の流れと共に現われる滑るような美
しい岩肌や魚や水草の姿に心が洗われてゆくのを感じる。といってもそれは冷たさよりも安らぎを感じさせるものだ。ウィーン・カルテットはまさにそういう世
界を見せている。
たとえばこのテンポ指示はアレグロであって、たいてい文字通りアレグロで速く演奏している。それでどうなるかといえば、それでは、最初のアウフ・タクト
が鳴ったとたんのあのフワァーと身も心も空中に持ち上げられるような優美な世界が現れてこない。勿論遅すぎてもいけないが、速すぎてもいけない。そのテン
ポ設定が実に微妙なのである。そこの所を分かっているカルテットが、いまのところウィーン・カルテットしか知らない。有名なカルテットはそこそこではある
が、これぞというのはこのカルテットである。
それでウィーン・カルテットが来日して、しかもこの曲がステージに乗るというとき、僕等のカルテットメンバーは胸をときめかせて会場へ向かったのであ
る。もう何十年も前の事だ。当日の演奏はといえば、じつはレコードで僕等の胸に染みついたテンポより、ほんのわずか速かった。それが少し残念だった。でも
僕等は大満足だった。あこがれのウィーン・カルテットの演奏を目の前で見たからだ。僕等は演奏が終わると楽屋へ駆けつけた。彼等の姿の何とすばらしく、恰
好良かったことか。絹のマフラーを長くたらし、黒のウールのコートを羽織っていた。特にその時の初代のチェリストのレップは、その演奏どおりセンスにあふ
れた顔をし、身のこなしをしていた。僕等はそれだけでヨーロッパの貴族に出会ったような気持にさせられた。やっぱり姿もこんな風でないと素敵なモーツァル
トは弾けないとさえ思わされたのである。ともかく握手をもとめ、持っていったスコアにサインをお願いした。そして聞いたのである。愚問とは知りつつも「今
日の演奏は、僕等のもっているレコードの演奏よりわずかに速かったように思うのですが、どうしてですか?」と。するとたしか第一ヴァイオリンのヒンク(現
在のウィーンフィルのコンサート・マスター)だったと思うが、「その時のアトゥモスフェーレ(気分、雰囲気)によりますよ」と答えてくれた。それから当分
「アトゥモスフェーレ」という言葉が仲間うちで流行って、勝手な演奏をしては、その言い訳に使ったものである。ともかくこの第一楽章はこのような想い出と
共に僕の中で息づいている。
そして第二楽章のメヌエット。これはメヌエットではあっても、メヌエットという形式を借りた、優美この上ない「絶対音楽」である。舞曲の面影がなくはな
いのだが、ここで表現されている音楽は、精神そのものの「舞」とでもいえようか。
そして第三楽章の変奏曲。僕はクラシック音楽のあらゆる変奏曲の中でこの変奏曲が一番好きである。テーマといい、それが次々と変化していく様といい、あ
るいは太鼓連打と呼ばれるコーダの展開といい、身が震えるほどいい。僕等のアマチュアでさえ演奏に夢中させられるほどの名曲なのだ。ところでこの演奏がま
たウィーン・カルテットが最高なのだ。とりわけコーダでチェロが太鼓連打を始めるときの何とも言えない引っかけ気味のアウフタクト、それを受けたヴィオラ
のほんのわずかスタッカートに柔らかみを加えた奏法、そしてさらに第二ヴァイオリン、第一ヴァイオリンへと連打が伸びやかさを加え、ついには最初のテーマ
に戻ったときの戻り方。スコアを見るだけでも、すべてが蘇ってくる。
とりわけ印象的だったのはチェロの太鼓連打の奏法である。それはスタッカートのタンタカタッタ、タッタ、タッタという繰り返しなのだが、そのリズムの
引っかけ具合とスタッカートの引っかけ具合のいずれもが絶妙なのである。そこにチェリスト、レップのセンスがすべて出ている。しかもウィーン・カルテット
がすごいのは、このように僕等が気も狂わんばかりの神経で受け止め、立ち向かうところを、実に何気なく、身構えることもなく、まことに自然に弾き、曲に身
を任せることで成し遂げている点だ。それは彼等の着こなしや立ち居振る舞いの優雅な自然さそのものなのだ。これはやはり日本人には敵わないと思わせてしま
う。
最後のフィナーレはソナタ形式ではあるがフーガとの混合からなっている。それまでの楽章の感情世界をすべて流し込むかのように伸びやかにフーガのテーマ
が第一ヴァイオリンからスタートすると第一楽章のモチーフとよく似たモチーフがそれに応える。この主題を軸にして音楽は自在に展開し、流れてゆく。この伸
びやかな充足感はフィナーレに相応しいものだ。いうまでもなくウィーン・カルテットはそれをみごとに表現している。
僕はアマチュアとはいえ、自分で弾くことのほうが多いから、カルテットのレコードは日頃かえって聞くことが少ない。それでこのウィーン・カルテットのレ
コードも自分のものだったかどうかも忘れているほど聴いていなかった。しかも僕の聞いたのは、初代のメンバーのときのもので、今CDを探しても、第二ヴァ
イオリンとチェロが交代しているから、もはや往年のものは手に入らないだろう。それが残念だが、今もその演奏は僕の脳裏にきざみ込まれている。
(2015/05/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
モー
ツァルトの中でもとりわけ愛情こめて「これが好きだよ」とモー
ツァルトに語りかけたい。そういう思いにさせられるのが、このピアノコンチェルトであ
る。例によってオーケストラトゥッティでファンファーレの力強い音型が鳴り渡ると、弦のキザミに乗って流麗な第一主題が流れて来る。となれば至極単純な音
階が随所に現れて、何とはなしに華やいだ気持にさせられて二人のピアノがどんな風に現れ、どんな旋律を奏でてくれるのか、その辺への期待が先走ってくる。
それを「まあ、まあ」となだめながらモーツァルトは僕らを序奏に付き合わすわけだが、モーツァルトも頃合いを見計らってオーケストラに「はーい、これでお
しまーい!」と終止形でキリをつける。と待ってましたと二人のピアニストはいきなりフォルテのトリルを一斉に叩き始める。
オーケストラも皆演奏をやめて二人の登場を見守るのだ。このトリルがいい。初演のとき、青年に達していたモーツァルトは、おそらく姉のナンネルと向かい
合って「いくよ!」というように、ニヤッと目で合図したに違いない。そしてトリルの数小節が終わると、「まず僕からね」と一人で第一主題を引き始める。何
の衒いもない素直な、可愛い旋律だ。この第一主題をモーツァルトが弾き終わると、今度はナンネルがオクターブ下でこれを奏でる。そして二人のピアニストの
この挨拶が済むと、こんどはオーケストラも一緒になって楽しみがはじまる。二人のピアニストは先生と生徒のようにそっくり相手の真似をしてみたり、ちょっ
と違えて悪さをしてみたり、掛け合いのタイミングを楽しみ、あるいはピタリと相手の旋律に付けてやったりする。そういうのがとりわけ面白いのがカデンツァ
だ。しかしそれはカデンツァにかぎらない。オケもそういう受け答えを楽しむのだ。
僕自身がアマチュアとはいえアンサンブルばかりやってきたからか、こういう世界に入るとすべてを忘れてしまう。アシュケナージもバレンボイムもそれをよ
く知っている。二人の音楽の質はもちろん違う。アシュケナージのモーツァルトに対する上質な情緒性は絶品だが、ときには説明過多になってしまう事がある類
のものだ。バレンボイムはその点、背筋がまっすぐ伸びたモーツァルトを弾く。しかしそれでいて、これまた情緒性を失うことがない。このふたりが、弾けば弾
くほどに、どちらが弾いているのか分からなくなるほどフレーズ、音色ともに同質化してゆき、素敵な精神の戯れの中にいる。
それが第二楽章になると、それこそモーツァルトの柔らかな、潤いに満ちた世界が現れて、ピアニストが誰であろうと、固有名詞も消えてなくなる。モーツァ
ルトのこの旋律はどこから生まれて来たのか、もうこれは不思議の世界だ。オーボエの旋律に単純な分散和音を付けるピアニストは幸せの極地にいるはずだ。逆
にまた第二主題とおぼしき短調の旋律をピアノが奏でるときのあのオーボエの息の長い単音の素晴らしさはどうだろう。僕はあのオーボエが鳴り始めると、悲し
みと幸せが一度にやって来て、「ああ、どうしよう、どうしよう」と思ってしまう。これほど美しく切ない体験を誰がさせてくれるだろう。やっぱりモーツァル
トに限る。是非、是非聴いてほしい。オーボエが「ピー」とやり出したら誰にもそれと分かるはずだ。
そして第三楽章。これがまたたまらない。例の大騒ぎだ。情緒に浸ったあとは、大騒ぎですっきり、というやつだ。ともかくこの第一主題が抜群だ。どことな
く田舎臭くて、どこかユーモラスで、しかもこの主題を締め括る最後のパッセージのドロ臭さが何ともいえずいい。せめて楽譜だけでもここにあげたい所だが、
この欄では無理だ。要するにどことなくドロ臭いのだが、それをモーツアルトは逆手にとって、そのドロ臭さをおかしみに変えて、そのおかしみに変える手並み
の中に人々が優雅な遊びを味わえるという風になっている。それをおかしみに変えるということは、すでにそこに上質な精神の遊びが働いていないと出来ない事
だし、更にそうであれば、この楽章は、そういう優雅な喜びに満ちていて、それゆえまた時にはちょとした憂いが顔をのぞかせる。これほど優雅で、ちょっと野
蛮で、上質な音楽はモーツァルトの中でもそうそう見あたらないのである。これが出来る人も他に探せば、ハイドンただ一人である。(2015/05/16)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今
回こ
こで取
り上げるまでこ
の曲が何歳の頃書かれたものか、また演奏者がどういう名前の人かも知らずにこのCDを愛聴していた。ちょっと疲れた時などほ
んとうにいい。オーケストラは古楽器で、ピアノも当時のピアノフォルテのレプリカを使っている。いきなり行進曲のファンファーレのようなオーケストラの
トゥッティが勢いよく飛び出すと、そのファンファーレに答えてピアノのフレーズがオーケストラの一部のようになって現れる。コンチェルトでいきなりピアノ
がオーケストラと一緒に出てくるのは珍しいことで、まずそれにびっくりするが、その後は例によってオーケストラが主題をジャンジャカやって、そうするとピ
アノがトリラーを奏でながら今度は本気で独奏者として入って来る。それからはピアノとオケはまるで室内楽のようにフレーズごとの対話を楽しむという風に
なっている。若々しい楽しさに満ちている。そして第一楽章の終わりの部分のカデンツのゆったりした所のピアノの音色がちょっと言葉にならないほど美しい。
僕は古楽器はそれほど好きではないが、これは絶品である。低音部は依然としてあまりいいとは思わないが、中音だけの時は素晴らしい。ちょっと固くて、それ
でいてまろやかな芯があって、その音の中に入っていくと周りの世界が消えてなくなる感じだ。それこそ真珠のようなくすんだ色合いだが、中からの柔らな輝き
がある。それが連なっている感じだ。
ところで第二楽章が更にいい。めずらしくハ短調の、心に滲み入るようなピアノの旋律が、これまた弱音器をつけた弦楽器の序奏の中から立ち現れる。古楽器
独特のフワン、フワンとした中ふくらみのフレーズが絶品だ。モーツァルトは時々、ホロホロと涙を流す。それがこれだ。時おり現れるオーボエの音色もいい。
ピリッとしていて、しかもどこか痛切な悲しさがある。こんなオーボエを吹ける奏者は幸せだと思わせるのである。これもまたオーボエが古楽器のせいなのだろ
うか。
そして涙を流したあとはドンチャン騒ぎをしてみせるのがモーツァルトである。第三楽章ロンドはそういう音楽だ。ピアノがオーケストラと一緒に滅多やたら
と大騒ぎを始める。ところがこの大騒ぎのテーマは何回か出てくるが、ロンド形式にならってその間に別の音楽が挿入されている。そうはいっても、その拍子は
同じで、まあ一種の変奏曲のような趣を持つのが普通なのである。ところがここでは驚くべきことに、彼はその一つとしてメヌエットを挿入している。「これ、
どうなってんの?」と思わず問い返したい感じなのだ。それもロンドの中だからどこか楽しくて、聞きようによっては「何と洒落た!」といいたくもなるもので
ある。事実このメヌエットはそういうものだったのだ。そもそもこのピアノコンチェルトはそのタイトルになったジェノムという女性ピアニストに捧げられたも
ので、彼女がパリジェンヌである事を念頭にモーツァルトが洒落て見せたのである。そのメヌエットが終わると、またしても大騒ぎが起こる。
モーツァルトの大騒ぎは心の底から大騒ぎするのがいい。同じ大騒ぎでもロマン派の連中がやると、「そこまでやらなくても分かってるよ」と言いたくなった
りする。それはたぶん、自分をぶちまけて他人に訴えたい気持がどこかにあるからである。どこかに他人を意識した底意があるから、鬱陶しくなる。ところが
モーツァルトの大騒ぎにはそれがない。自分も馬鹿になりきっている。だから僕らも一緒に馬鹿になる。
ここでもピアノフォルテという古楽器がものをいっている。現代のピアノは優雅さや、豊かな力強さという点で古楽器をはるかに凌駕している。それから見る
と、ピアノフォルテはやっぱり音が粗雑で、ハンマーが弦を叩いているのが如実に感じられる。しかしそれ故にこの楽章など、大騒ぎをしてぶっ叩いている感じ
がそのまま現れて楽しめるのだ。少なくともそういう風に聴くと、この良さが分かってくる。
実をいうとこれを作曲したときモーツァルトはちょうど二十一歳になる頃だった。僕はコンチェルトの第九番という事で、もっと若い頃のものだろうと勝手に
想像していたのだが、二十一歳といえば、もう充分モーツァルトがモーツァルトとして音楽的に成熟していた時である。だからこれが名曲であっても不思議はな
い事を今回知ったのだが、この頃彼がピアノとして高く評価していたのはシュタインが当時開発しつつあったピアノフォルテだった。ところがこのCDの演奏で
使われている楽器は、モーツァルトがウィーンで使っていた古い型(アントン・ヴァルター作)のレプリカだという事である。だからよけい、以上のような印象
をもったのかもしれない。
ともかくモーツァルトはこの作品が自分もとても気に入っていたようで、ピアノコンチェルトとして楽譜を出版した初めての作品だといわれているし、作曲し
たあとパリ・マンハイム旅行(このとき母を亡くす)にも楽譜を携えてゆき、あるいはウィーンに出てからもよく演奏したようである。旧作を演奏会に出すこと
はあまりしなかった時代のことである。
最後にこのCDはアルヒーフから出されているが、ピアニストのマルコム・ビルソンについては何も書かれていないので、何も分からない。しかし実にすっき
りした過不足ないフレージングがいい。乗っていく調子のよさも分かっていて、好感がもてる。オーケストラはイギリス・バロック・ソロイスツという古楽器の
合奏団で、指揮者はエリオット・ガーディナーである。ガーディナーは時々変な解釈をするが、僕は素晴らしい指揮者だと思っている。様式感覚に優れているか
らだ。 (2015/04/30)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ジョー
ジ・セルといえば御存知のように、クリーヴランド交響楽団を世
界的なオーケストラに育て上げた人である。彼の演奏は明快で品のいいものだった。そ
の
彼がじつは戦後間もなく録音したレコードにこのモーツァルトのピアノ四重奏曲がある。もちろんSPレコードで録音したものだが、僕がもっているのはそれを
CDに採録したものである。だから録音は悪い。SPの針の音が残っていて、レコード盤の中の方にくると音質が悪くなるのがそのまま再生されている。だから
その点はお勧めできない。しかしながら演奏そのものは絶品である。たしかに録音がいいに越したことはないが、ぼくらの感性はそういうのを越えて、音楽の美
しさをキャッチできる能力をもっているのは有り難いことだ。僕等の子供のころは実際に、小さな歌口しかない手巻きのポータブル蓄音機で、文字通りレコード
を擦り切れさせたものである。今も残っているが、クラシックものとしてはハイフェッツの「チゴイネルワイゼン」が僕の初めてのレコードだったし、それから
シュトラウスの「ウイーンの森の物語」とか、「白鳥の湖」の間奏曲、リストの「ハンガリー狂詩曲」の第二番などで、小学校の五、六年のころ、これらのSP
レコードでクラシックの世界に熱中していったのである。その事を思えば、この録音の悪さに文句をつけるのは贅沢といってもいいだろう。
ともかくこの演奏はいい。モーツァルトの室内楽の醍醐味を味わわせてくれる。といってそれが何か僕等に感動的な心の揺さぶりをかけてくるというようなも
のではない。そういったものを期待してこの曲を聞いたら、ちょっと間の抜けた穏やかな音楽のように思えるかもしれない。
たしかに冒頭の弦楽のトゥッティ(総奏)は短調で、何かしら激しいものを訴えかけるようだ。しかし一小節半のその問いかけに答えるピアノのパッセージは
まるでそれを宥めるかのように優しく軽やかに答える。その応答が二度繰り返されると、もう冒頭の激しい問いかけを忘れ去ったかのようにピアノと三つの弦は
たおやかな対話を繰り広げるのだ。その展開は僕らの心を和ませてくれる。決して訴えかけることをしない。「そうだったのか」とみずから納得でもしたかのよ
うに、優しさが流れて行く。たとえば冒頭の激しい問いかけのモチーフはそのあとソナタ形式にならって何度も現れる。しかしその激しさを再現するのはまさに
再現部の冒頭とコーダのときだけであって、そのほかのところでは、素敵なモチーフとなって軽やかに、優しく歌う。とりわけかなり早い時期に出てくる弦だけ
によるこのモチーフは信じられないほど優しい姿をとっているし、展開部での扱いはモーツァルトならでは転調が、得もいえぬ変容をみせて、最高に素晴らしい
部分である。
しかしほんとうを言うと、こういう風に音楽が流れてくれる演奏にはめったにお目にかかれないのだ。そもそも最初がやたらと激しい問いかけで始まるのが多
い。そういうとき、僕は思わず、「モーツァルトはそんな風に、なりふり構わず問いかけるような事はしなかった人ですよ」といいたくなる。彼はたしかに日常
生活では結構好き放題ふるまった人で、ときには極めて激しいやりとりをした事が彼の手紙から分かる。しかし、音楽ではどんな事があってもベートーヴェンの
ように激しく訴えるような事はしなかった人だ。
のみならず問題はそれに答えるピアノである。あの問いにうまく答える人はめったにいない。最初の訴えが激しければ激しいほど、つまりセンスがなければな
いほど、ピアノはそれに乱暴に答えてしまう。あるいはピアノの最初に出てくる付点のえもいえぬニュアンスを無視して十六分音符の下降音階に突入する。いや
彼、彼女はそれが問いかけに対する応答であり、しかもそれが、なだめるがごとき答えであることすら自覚していないのである。要するに問いかけの激しさその
ままに、まるで問いの続きのように激しく弾いてしまうのである。一体「この麗しい音楽を何と心得るか!」と一喝したい気分になる。
そうなると、第一楽章が終わって一刻も早くホールを出ることができないかといらいらさせられる事になるのである。自分でわがままだと思いながら最近は、
演奏にたまらなくなって飛び出す事がある。そこまでしなくてもと人はいうが、僕には拷問に等しいのである。展覧会ならもう見ないでさっさと会場を出られる
が、音楽会はそうはいかない。どうしても音が入ってきて、脳細胞が混乱をきたし、頭の中の神経回路が不快な酵素と電流に満たされたようになってしまう。そ
うなると、「金を返せ」とまでいいたくなる。音楽が好きだという事も難儀なものだと思うのである。それでどんなBGMもイヤだし、音楽を聞きながらの「な
がら族」が僕には全く出来ないという難儀なしっぺ返しを受けているのである。
ともかく第一楽章がそのようであれば、第二楽章はいわずもがなというところであろう。八分の三拍子がゆったりと流れて殆ど眠気をさそうが如きものだ。そ
してそのむつむつとした流れから心地よく僕等を目覚めさせるのが、フィナーレの第三楽章だ。なにか字余りを思わせるモチーフが転びつ、まろびつという風に
展開してゆく。これもさして人を惹きつけるようなものではないが、それでいて、心地よいユーモア、遊び心にみちている。ああ、楽しかったね、という風だ。
実際僕らがピアニストを迎えたときは、よくこの四重奏曲で遊ぶ。しかし問題は弦楽アンサンブルにピアノを加えたら、とたんにアンサンブルが難しくなると
いう点である。というのは、まず第一にピアノは弦楽器に比べるとあまりに大きい。だからほっておいたらとんでもないヴォリュウームになって、バランスが毀
れる。日頃、そのバランスに弦同士でさえ神経をすり減らしている僕等には、それがたまらないのである。それとともに、ピアノが入ると、大抵はピアノが結局
は音楽を作ってしまうことになりかねない。というのはピアノは左手の伴奏でリズム体系を作ることが多いからである。そしてリズムこそ音楽の基本的性格を決
めてしまうからである。ところが八分音符が八つ並んでいても、そのなかに微妙な違いがあって、それを日頃カルテットでは四人で作り上げていく。リズムもバ
ランスもそうだ。それはいつも四人がお互いの呼吸を察しながら、次第に生みだされるものだ。その辺の機微を察知してもらえずに、結局自分のリズム感覚で全
部やられてしまうことが多いという事である。
まあそんな苦労を重ねて来ただけに、ジョージ・セルのピアノは感に堪えていいわけだ。アンサンブルもモーツァルトも心得たこんなピアニストが来てくれな
いか、などと思いながら僕はこのCDを聞いているわけである。因みにこのCDはソニーのクラシカルというシリーズに出ていて、セルの相手を勤めているのは
ブダペスト・カルテットである。
(2015/04/16)
ページトップに戻る
トップページに戻る
モー
ツァ
ルトのヴァイオリンソナタの名演という事になれば、モーツァル
ティアンが必ずあげるのがグリュミオーであるといっていい。僕もそうだ。彼ほど過不
足なくモーツァルトのヴァイオリンソナタの素晴らしさを聴かせてくれる人は他にいない。
どこがいいのか改めて思い起こしてみると、やっぱりセンスがいいという言葉しか浮かばない。彼の音色そのものは僕のオーディオセットが貧弱なせいか、と
りたてて魅力的なわけではないし、いわゆるヴァイオリンらしさを存分に聴かせるような音色でもない。しかしそれは逆にグリュミオーのセンスがそうさせてい
るようにも思える。
たとえばヴァイオリンらしい音色に魅せられて、それを生き甲斐に感じるようなヴァイオリニストなら、パガニーニに魅力を感じたり、チャイコフスキーの
ヴァイオリンコンチェルトに情熱を傾けるだろう。そしてもしグリュミオーがそういうヴァイオリンの魅力にひかれる人なら、おそらくそれに適した楽器を探し
求めたはずである。しかしそういう楽器はモーツァルトのソナタには向かないのである。たぶん音色自身が派手すぎる事になる。だからモーツァルトを最高の音
楽と考えたグリュミオーは、そういう楽器も奏法もとらなかった。
これは僕の勝手な想像だが、多分そうに違いないと思う。違いないと思わせるほどグリュミオーのモーツァルトは上品だ。決して楽器にものを言わせて相手を
圧倒するような事はしないし、音色に自分で酔ってしまうようなものでもない。モーツァルトの音楽自身がそんな品のない事はしていないからだ。
ともかくクララ・ハスキルと組んだk.378の何という素晴らしさだろう。第一楽章冒頭のハスキルの姿美しいテーマをグリュミオーが分散和音で支える。
分散和音こそ、出過ぎてはいけないし、引っ込みすぎてもいけない。ただひたすら何気なく、何気なく付けないといけない。それでいてテーマを支え、テーマを
豊かに感じさせる何かがいる。それは八分音符一つ一つのわずかな強弱の差であり、弓のスピード、圧力の違いである。そして何よりリズム感。それらすべてが
「何気なく」流れてゆく。これぞ分散和音の極意である。僕は長年クァルテットの第二ヴァイオリンでこういう分散和音ばかりやらされて来たから、グリュミ
オーの分散和音だけで感に堪えてしまう。そこにハスキルの流麗で端正なテーマがそれに乗ると、もう天国にいる気分だ。
実はこの曲は、小学生のころヴァイオリンを習い初めて間もなく練習したものである。戦後の大阪の焼け跡に住んでいて、町工場のお兄さんが僕の先生だっ
た。そのころモーツァルトも何も分からなくて、ちっとも面白くなかった。ところが大学生のころグリュミオーのレコードを聴いて、最初どうしても同じ曲とは
思えなかった。小さいときとはいえ、ひどい事をしていたものだと思う。
その意味では第二楽章こそまったく別の曲だった。ピアノ伴奏など全くなくて、この第二楽章のゆっくりした単旋律をギーコ、ギーコ弾いてみても何のことや
ら分からなかったとしても無理もない。そう自ら慰めるしかない。ともかくハスキルとグリュミオーは、これ以上ないアンサンブルでモーツァルトの悲しみに僕
らを誘う。これは長調だ。でもなんという悲しみであろう。長調でこんな悲しみを感じさせるのはやっぱりモーツァルト以外にない。次々に現れる旋律の変化と
和声の変化、そしてピアノとヴァイオリンが交わす対話、そういった変容はモーツァルトの心がとても悲しかった事を僕らに伝えてくれる。何と心やさしく悲し
かったことか。その心持ちをどれほど上品に伝えていることか。グリュミオーとハスキルの演奏は誰が弾いているのかを忘れさせて、ひたすら僕らをモーツァル
トの心の世界に誘うのである。
そしてその世界からパッと目覚めさせるのが第三楽章である。この第三楽章も、その速さに手こずった記憶がある。とくに後半の三連符がそうだった。今なら
何とか弾けると内心思ってみても、グリュミオーの演奏を知ってしまった僕にはもう弾けない。この楽章など、並のヴァイオリン奏者なら、ついバキバキッと弾
いてしまうところだ。だがグリュミオーはまかり間違ってもそうは弾かない。ハスキルもそうだ。何という軽やかさ、華やかさか。この華やかさはしかし、「秘
すれば華」の華やかさだ。
そしてここまで来るとグリュミオーやハスキルのセンスが単に音楽上のセンスだけでなく、むしろ人間としてのセンスの裏付けられたものである事が分かる。
だからこそ最高のモーツァルト理解を示し、最高のモーツァルト演奏になっている。 (2015/04/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
歌
曲の
中でも
モーツァルトの
歌曲はやっぱり古今の歌曲の中でも最高峰だと思う。ピアノやヴァイオリンの演奏でもモーツァルトが試金石になるように、モーツァルトの歌曲もまた歌手のあ
らゆる能力や資質が試されるのである。オペラという事になると、例えばプッチーニとかワーグナーのアリアが見事に歌えれば、それはそれで一流の歌手になれ
るが、歌曲はやっぱりモーツァルトという試金石が待っているという感じなのだ。だがそういう事であれば、これが歌える歌手は滅多にいないという事にもな
る。
たとえばリート歌手として僕が惚れ込んでいるバーバラ・ボニーでさえモーツァルトになると全く駄目なのである。モーツァルトの歌曲はちょうどモーツァル
トのヴァイオリン奏者が滅多にいないのと同様なのだ。ところがある時たまたま手に入れたジュリアン・ベアード(Julianne
Baird)というソプラノ歌手のモーツァルトがよかった。
彼女の名前は日本では殆ど知られていない思う。解説によるとバロック系のオラトリオなどを得意にしている人だという事だが、とにかく全く名前も知らない人
だった。
ところで彼女の演奏だが、決して発声がよく練れているわけではない。まるで少年少
女合唱団にいた人が、まともな発声のトレーニングも受けないまま歌手になってしまったという感じの発声で、その点はちょっと信じられないほどである。声の
出し方に何の工夫もなく、ちょっと空気漏れのする声で、素直に高音を出しているだけなのである。その歌い方もいわばシュワルツコップの様子たっぷりの歌い
方の対極にあるような歌い方である。ところがこれがとてもいい。僕はともかくこの人のモーツァルトが良くて、疲れたときなどこれを聞いていると、知らぬ間
にいい気持ちで寝込んでしまう。僕にとっては最高のモーツァルトなのである。
こんないわば素人じみた歌がどうしてそれほどいいかと思い返してみると、まず僕が感心するのは、彼女のスタイル感覚である。大体、歌手というのは発声の
事に気をとられるか、やたらと思いこみを込めて歌う人が多くて、スタイル感覚など二の次三の次の人が多い。オペラ畑の人はもちろんだが、リート畑の人もそ
ういう人が結構多いのである。さっきあげたボニーがやっぱりそうなのだ。ところが、ベアードは見事なまでにモーツァルトの様式感覚を身につけている。様式
感覚というのは、具体的にいうと、モーツァルトのテンポとフレーズの取り方の事である。これが過剰になっても少な過ぎてもいけない。その過不足ない表現方
法というのは、経験がいるとともにセンスがいる。そしてそれは歌ばっかりやっていては身に付かないものなのである。少なくとも最初にロマン派から感情的に
入って行くとこうはなりにくいと思うのである。
そこで想像をめぐらすと、彼女がこういうスタイル感覚を獲得したのは彼女がバロックを主にやって来たからではないかと思われる。モーツァルトにはもちろ
んロマン派に通じるロマンティシズムが溢れているといってもいいが、それがあるだけに、現代の演奏家はとっつきやすいロマン派的な感情から入っていって、
モーツァルトの本当の素晴
らしさの直前で満足しているという感じがするのである。その点、バロックから入っていくと、モーツァルトといわば同じ音楽経験をしてモーツァルトに到達す
るというプロセスを踏む。だからモーツァルトの音楽の生まれたときの素晴らしさがその様式感覚と共に素直に入ってくるのではないかと想像されるのである。
彼女の素晴らしさの一例をあげると、有名な「魔法使い Der
Zauberer」というのがある。この曲は御存知のように初めて若者に恋をした娘が、若者の事を「魔法使いに違いないわ!」と何度も歌う。「だって、彼
に初めて会ったとき、いままで感じたこともないものを感じさせられたんですもの、……彼に見つめられて、あたしは真っ赤になったり、真っ青になった
り、……何も見えず何も聞こえず、『はい』と『いいえ』しかいえないの、……あたしは逃げようとしたけど、ついていってしまったの
……抱かれたとき何という甘い苦しみだったでしょう、お母さんがそのとき運良くやって来たからよかったようなものの、そうでなかったらどうなっていたで
しょう、彼は魔法使いだわ!」といった詩である。素敵な愛らしさにみちたものだ。
ところがこの愛らしさをそのままに歌った演奏にはまずお目にかかれない。この詩に見られる恥じらいや驚き、不思議な恋のときめき、そういったものが、往
々にしてまことにに厚かましいばかりの歌唱で歌いまくられるという感じなのだ。そうでなければ、妙に様子たっぷりに歌われて、この娘はカマトトかと思わせ
てしまう。ベアードが初めてその愛らしさを歌ってくれたように思う。
そして「別離 Das Lied der
Trennung」がいい。彼女が歌うとき、決して別れの悲しさをたっぷり訴えかけるのではない。むしろ、そこはかとない悲しさが伝わって来る。それだけ
に悲しさが僕のなかに染み込んでくる。ほんとうに体中が悲しくなる。それで充分なのだ。ただひたすら素直に、真っ直ぐに自分の声で歌えばいい。それ以外何
がいるのだろうかと思わせる。「夕べの想い Die
Abendempfindung」もそうだ。その飾り気のない歌唱のなんという素晴らしさであろう。そしてまた「すみれ Das
Veilchen」の可憐さも特筆してよいだろう。あるいはまた彼女のスタイル感覚を如実に示しているのが、「秘めごと Die
Verschweigung」とか「満足
Zufriedenheit」といった曲である。これらの三拍子の曲はじつは極めて器楽的な旋律構成をもっている。それは弦楽四重奏曲のメヌエットにでも
なりそうなモチーフである。これをいかにも歌曲的に思い入れを込めて歌うとその様式感覚が出てこない。そう言うことに彼女が気付いていたかどうか分からな
いが、大抵の歌手はそんな事は全く気付いていないとしか思えないのである。
そういえば一般的にいってモーツァルトの歌曲はロマン派のものに比べて器楽的な旋律が多いし、それだけ旋律がかなり飛躍する事も多くて、プロの技術を必要
とする。たとえばシューベルトの歌曲は民謡からそのエッセンスを汲み出してきたように、素人にも口ずさめるようなメロディが多いが、モーツァルトの歌曲は
そうはいかない。実際にモーツァルトの時代の歌曲は最初からプロの声楽家を念頭において作曲されている。だから技術的にも本当に難しいのであろう。ともあ
れそういった様々な要素があるうえに、最高に洗練された音楽的センスを要するとすれば、ここでもモーツァルトは演奏家の試金石なのである。そしてそういう
要素を素敵に身につけているのがベアードである。それが彼女の発声の稚拙さを忘れさせる。素敵な声楽家だ。
付け加えると、ピアノ伴奏はコーリン・タイニーという人で、この人も名の知れた人ではなさそうだが、ピアノは古楽器の当時のピアノフォルテを使ってい
て、これまた素晴らしい。このピアノとベアードの歌の姿がぴったりとマッチしている点も特筆していいものだと思っている。
(2015/03/15)
ページトップに戻る
トップページに戻る
実は小
沢征爾のモーツァルトのCDを持っているわけではないし、そも
そも彼のモーツァルトのCDが出ているかどうかも知らない。僕の知っているセイジの
モーツァルトは、実はサイトウ・キネン・オーケストラが松本の音楽祭で行ういつものアンコールで演奏するケッヒェルト136の第二楽章のテレビ放送だけな
のである。それだけでセイジのモーツァルトを論ずるのは危険ともいえるが、僕にとってはあれで充分過ぎるほどのインパクトがあって、あれだけで語るに値す
るのだ。それでk. 136の第二楽章の演奏について書く事にしよう。
小沢征爾は僕にとっては、青年時代、何か自分の身代わりになって活躍してくれている人のように思えた人だ。僕自身、指揮者になる事を熱望しながら果たせ
なかったその願望を、彼はそのまま満たしてくれた。しかもその音楽の何というみずみずしさであり、激しさであろう。もう何十年も前に初めて彼が関西に来て
大フィルでストラヴィンスキーの「春の祭典」を振ったとき、その衝撃はまさに鮮烈だった。その後ボストンを中心に活躍する彼の後期ロマン派以降の演奏はほ
んとうに素晴らしかったし、今も素晴らしい。のみならず以前のセイジはモーツァルトなどの古典も時々演奏して、それはそれである種のみずみずしさを感じさ
せてくれた。要するに僕はセイジの絶対的ファンだったのである。
しかしながら、である。あのk.136の第二楽章は何という演奏であろうか。いうなれば白目をむいて、のたうちまわるモーツァルトを初めて聴いたとき、
僕は何ともいえず悲しい気持ちに襲われたのである。どうしてセイジはこんな風になってしまったのか。すくなくともあれはモーツァルトではない。残念ながら
断じてモーツァルトとは呼べないものなのだ。どんな事があってもモーツァルトは白目をむいてのたうち回るような事はしない。いつか別の所で書いたように、
モーツァルトもまた野人と呼んでさしつかえない人である。彼の激しさにはそれがある。しかしモーツァルトはその激しさを呼び起こす対象のどうにもならなさ
をスキッと見通す力があった。そして自己の激しさそのものをも見通せた。だから諦念というものを持っていた。そこにモーツァルトの知性がある。
そこまで話を進めてゆかなくても、あの第二楽章の悲しさは十六歳になったばかりの頃の、今で言えば高校一年の終わり頃の少年の悲しさである。その旋律は
一種の秘められた悲しさを歌い、そこに爽やかささえあるのだ。そういった趣が一切無視されて、情念がのたうちまわる曲にされてしまったのがセイジの演奏な
のである。
一体どうしてこんな事になってしまったのであろうか。
もともとセイジにはそういう危険性があった。例えばブラームスのシンフォニーの演奏がすでにその危険性を十二分に示していた。彼のブラームスの迫力は素
晴らしい。おそらく生演奏に接したら、否応なしに僕らの心が揺さぶられるものをもっている。それを逃れることは出来ないだろう。しかしながら彼はここでも
白目をむいているのだ。ブラームスがどれほど情念の人であろうとも、しかも抑圧されているがゆえによけい秘められた情念が沸々と湧いている人であろうと
も、彼にはやはり節度がある。そして古典派から受けついだ骨格がある。その骨格と節度が彼の音楽に一種の品格を保証している。そこの所への感受性を欠くと
ブラームスはのたうち回る情念となり、否応なく人を引きずり込む情念となる。そして日本人のブラームス好きの演奏家にはこのタイプが実際に多い。しかしそ
れでは間一髪のところで彼の品性をおとしめてしまう事になるのである。
実はセイジはその点で、まさに第一歩を踏み出してしまっていた。彼のブラームスのシンフォニーはすべてビデオで僕は持っているが、いずれもそうなのであ
る。彼は年をとるにつれて、どんどんそうなっていく姿が分かるのだ。それが悲しい。彼が大指揮者として自信を深めれば深めるほど、彼は自分の感じたままに
それを堂々と表現し始めた。するとどういう事だ。彼の地がますます丸出しになってくるという印象なのだ。フォーレの「レクイエム」の演奏もそうだ。そして
その極めつけがk.136なのである。
何と人間は悲しい存在なのであろうか。自分に正直になればなるほど地が出てしまって、それがまた品のない自分であったりする。しかもその上、自分にはそ
れが全く見えないという事態が生ずる。長い間かかって自分の道を探しつづけて、やっと「これだ!これで生きてゆける!」と自分を見つけ、自信らしきものを
得たとたんに、そこに落し穴が待っている。しかしそれが才能に裏打ちされている時、社会もそれを認めて社会的地位も確保されたら、もはや本人には目覚めよ
うもない事になってしまう。むしろ自信にあふれて墓穴を堀始めるという事態さえ生じかねない。
僕はセイジを批判する気は毛頭ない。彼は彼として精一杯生きてきたし、あとで人にどう評価されようと、あのような音楽を実現してゆく事が彼が生きてゆく
という事だからだ。マーラー以降の作品に関しては今も本当に素晴らしい。彼はその人生をまっとうして欲しい。しかし彼のモーツァルトは断じてモーツァルト
ではないし、ブラームスでさえ本当のブラームスではない。その点を見誤ってはならないと思うのだ。
(2015/03/02)
ページトップに戻る
トップページに戻る
実
は
グールド
のモーツァルト
のピアノソナタという事になれば何番を取り上げても
よかったのである。
もう無条件にいい。宝石がバラバラと降ってくるあの世界はモーツァ
ルトであればど
のような音形であろうと夜空のキラ星の宇宙がそこに現れる。普通
の演奏家に比べて
驚くほど左手の音が大きい。とりわけ低い音がそうで、それも旋律
はいうに及ばず、
分散和音を平気でドテドテ、ドテドテとやる。この曲でもそうだ。
明
らか
に異常
と
思え
るほどのものである。にもかかわらずいい。そのあたりもまた宝石
だ。いわば原石が
煌めきながらゴロゴロころがっている。
これ
は一見
無神経
と思えるほどのものだが、これほどモーツァルトが分かっているピ
アニストが他にい
ないとすれば、グールドは分かってしているのである。いや多分、か
れはそう弾かざる
をえないのである。彼にはモーツァルトの音楽の構造、一つ一つの
音の全体に対する
意味がはっきり見えている。右手がメロディーで左手が「伴奏」な
どという他愛もな
い「解釈」など彼には無縁なのだ。それぞれの音がそれぞれに所を
得て喜んでいる。
その喜びが彼に乗り移ったとき、すべての音が呼応する。低音は低
音の喜びを語るの
である。そして第1楽章は宝石の雨を降らせるのだ。
つぎ
に緩徐
楽章が
来る。彼の緩徐楽章ほど彼の音楽センスの素晴らしさを語るものは
ない。一見まるで
釘折れのような、ペダルなしの旋律を奏でながら何という美しさ。
あ
らゆ
る曖昧
な
飾り
を拭い去ったときに現れる美の形がそこにある。こういうのを聴い
てしまうと、ヘブ
ラーのモーツァルトなどまるでお嬢さん藝に見えてしまう。左手の
一音一音が切れ切
れになった分散和音も、「そうだよな、それで充分だよな」と思わ
せてしまうのであ
る。かれのフレージングの凄さは、これ以上ないほど自由気ままに
弾いているように
見えてまた、これ以上ないほど音楽理論にかなっている所にある。
こ
れは
凄いこ
と
だ。
天才奏者はすべてそうだといってよいのだが、この内から湧き出る
即興性に従うこと
がそのまま楽理にかなった動きになっている。自然にそこまでなる
には大変な技術的
修練がいったであろうが、彼の澄み切った音の構成とあらゆる虚飾
を拭い去ったフ
レーズはことのほかその事を感じさせるのである。
そし
て第三
楽章
フィナーレの軽やかさと爆発的推進力。どんなに速くなってもあらゆ
る部分が納得でき
る形と音色をもって進んでゆく。花火が夜空から降ってくる想いだ。
彼が小さい喉声
でハミングさせながら弾くさまが眼に浮かぶ。
これ
はまぎ
れもな
く狂気の世界である。それは美神にとりつかれた世界だ。ここまで
美神に魅入られた
とき、人は死しか残されていないのではないか。生は不要になった
のではないか。僕
にはそんな風に思える。そこがグールドの最大の衝撃だ。
(2015/02/22)
ページトップに戻る
トップページに戻る
この
夏から
やっとチェリビダッケのC・Dが大手を振って市場に現れた
(注1)。
あ
りが
たい事
だ。御存知の方も多いと思うが、彼は生前、放送交響楽団の
指揮者まで勤めながらレコードやC・Dを断固として認めなかった。音楽は実演でこそ瞬間芸術としての生命を実現するのであり、C・Dはいうなれば印刷され
た絵と同じで、本物ではないという事なのである。
とは
いえ実
際には膨大な録音が残されていて、息子の代になってやっと
これがC・Dの市場に解放される事になった。これはチェリビダッケ・ファンにとっては福音である。
僕が
チェリ
を知ったのは最近のことだが、それも例によって海賊版だ
が、とにかくすごい人だ。本気で書けば一冊の本になる人だが、ここではちょっとサワリだけ書いてみよう。
僕
の
持ってい
るC・Dは交響曲第四十一番「ジュピター」である。この演
奏も例によって、ひとときも僕を休ませてくれない。フレージングを初め、どんな細部に至っても、通常僕らが聞き慣れている音楽のつくりと少しづつ違うから
だ。あらゆる所に彼の神経が行きわたっている事がどこにも感じられて、それが僕を眠らせないのである。
しか
もそれ
は普段の演奏と変わっているというだけではない。あの頑固
な独裁者の行動からは全く想像出来ないほどたおやかで、艶やかで、麗しいレガートの旋律が流れて来る。とりわけ弦の美しさは文句無く世界一の艶やかさがあ
る。初めて聴いたとき、ほんとに信じられない思いだった。あれほど美しいレガートを、あれほどの歌心で作った人は他にいないと思う。しかもそのフレーズは
全く理にかなったオーソドックスなものである。全く正統派のフレージングの強弱を、大きな波から小さな波にいたるまで正確にやる。むしろ「そこまでやる
か!」というほど完璧にやっている。にもかかわれず、いやそれ故にというべきか、とてつもなく美しい旋律が流れて来るのだ。
チェ
リビ
ダッケは、御存知の方もおられるだろうが、並外れた独裁者
だった。演奏の細目はおろか、スタッフの選考から曲の選定、練習の日程や時間など、あらゆる問題について自己の主張を押し通した。それが出来なければ仕事
から身を引くだけだ。そういう個々の行動を知れば知るほどこの演奏が不思議にさえ思えて来るのだが、あれほどの美しい音楽を聴かされると、別の考えにたど
り着く。かれの行動と音楽の美しさは実は相反するものではなかったに違いないと。つまりあのたおやかな美しさを心の中でいつも養い育てるには、大変大きな
ガードが必要で、そのために頑固な独裁者になる必要があったのではないかと。そうに違いない。少しでも俗に紛れたら、あの美しさは枯れて汚れてしまうだろ
う。
にも
かかわ
れず、やっぱり神経が疲れるのだ。僕には疲れるのだ。ピリ
ピリした彼の神経が、一つ一つのフレーズ、一つ一つの楽器に次々と現れて、僕の神経がその一つ一つの応接にいとまがなくて、草臥れるからだ。その一つ一つ
を説明してゆけばきりがない。「そこの最後のジャン、ジャンという二つの音ぐらい、好きに弾かせてやれよ」い言いたくなる。でも彼はそれを許さないのだ。
「タッ、タッ、ターヤン」というフレーズがあったら、三つ目の「ター」は弓の加減と、弾くときの動きからちょっとは大きくなるものである。でもそれは絶対
ダメなのだ。その時は下の方でチェロが主旋律を奏で始めるからである。やっぱり疲れる。実はこういった神経を使う人にカラヤンがいる。でも質が違うのであ
る。カラヤンの中で鳴っている美しさはやっぱりどこか低俗なのである。
しか
しそう
いう風に言えばチェリビダッケの音楽の質が大変高級で品性
が高いとばかりも言えない。それがまた問題で、僕が疲れる一因はそこにもありそうなのだ。
た
とえ
ばチェ
リは信じられぬほど神経が研ぎ澄まされているのだが、それ
はいわば「現代人」のピリピリした神経のように思われるのだ。とてつもなく美しい。しかしそれはチェリという一人の個人が、自分の心の部屋で感じているも
のだ。そんな風に感じさせてしまうのである。彼の独裁者の行動と全く別の何かを感じてしまう。そこに一種の痛々しささえ僕は感じてしまうのである。
その
点ベー
ムは僕を安心させ、眠らせてくれる。チェリからすればベー
ムはぬるま湯に浸かっている男にすぎなくて、現にチェリはベームのことなど歯牙にもかけていない。しかしそれは違うのだ。むしろチェリの方にとても大きな
問題があるように思われる。それはチェリの中にある、ある疎外された人間の美意識とでもいったものである。ここでは残念ながらその話は出来ない。それはい
つか別の機会にゆずろう。
た
だこ
こでい
える事はチェリがそんな問題を抱えていただけに、かれの
モーツァルトの演奏は、全く他に例を見ない痛々しい程の美しさを奏でているという事である。
注
1:
これが
書かれたのは1998年の1月で、冒頭で「この夏」とい
うのは1997年の
夏のことである。
(2015/01/31)
ページトップに戻る
トップページに戻る
こ
れか
らモー
ツァルトの演奏で気に入ったものや目にとまったものを書く
事にしたい。僕のC.Dや
レ
コードの
数は、実は貧弱なものだが、それでもあれこれ想いをめぐら
すには不自由しない程度にはあるから、それをもとに書いてみよう。
何
より
もまず
僕の敬愛するベームから始めよう。中でも交響曲第二十九番
が僕にとっては最高のものである。疲れた時など、ふと手がいくのだ。オーケストラはベルリン・フィルのものだが、聴きはじめると、こんなに姿のいいモー
ツァルトの実演はもう聴くことも出来ないだろうと、いろんな空想に耽ってしまう。
姿のよさという事になると、何より
もそのテンポがいい。現代の演奏スタイルからいうと信じられないほどゆったりしたテンポで曲が始まる。テーマは御存知のように、単純この上ないものだ。ま
るで曲が終わった時のように、いきなり「ターン、ターン」と一オクターブの下方への跳躍が弦楽器で響いて来る。するとオクターブ下り切ったその低弦の響き
を踏み台にして、八分音符のキザミが元のA音にエコーのように返って来る。そのキザミが一小節続くとその動勢は、
一音上がったB音の下方跳躍を誘い出す。そうすると下り切ったB音を踏み台に
して、今度はオクターブの上のB音の八分音符のキザミが始まる。二小節単位のこのモチーフは動勢をはら
ませながら、全体としては一音づつ上昇していって、遂にフォルテのトゥティへと向かっていく。
ベー
ム
の素晴
らしさは、この緊張をはらんだ動きが、何ともたおやかに進
んでいくところにある。決して急がずあわてず、ゆったりと、しかも何かしら心が高揚していって、遂にフォルテのトゥティがやって来た時、僕等の心は、広や
かな潤いに満たされる。それは幸せに自足していながら、それゆえにまた他者と幸せを分かち合う心の用意が、気持ちよく整って来るという風だ。
ところが楽譜だけ見ていると、こん
な単純な音形からどうしてこれほど豊かな世界が拡がって来るのか不思議に思えるほどだ。この単純な音形を生き生きとさせるには、何かメリハリのきいた演奏
をするしかないのではないかと思えて来る。実を言うとホグウットやアバドがやっているのがそれなのである。彼等はこの音形を、モーツァルトのあの生き生き
したリズム体系の方に引き寄せて解釈する。それは「歓び」の音楽に変質する。しかしながら、そのように変質させてしまう所が実は、現代人の「悲しさ」では
ないのか。僕にはそんな風に思えるのだ。
ベー
ム
のモー
ツァルトは、単なる歓びであるよりは、はるかにひそやか
で、どこか哀しみさえ感じさせる。その演奏は歓びの爆発ではなくて、心が豊かに広がりうる幸せなのである。そしてそれはまさに、ベームという人の心の豊か
さそのものであり、彼の教養の深さを示しているのではあるまいか。
この点で面白いのは、ベームがモー
ツァルトの交響曲全集を収録したオーケストラ、ベルリンフィルとの組み合わせである。実はこの二十九番こそ見事な演奏をきかせてくれるが、この全集を聴い
ているとベームとオーケストラとの間に時々、くい違いが生じているのである。例えば有名な交響曲第三十五番「ハフナー」の第一楽章がそうである。初めてこ
のC.Dを聴いた時、僕は一瞬、アレッと思った。最初全音符で始まるオクターブ
のテーマが、何となく気ぜわしいのだ。僕はベームへの期待が大きかったから、「これはおかしい、絶対おかしい、いつものあの豊かなベームと、違う」と心の
中で叫んだのだ。最初の全音符の所はいいとしても付点のはずむようなモチーフに来ると、何かつんのめった様に気ぜわしい。ところが二、三小節進むとまた元
に戻る。それからまたつんのめりかける。 こ
れはベームとちがうのである。明
らかにベルリンフィルの連中は、いつもの気っぷのいいスタイルが身についてしまって、しかも自信さえもっているから、ちょっとした所でつい自分たちのテン
ポとスタイル感覚が出てしまうのだ。この録音では、皆がやっとベームの棒の流れに統一されるのは展開部になってからである。ここに来て初めて「そうだ!そ
れでこそベームのハフナーだ!」と思わせる。 多分二十九番の場合があれほど見事
なのは、ベルリン・フィルの連中のいつものテンポとあまりに違いすぎたから、彼等も全く新しい気持ちで曲に向かえたからである。ところがテンポの差があま
りない時は、プロの彼らでも、その差が音楽的に絶大である事に気付かない。それでつい地が出てしまうという感じなのだ。
以
上の
感想
は、僕の勝手な想像であるが、実情は間違いなくその通りだっ
たろうと確信している。それはそうなのだが、ほんというとベームが生きている時に直接会って、彼に訊きたかったのである。「ベームさん、あの録音のとき、
ベルリンフィルがあのフレーズをつんのめったと思わなかったんですか」と。「あの二回目の旋律はもう少し落としてほしかったんではないですか、それから旋
律の収め方も、もう少し上品にしてほしかったのとちがうんですか…」。
ベル
リン・
フィルとの演奏の時は、いつもそんな空想をしてしまう。
そ
れで
やっぱ
りいいのはウィーン・フィルとベームの組み合わせである。
わが家でビデオに収録してある「ジュピター」の演奏はその点、どこも文句なくて、この曲などは、めずらしくベームが第四楽章の山場でのめり込んでさえい
る。すごい勢いがついてしまって、その勢いの中にベームが没頭している。そういうのを見ていると実に嬉い。ベームの精神の深さに、「これはどう逆立ちして
も、かなわない」と常々思っている僕には、ベームの没入した姿が、とても親しいものに感じられるからだ。深い静けさや豊かさの点で彼ほどの人はいないと思
うのだが、その彼が情熱の中に没入する。そこに真の豊かさを僕は感じるのだ。 (2015/01/24)
ページトップに戻る
トップページに戻る
60周年の記念演奏会も終えて、ちょっと気持に余裕も生まれたところで、僕のこれまでのCDに
対す
る
ちょっとした評論をこの「アトリエ」欄で掲載することを思いつきました。 じつは、これから掲載するのは僕が昨年まで会長を務めていた神戸モーツァルトク
ラブの機関誌「ケッヒェルゼロ」に載せていたものです。いつか、こういう小論を集めて本にすることを考えていたのですが、最近の出版事情を見ていると、と
ても生きている間に出版出来そうにありません。
それでせめて六甲男声の諸兄に読んで頂ければと思った次第です。練習でも色んなことを折りに触れて話したりしますが、ここではまずモーツァルトの演奏につ
いて、様々なCDを
採り
上げて
います。それが18回ほどあります。
その次は、モーツァルトに限らず僕が愛聴してきたCDを
採り
上げま
す。これは27回ほどです。
以
上は
いわば
愛聴盤です。ただこの際、申し訳ありませんがCDの
製品
番号
は書いていません。実はコピーして頂いているCDも
多く
て、正
確なことが判らないのも多く、それと僕の横着さが加わっ
て、今となっては確かめようもないというのが実情で申し訳ありません。
こ
れら
が終
わったら、次は日本歌曲を歴史的な順を追って書きます。これ
は日本歌曲の研究と普及の会である「神戸波の会」の演奏会のプログラム解説文ですが、日本歌曲の歴史を体系的に順を追って書いたものがこれまでなかったの
で、これも是非出版したいと思っていたものです。
ということで、いつまで続くか判りませんが、取り敢えず新年にあたってスタート致しますので、ヒマが御座いましたら読んでやって下さい。(2015/01/17)
ページトップに戻る
トップページに戻る
先
日、
松岡さ
んから「これ面白いから、上げるよ」といって一冊の本を頂
いた。村上春樹が小沢征爾と対談した「小沢征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)という370頁にわたる大著だ。面白かった。読み出したら止めら
れず、一気に読んでしまった。
こ
れほ
ど上質
な対談を読んだのは久しぶりだった。とても気持ちのいい時
間が流れていた。それはいわば、創造的な仕事をしている人たちが語りあう場に居あわせて、ともに素敵な時間を過ごせたような気分だった。
僕
は村
上春樹
のものはこれまで読んだことがなくて、彼がこれほどの音楽
的教養の持ち主だとは知らなかった。その深さも並のものではない。自分で演奏したり歌ったりすることもなさそうで、そうだとすれば一般にいうクラシックマ
ニアという部類に属する人かもしれないが、そういう言葉で分類するには、はるかにそれを越えた凄い人だ。
か
れは
対談の
中で、同じシンフォニーでも何種類かの指揮者の演奏の違い
について語り、しかも同一の指揮者、同一の曲でも年月の違った録音の解釈の変化について述べたりする。殆ど信じられないほどの知識、理解の深さ、そして録
音メディアの豊富さだ。文字通り貧弱なCDしか持ち合わせない僕は、それだけで驚嘆してしまった。
し
かし
何より
素晴らしいのは、かれの音楽理解だ。音楽を実践しない人が
これほどの深い理解が可能なのかと思う。何かの縁で音楽の道が開けていたら、かれは間違いなく傑出した音楽家になったに違いないと思わせる。僕が日頃音楽
評論を読んで不満なのは、まずは文章がまずいこと。そして洒落臭い表現が多くて、ちっとも音楽の実体を捉えていない事だ。やっぱり他人事としてしか音楽を
捉えていない。一方では音楽を身を削って実際にやっている人達は文章を書かない。だから音楽評論は殆どが信用できない。しかし村上春樹は、演奏家でないに
もかかわらず演奏のあり方を、演奏家以上に語ってみせる。僕は、彼の語る言葉に、深い満足を覚えて読み終えたのだ。
村
上春
樹が演
奏家以上に語るというのは、実は小沢征爾との比較でも言え
る。小沢は指揮者だから、器楽奏者や声楽家以上に、いわゆる「解釈」というものを
し
ない
といけ
ない。
本能的に演奏したり歌って済ませるプレーヤーとは違って、それぞれの音楽のエッセンスを理解し、それを体の動きと言葉でもって説明しないと団員はついてこ
ない。ようするに解釈をしっかりして、それを言葉と動作で表現することが求められる立場にいる。だからこそ小沢は毎朝何時間もスコアリーディングをして勉
強するのだ。このフレーズに一体どういう意味があり、このリズムの変化で作曲家は何を云いたかったのか、といったことを考え続け、その解釈の積み重ねの上
に立ってシンフォニーの全体像を作り上げるとともに、各フレーズの表現を確定していく。
だ
か
ら、恐ら
く音楽評論家が対談をするとき、指揮者と話すのが一番面白
いだろうと想像出来る。指揮者が一番、曲の細部に至るまでその意味を理解し、さらには作曲家そのもについてもいろいろ思いをもって接していると考えられる
からだ。この本が素晴らしいのは、そういう指揮者小沢征爾と作家といういわば人間理解を本職とし、なおかつ音楽についての造詣の深い村上春樹が出会い、語
り合ったからだ。
し
かし
この対
談で面白かったのは、音楽理解においては実は小沢よりも村
上の方が一枚上ではないかと思った点だ。指揮者はたしかに音楽家の中では一番音楽理解にすぐれている、あるいは理解したものを自覚していると見ていいが、
依然として彼らは実践者なのである。スコアに接したとき、その音符の一つ一つが自分に語りかけ、感性を揺るがすとき、それに感性で応えていくことが何より
も仕事の中心である。
た
とえ
ば歌手
でありながら作曲家について勉強して、この作品はどのよう
な観点からアプローチしなければならないか、などと考えている人はそうそういない。ヴァイオリンやピアノ奏者でも似たり寄ったりだ。そんな問題より先に、
楽譜を演奏したときの興奮がその人を捉えるといってもいい。奏者にとっては楽譜さえあれば、それで充分で、それが魂を揺さぶれば、それに応えるのが演奏家
なのである。
そ
して
指揮者
もまた、根本はそういう音楽の実践家だといっていい。解釈
は必要だが、もっと必要なのは楽譜によって心が揺さぶられることなのである。そっ
ち
が大
きけれ
ば大き
いほど、解釈は二の次ともいえる。指揮者を含んで演奏家という再現芸術家は、楽譜を与えられたものとして、楽譜が自分に語りかけてくるものに応えようとす
る。応えていくときの精神の高揚があれば、それがどういうものであろうとも、楽譜を前にした精神の高揚そのものが絶対なのである。それを身をもって再現す
るのが音楽家というものだのだ。このことがマーラーについての対談で、はしなくも露呈されていた。
村
上春
樹は、
マーラーのシンフォニーの多様性、もっといえば支離滅裂さ
について話を持っていく。話はサイトウ・キネンの演奏する「巨人」について話し合っているときだ。あの中で「さすろう若人の歌」の旋律が出てくるが、その
部分を「天国の歌」だと小沢が云うと、「しかし唐突というか、何の脈絡もないというか、これがここに出てくるという必然性みたいなものがないですよね」と
村上が云う。それに対して小沢は「ぜんぜんない」と一応村上の意見にうなずきながら、すぐさま続けて「ほら、このハープ、ギターのつもりなんです」と別の
話に持って行っている。
と
ころ
が村上
は、ここでマーラーの音楽の中にある、支離滅裂性を一体ど
う考えればいいのかというきわめて大きな問題を持ち出しているのだ。そのあとも村上は色んな表現で、問いかける。このバラバラなものを、バラバラな物語の
羅列と解釈したらいいのかと問う。それとも、何も考えずにすべてを黙って「ぽんと受け入れ」るのですか、とも訊く。そうしたら小沢は、「僕ってあんまりそ
ういう風にものを考えることがないんだね」といい、「音楽そのもののことしか考えない。自分と音楽のあいだにあるものだけを頼るというか・・・」というよ
うに答に窮している。
結
局小
沢は村
上の問いに答えていないのだ。あるいは答えられなかった。
かれにとっては楽譜が自分に語りかけてくるものが全てであり、それが分裂していても、それはそういうものとして、自分のこころがその都度揺さぶられてい
く、その揺さぶられるあり方が問題で、「自分と音楽のあいだにあるものだけを頼る」というのは、楽譜が自分を揺り動かすその感情の動きを信じてそれに乗っ
かるだけだ、という事なのである。まるで法律家が、法の根拠を問うことなく、法の正義を絶対視しているように、楽譜に書かれたものが絶対であって、問題は
自分がそこに何を感じるかであり、その感じたものを表現することが使命だと思っている。
そ
れが
支離滅
裂であることは小沢もよく知っているのだが、何故支離滅裂
であるかを彼は問わない。かれにとって問題なのは、その支離滅裂な感情の展開にどこまで沿って行けるかということなのである。そして沿って行けたとき、沿
うことに精神が限りなく高揚すれば、それで最高の時が過ごせたのであり、それで指揮者としては充分な至福を得たことにもなる。そしてそれはオーケストラの
団員にも伝わり、感じられることなのである。
し
かし
僕はあ
えて云いたい。僕はそこに小沢征爾の限界を見るのである。
小沢はどんな音楽にも入ってゆこうとする、そして実際に入っていける柔軟な彼の感性を僕は素晴らしいとずっと思ってきた。それが彼のたぐいまれな感性、類
い希な資質だと思っている。しかしそれで済むのか。それぞれの音楽の持つ問題性を彼は問題にしないで済ませるのか。自分がその時、気分が良ければそれでい
いのか。それは芸術作品であろうと何であろうと、人間の営みをどう捉えるかという根本問題を孕んでいると僕は思う。そしてそれを適当に見過ごすは出来ない
と僕は思っている。それは根本のところでこの人生にどう向かうかという問題であり、芸術作品は、いつもその問題を僕らに突きつけていて、それに対して態度
決定を迫っている。そこのところが曖昧なまま、本当の音楽解釈は成り立たない。
もっ
と
もこん
な事を考えている音楽評論家もいないし、指揮者もいないの
かもしれない。僕が、いわば過度な要求を突きつけているのかもしれない。しかし僕は小沢という指揮者に期待するものが多かっただけに、逆に彼へ要求も大き
くなる。そして不満も大きくなるのだ。この問題はモーツアルトやベートーヴェンの演奏解釈とも直接連なる問題だからである。芸術そのものの人生にとっての
意味を問う問題だからである。
と
にか
く村上
春樹は、僕が問題にしている問題を、そのまま小沢にぶつけ
ている。それが僕にはことのほか印象深かったし、ぼくも同じ問題を小沢に問いかけたいと思っていた。さすが作家だ。しかし小沢は答えなかった。村上春樹の
疑問に答える指揮者が日本にも現れて欲しい、とそんなことに思いを巡らしながら、これほど楽しんだ本は近来なかった。 (2011/12/23)
ページトップに戻る
トップページに戻る
念
願の
モツレ
クの演奏会を終えて、ちょっとした放心状態が2,3日続き
ました。素晴らしい演奏が出来たとともに、凄い反響でした。それで皆さんに、お礼を兼ねて僕の感じたことを書いて、ご報告に代えたいと思います。
第
一ス
テージ
のディヴェルティメントは、皆さんは舞台裏でしたから、聴
いておられなかったでしょうが、じつはこの演奏も、とてもいいものでした。この曲の練習は、一週間前も前日も正味10分づつしか出来ず、当日のリハーサル
でやっと20分取れただけだったのです。葺合センターではレクイエムの練習がずれ込み、そのあとの椅子の片付けがあり、更に10分前には終わらないといけ
ないという制約があったからです。
た
だ弦
楽奏者
の方々にしたら、すでに何回となく弾いて来ているものです
から、技術的には心配いらない。それで僕のテンポとイメージのポイントだけをしっかり伝えて、あとは僕がカルロス・クライバーになって振るから宜しく頼む
という風に云ってスタートしたのです。ウィーンものはカルロスの優美で遊びに満ちた振り方がもっともよく似合う。ザルツブルクで作ったディヴェルティメン
トでも、少なくともあの曲はウィーン風にやりたかった。それでそう申し上げて振りました。細かいところで多少の不揃いはあったけど、彼らは実に楽しくこれ
に応えてくれました。CDかDVDでお聞きになれば、少なくともその雰囲気はお分かりいただけると信じています。
そ
して
いよい
よレクイエムです。僕はもっと心臓がバクバクするのではな
いかと想像していたのですが、すでにディヴェルティメントでステージに上がっていたからか、そこまでは緊張しなかった。むしろ「やっと来たぜ、やってやる
ぜ!」という気持ちになって指揮台に上りました。そして皆さんに楽譜を開けるよう合図したとたんに、練習の時の僕に戻っていました。こころの中では「集中
しろよ!、集中だぞ!」と呼びかけていました。 そしで第一拍目のタクトを下ろしたとたんに、もう僕の心の中はアッという間にモーツアルトの音楽が鳴り響
き、それと同時に現実の音が目の前で舞い上がりました。僕の体は完全にイントロイトゥスの音楽にハイジャックされていました。あとは体を満たした音楽に、
ただ身をゆだねるのみでした。
バ
ス・
パート
に始まる合唱も絶好調という感じでした。喧しく云ってきた
あの付点がバッチシ! 次々と決まっていきました。 これでいい、これでいい!
そ
して
「キリ
エ」、そのテンポは本番が最高でした! 時間的に云えば、
ほんの僅か早くなったということなんですが、それとともに縦糸、横糸ともに本当のダイナミックなリズム、エネルギーが生まれていました。あとで考えたので
すが、どうしてそうなったかといえば、いつに冒頭のテーマの付点への覚悟でしょう。「キリエ」のキからリへの飛び込んだタイミング、そして「エレイソン」
のエとレのタイミング、どれも素晴らしかった。要するに「キリエ、エレイソン」という縦糸のテーマが素晴らしかった。それがダイナミックに決まると、次の
横糸の8分音符(クリステ)が気持ちよく突っ込んでいける。本番の高揚した気持ちと集中力がそう言った素晴らしい効果を生んだのだと思います。その勢いに
乗ってディエス・イレも最高の出来。歌う方に回りたいと思ったほどでした。
こ
こま
で来た
らもう最後までこの調子が続くことが確信できました。第四
曲はバスから始まる重唱ですが、いい感じでそれぞれに歌い終えると「恐るべき王、Rex」そして再び重唱の「レコルダーレ」。皆さんも高揚した中で、素晴
らしい集中力でした。とりわけ「ルックス・エテルナ」の最後の2曲は感動的でした。ここで「レクイエム」が鳴り響いているという感動でした。もう終わりな
のか、もっと歌いたい、僕は振っていたい! と思わせました。顔の汗と目から出てくる汗の区別がつかなくなってしまいました。文字通り、もう思い残すもの
はない、と思えた瞬間でした。そういう思いをさせていただいた事に心より感謝申し上げます。
そ
れに
しても
拍手が凄かったですね。あれほど鳴りやまぬ拍手は僕は初め
てだったし、おそらく皆さんも初めてだったろうと思います。ステージを引っ込んで、もう拍手も終わるだろうと、すっかり終わった気持ちになって退場してく
る皆さんと握手を続けていたのに、まだ鳴りやまない。それでびっくりしてもう一度僕だけステージに戻ったらまだ3分の1ほどのお客さんが座ったまま拍手を
していました。丁重にお礼をしましたが、信じられない光景でした。
家
に
帰ってか
ら、何通ものメールが来ました。感動で涙が出てきたとか、
涙が止まらなかったという人の数も10人ぐらい居たでしょうか。考えてみたら僕が演奏会場で涙を流したのは、ベームがウィン・フィルと来て、アンコールに
J・シュトラウスの「青きドナウ」を演奏した時の1回だけでした。そのことを思うと、こんなに多くの涙を流させた演奏会は、ほんとうに感動的な演奏だった
に違いないと思います。
実
際、
僕らの
レクイエムは、ほんとうに心のこもった、このうえなく高揚
した状態で歌い尽くしたものでした。あとで何人かの人に、この1年間でレクイエムのCDを聴いたのが100回を下らなかったとか、最後の一週間はレクイエ
ム漬けで必死だったとかいうお話を聞きました。お一人、お一人に聞けば、おそらく同様の話が一杯出てくるのではないかとその時思いました。一人、一人が本
気でこのレクイエムに取り組み、素晴らしい音楽を生み出したいと思った、その願いがあの集中力と熱気を生み出した。そして僕も、皆さんもその気持ちを共有
して演奏が出来たのだと思います。演奏の結果も素晴らしかったけど、結果だけでなく、この一年を通じて、そういう共同作業が皆さんの熱意のもとで実現した
ことがほんとうに嬉しいことだと思います。
そ
の意
味で
は、本番のみならず僕には練習が楽しかった。実に充実した練
習が出来たと思っています。二週間に一度の練習は、いつも大汗をかいて、時には目からまで汗を流しながらのことでしたが、いつも夢中でした。家に帰ったら
食事を用意する力もなくて、長椅子に倒れ込んだらいつも1時間ほど寝込んでいました。そしてそれだけの事を僕にさせるものがありました。それは曲の素晴ら
しさであると共に、皆さんのレスポンスの素晴らしさでした。練習の時の目の輝きでした。
僕
は最
初の
エッセーで、これは僕のための企画であるよりは、一人一人が
参加した一つの運動体だと書きました。それが見事に果たされたことを皆さんともども喜びたいと思います。でも最後に、実行委員の皆さまに改めてお礼を申し
たいと思います。企画の立案から細々とした提案と実行、人集め、当日のスケジュールの作成、ならびにホールとの折衝、名札作りや椅子の用意などの驚くほど
の雑用、そして万一客席が溢れたときの対策など、数え上げたら切りがないほど、それら全ての事の中心になって頂きました。本当ににありがとうございまし
た。そして最後に、これほど素晴らしい時を持てた事を皆さまと共に誇りに思い、喜びたいと思います。有り難うございました。(2011/08/04)
ページトップに戻る
トップページに戻る
先
日、
北海道
新聞からシューマン生誕200年に寄せて、なんでもいいか
ら書いて欲しいという依頼を受けました。北海道は僕の生まれ故郷(小樽市)でもあって、それで喜んで書きましたが、何せ遠いところで、皆さんの目に触れる
こともないと思い、それを載せることにします。
*******************************************
シューマン
が大作曲家であるのは、いうまでもないことだが、彼から受
けるイメージは大作曲家という仰々しい肩書きにそぐわない。その作品には、一人一人に語りかけてくる親しさがあり、その人となりも、感性豊かな若者を想像
させるのである。僕はそういう彼を究極のロマンチストと呼んだ(「シューベルトとシューマン 青春の軌跡」音楽之友社)。
そ
れで
思い出
すのは、クラーラとの恋である。よく知られているようにク
ラーラはシューマンのピアノ教師だったヴィークの娘である。シューマンが初めてクラーラと出会ったのは、クラーラが9歳の時だが、シューマンがヴィーク家
に下宿して彼らが毎日親しくするようになったときもまだ11歳だった。シューマン20歳のころで、今でいえば片や小学生、片や大学生という年格好だったの
である。だから親しくなったといっても、シューマンはクラーラにおとぎ話やお化けの話をしてやって、クラーラを面白がらせたり怖がらせたりしていたのであ
る。
し
かし
ながら
実をいうとシューマンは早くからクラーラの像を自分の中で
作り上げていた。12歳のクラーラに彼は次のような手紙を書き送っている。「ぼくはよくあなたのことを思っています。それは兄が妹のことを思ったり、男の
友だちが女の友だちのことを思うのとはちがって、巡礼者が聖画像を思うようなものです」。
こ
のこ
ろドイ
ツロマン派の詩人たちの間では、思春期に入ったばかりの少
女を愛するという風潮が熱病のように広がっていたが、その影響を強く受けていた文学青年でもあったシューマンは、まさにそれに相応しい少女と出会ったので
ある。クラーラが美しく才能豊かな天才少女であれば、彼女の姿は聖女のように彼の中で膨らんでいったのである。
し
かし
二人の
恋はもともと許されるはずもなかった。男手ひとつで周到な
計画のともに天才少女を育ててきたヴィークにとって、その見事な作品とも呼ぶべき娘が、将来どうなるか分からない若手作曲家のものになるということなど絶
対に許せるものではなかった。二人の想いが発覚してからの6年間、ヴィークはあらゆる手段をもって、つまり父親の権威、ピアノ教師、音楽界の名士といった
立場をもって、二人の中を裂きにかかるのだ。この争いは結局若い二人が裁判に訴えることで決着がつく。その経緯は、悲劇的な音楽家と喜劇を演ずることにな
る父親として描かれ、ロマン派の音楽家を象徴するエピソードとして語りつがれてきた。たしかに残された二人のメモや手紙は、熱き純愛とでも呼びたい情熱を
まっとうした姿を彷彿をさせる。それは世紀の恋と呼ぶにふさわしいものだ。
し
かし
このよ
うな大恋愛はいつの世にも存在するとすれば、シューマンが
特異なのは、むしろその後のことである。シューマンは結婚したあとも、子供を7人ももうけたあとでさえもクラーラを恋し続けたのだ。通常、人が結婚し、あ
まつさえ7人もの子供をもうけたら恋は覚める。いずれ相手は女神であることをやめて、等身大の女になる。そしてそれから本当の愛が始まるといってもよい。
どれだけ惚れても4年が限度だといったのは宇野千代である。しかしシューマンに限度はなかった。何故シューマンの恋は覚めなかったのか。いろんなことが考
えられるだろうが、一つはっきりしているのは、彼が生身のクラーラよりは、彼が信じて疑わなかった聖女クラーラを愛していたという事である。つまり彼は観
念の中のクラーラを愛していたということである。
人
はこ
れを
もって夢想家とでもいうのであろうか。しかし彼の人生を見て
いると、人々が現実と呼ぶものこそ非現実なものであり、非現実な観念こそが現実的なものだというニーチェの思想を思い起こさせる。本当に人生を支えるもの
は何なのか。それを「金だ」という現実主義者は、「それは金だ」という観念に支配されているに過ぎないのではないか。もし本当の現実主義者だったら、人は
観念によってこそ生きるものであるといい、むしろ金の主張者を観念論者だというのではあるまいか。
シュー
マンの
ロマンは、夢想でも絵空事でもない。観念に殉じた究極のロ
マンチストであることによって、彼は人生にとってかけがえのない美をこの世に生み出したのである。
(2010/06/04)
ページトップに戻る
トップページに戻る
つい
先日、
4月17日(土)に東京の浜離宮朝日ホールで、東京六甲の
三回目の定期演奏会に行って来ました。こちらから出かけたのは、今回は僕一人だったので、ご報告がてらお話ししたいと思います。
今
回ス
テージ
に上がった人数はちょうど30名でした。プログラムは第1
ステージが林光編曲の「日本抒情歌曲集」。これは新しい団内指揮者の竹本さん(17回生)が指揮。第2ステージは横山さんたちが改めて校正、出版された
プーランクの「フランスの歌」。これは仲子さんの指揮。後半の第3ステージは佐藤真の「旅」。これは僕と同期の静川君が振りました。そして最後のステージ
は北村協一編曲の「トスティ 歌曲集」で、これは仲子さんの指揮でした。
ま
ず印
象的
だったのは、3回の定期演奏会を通じて着実に力を付けてきて
いるように思えた事です。質量とも上昇期を迎えつつあるという印象でした。たとえば第一ステージを歌い始めた途端に、その流れがとても気持が良い。第1曲
は「浜辺の歌」でしたが、日本ものであるという歌い易さはあるとしても、レガートの歌唱法がとてもいい感じで流れてきました。指揮者の竹本さんも、8分の
6拍子という日本人にはちょっと難しいリズムであるにも拘わらず、実にいいテンポ設定で、歌う方も気持ちよく歌っているという感じでした。他の曲も、竹本
さんの指揮ぶりが良くて、東京六甲も新しいスタッフが加わって、これから期待がもてるという印象を持ちました。
第
二ス
テージ
はプーランクですが、これは横山さんを初めとする彼らの意
気込みが伝わってくる演奏でした。客観的に見て、お客さんにアッピールしたかどうか、その辺はちょっと疑問が残ります。というのは、この曲はもともと観客
にアッピールするようなメロディがあるわけではないし、ダイナミックな盛り上がりで圧倒するものもない。あるいは土着的な、エモーショナルな訴えるものも
ない。しかもその和音構成は極めてモダンで、主要三和音で、僕らの気持が安らぐこともない。だとすれば、歌う方も聞く方も、安心して気持ちよくなる所がな
いのです。
そ
れで
はこの
曲の持ち味がどこにあるかと云えば、実はフランス人特有の
エスプリのきいた洒落たものだという点です。しかしコノ味を出すには、まず音程がきっちりしていないとダメです。あのモダンな洒落た不協和音を、洒落たも
のと感じさせるには、その不協和音が美しく響いてくれないといけない。ところがピッチが不正確だと、文字通り不安定な不協和音となって、どこが洒落ている
のか皆目見当がつかないという事になってしまう。そこに、フランス語特有のイントネーションからくるリズム体系がある。これはドイツ系と全く異なる軽快さ
が要求されます。
一
口で
言う
と、この曲で観衆を感動させるにはプロの技、しかもフランス
語が堪能な人たちのプロの技がいるといっても過言ではない。そういう曲なのです。それを彼らが大変な意気込みでやりました。僕は実は、最初は「やっぱり無
理だよな!」という感じで聞き始めたのですが、途中で、「いや、良くやっている、実によく頑張っている」と思い始め、そのうち感動に変わりました。指揮者
の仲子さんも、さすがにプロで、この曲を自分なりの解釈でもって、精一杯団員を引っ張っていて、皆さんがそれに応え、後半は指揮者と歌い手が一体化して
いった。その事に感動したわけです。
最
初に
書いた
ように、技術的には難しいものでしたが、僕は彼らの健闘を
たたえたいと思いました。
第
三ス
テージ
の「旅」は、静川君の感性が非常に良く出ていて、団員の皆
さんも、それによく応えていたと思いました。安心して聞く事が出来ました。しかもうら若き女優さん(劇団民芸の若手)のナレーションいりで、これがまたと
てもいい感じで気分転換を与えていました。この曲をやるなら、やっぱりナレーション入りだ、と思わせました。多分観客の方たちは、プーランクよりこのス
テージの方に感動したでしょう。
そ
して
第4ス
テージはトスティ。実はこのステージが、僕には一番つまら
なかった。もちろん指揮者は仲子さんですし、彼らの実力アップに裏打ちされて、綺麗なトスティを聞かせてもらったのですが、イタリアものなら、どうして
もっと歌わないのですか、という感じでした。わが六甲のテナーなら、「俺にまかせろ!」とばかりに歌うでしょうね。まあ、それが結果的に聞くに堪えるもの
になるかどうか分かりませんが、ともかくイタリアものであれば、もう少し歌って欲しかったというのが、偽らざる気持ちでした。別のいい方をすれば、イタリ
アものにしては、日本人として上品に過ぎたかと思ったわけです。
そ
して
アン
コールは、暗譜でJ・シュトラウスの「ウィーン わが街」を
日本語でやりました。その最後で、「ウィーン」のところを「六甲台から見た街は・・」と歌い、最後は「コーベー・・・」とやりました。以前もこの替え歌を
やったのですが、ちょっとジーンと来ました。東京という異郷で、大学の故郷としての神戸を歌う気持もさぞや、と思われました。実にいい感じでコンサートを
締めくくっていました。
と
もか
く東京
の連中も次第に実力をつけて来ました。昨年は、合同でド
ヴォルザークを歌うという、とてもいい機会を持ちましたが、またそういう機会が持てたらと思いながら帰阪した次第です。 (2010/04/20)
ページトップに戻る
トップページに戻る
今朝(2月21日)の産経新聞の書評欄に拙著の書評が出ました。ちょっと気恥ずかしくもありますが、やはり嬉しくもあり、ここに載せることにしました。仲
間として、共に喜んでいただければと思う気持ちです。
評
者の
大野芳
氏は、ノンフィクション作家として著書「北針」で第一回潮
賞ノンフィクション部門特別賞を受賞されておられますが、その後「山本五十六自決せり」、「伊藤博文暗殺事件」、あるいは三無事件を扱った「革命」など、
近代日本の政治の裏面をえぐるような仕事をしておられます。と同時に「近衛秀麿ー日本のオーケストラをつくった男ー」とか「ハンガリア舞曲をもう一度」、
「瀕死の白鳥ー亡命者エリアナ・パブロバの生涯」など音楽にまつわるノンフィクションも扱っておられ、音楽への造詣も深い方です。
「名曲を聞いてみたくなる 評・大野芳(作家)
演
奏家
の立場
から「読む音楽会」というのが成立するかどうか。著者の井
上和雄が23年前に処女作『モーツァルト 心の軌跡』を発表したときの感想である。それがサントリー学芸賞を受賞し、読む音楽会の成立を見事に実証してみ
せた。井上は当時、神戸商船大学で教鞭をとる経済学者。一方、プロとアマによる弦楽四重奏団「ブタコレラ・カルテット」を主宰し、第二ヴァイオリンを担当
する演奏家でもあった。同著は、カルテットの面々がモーツァルトの難曲に挑み翻弄される彼方に、得意満面の幼い天才を見、徐々に成熟する心の軌跡を描いた
もの。評論でもなくアナリーゼの範疇にもおさまりきらない作品だった。その後、ベートーヴェン、ハイドンを、同じく弦楽四重奏曲を通して書き、音楽評論の
分野に新機軸を築きあげた。
本
書に
取り上
げたシューベルトとシューマンは、メンデルスゾーンやブ
ラームスらとともにロマン派と呼ばれる作曲家である。音楽が宮廷や教会から中産階級のもとに移行し、古典派の楽式を継承しながら自己の感情を切々と謳いあ
げた時代であった。シューベルトは、もっとも詩情豊かな歌曲の王と呼ばれたが、井上は弦楽四重奏曲「ロザムンデ」を冒頭に挙げ〈どこか諦めをにおわすもの
があり、あるいはひ弱ささえ感じさせる〉と評する。そして大人に成るのを拒否したシューベルトは、その諦念とひ弱さを美しく歌うことによってシューベルト
になったという。このときシューベルトは、27歳。死の5年前である。青年の心をもち続けるのは〈当時としては希有なこと〉と書く。
シュー
マンで
は、〈一つ一つの音が変わるたびに後ろ髪を引かれながらも
前に進んでいくような趣〉とか、〈靄が立ちこめたような世界を出現〉といった表現を用いて貴公子シューマンの魅力を語る。井上は、楽曲を演奏して読み解
き、古今の大批評家に真っ向から挑むかと思えば、惑溺に近い陶酔ぶりでふたりの作曲家の青春像を描いている。井上流に料理された名曲の数々を、もう一度聴
いてみたくなる不思議な本である。」 (2010/02/21)
ページトップに戻る
トップページに戻る
ホームページで音楽監督としての
私の欄が儲けられることになりました。それでまずは音楽監督という役職というか、立場が、どのようして出来たのかをお話しします。
実
は六
甲男声
合唱団の音楽監督という立場を僕が引き受けたのがいつのこ
とだったかよく思い出せないのですが、この役職は、いま休団中の以前のマネジャーだった渡辺さんが作ったものです。渡辺さんがこのシステムを導入した時の
経緯からしますと、要するに彼は僕に対して、お前は音楽に専念してリーダーシップを発揮しろ。そのかわりマネージ関係は別の人間がちゃんとしたシステムを
もってやっていく、というものでした。
じっ
さ
いそれ
以降、もう10年以上前からですが、マネージャー陣のシス
テムが見事に整理されてゆきました。それまでマネジャーは渡辺さん一人、その他に会計担当として川本さんが金銭関係を一手に引き受けていました。それが運
営委員会とその内部での様々なマネジャー職の分担、そしてパートマネジャーの設置、さらには音楽委員会など、以前には考えられないほどのマネジャー陣の整
備が行われ、また団員数もそのころから考えると倍増しました。
と
ころ
で音楽
監督の明示的な役職としてはパートリーダーの任命ぐらいの
ものですが、渡辺さんが音楽監督という役職を作って僕にそれを引き受けるよう云ってきたときの彼のイメージは、通常のオーケストラの音楽監督に準じて、こ
の合唱団の選曲やステージ構成などについての音楽的リーダーシップを発揮しろというものでした。彼は他の音楽団体の活動をいろいろ知るにつけても、演奏団
体を恒久的で、しかも実りある団体にするには、マネジメントと音楽的リーダーシップをはっきり分けると同時に、その事によって指揮者が音楽に専念できる環
境作りをしていく必要があると僕に説いたのです。といっても実のところ、明文化された規約があるわけでもないのですが、それならやりましょうと引き受けた
のが、そもそもの始まりでした。
し
た
がって今
にいたるまで音楽監督なるものが一体何をやるべきなのか明
文化されたものは何もありません。そしておそらく団員の皆さんもただ漠然と、オーケストラなどで音楽上の人事権まで持った指揮者が音楽監督であるのに準じ
て、何となく通常の指揮者とちょっと違って、合唱団全体の音楽的リーダーシップを任された役職のように感じて頂いているのではないでしょうか。実は僕もそ
れぐらいの自覚しかないのです。
た
だそ
うは
いっても、渡辺さんの意図そのものは、まさに音楽監督という
その言葉だけで誰もが感じるそのリーダーシップにあることは了解されると思って、僕自身、そういう役割を引き受けているのです。
と
いう
こと
は、この無言の了解が何らかの理由で溶けていけば、この役職
も知らぬ間になくなってしまうものでもありましょう。ただ、今のところは、そういう了解が成り立っていると信じて、そういう役割をしっかり果たしたいと
思っていますのでご協力を宜しくお願い致します。少なくとも僕自身は、渡辺さんにそういう役を作って頂いたがゆえに、彼が望んだようにこの合唱団が、まさ
に素晴らしい音楽に向けて絶えず向上して来たと思っています。
最
初に当たって、ともかく他
の合唱団にない音楽監督というものが、なぜ六甲男声に存在することになったのかという話をしました。次回からは、もう少し個人的な話になるかもしれませ
ん。まあ出たとこ勝負でやりましょう。
(2010/02/05)
ページトップに戻る
トップページに戻る
|